『放課後、僕らは嘘を重ねる』 作:トート
「何もなかった」
あの夜の別れ際、律が言い残したその一言は、呪いのように私の毎日に張り付いていた。
朝、鏡の前に立つたび、自分の首筋や肩のあたりに、もう消えてしまったはずの律の指の痕を探してしまう。もちろん、そこには何もない。目に見える傷跡なんて一つもないのに、下腹部の奥のほうが、今も鈍く重たい痛みを放っているような気がしてならなかった。
学校へ向かういつもの坂道。
一歩進むごとに、あの日の雨の匂いが、律の荒い呼吸が、頭の中でフラッシュバックする。
普通でいなきゃ。いつも通りに笑わなきゃ。
そう自分に言い聞かせるほど、私の身体は鉛のように重くなっていった。
「葵、おはよー! 今日もいい天気だね!」
後ろから元気よく声をかけてきた結衣の笑顔が、眩しすぎて直視できない。
「あ……結衣、おはよう」
「ねえねえ、今日の放課後さ、いよいよ看板を教室の前に設置するんだよ! 律と一ノ瀬くんにも手伝ってもらうから、葵も絶対来てね?」
「うん。行くよ、約束だもんね」
結衣の細い指が、私のブレザーの袖をきゅっと掴む。その純粋な接触に、私は罪悪感で吐き気がしそうだった。
結衣。私はあなたの一番大切な幼馴染を、あなたの身代わりにすることで、めちゃくちゃに傷つけてしまった。そして私もまた、あなたの一番好きな人の代わりに、律の身体を貪(むさぼ)った。
そんなドロドロとした秘密を抱えたまま、私はどの面を下げて「親友」の顔をしていればいいのだろう。
下駄箱の前に着くと、ちょうど律が上履きに履き替えているところだった。
「あ、律! おはよ!」
結衣がいつものように無邪気に声をかける。
律の背中が一瞬、強張った。
彼はゆっくりと振り返った。その目は、完全に私の存在をスルーして、結衣だけを見ていた。
「……おう」
「律、最近全然口きいてくれないから寂しいよー。今日の放課後、ちゃんと手伝ってよね? 看板、すごく重いんだから!」
結衣が少し拗ねたように唇を尖らせる。
律はそんな結衣をじっと見つめた後、ふっと自嘲気味な笑みを浮かべた。
「分かってるよ。佐倉が困ってんなら、行くに決まってんだろ」
その言葉は、いつもの「ぶっきらぼうだけど優しい律」の台詞だった。
だけど、私には分かった。律の声は、中身が空っぽの、ただの演技だ。彼は結衣の前で「理想の幼馴染」を演じることで、自分の中の罪悪感と、結衣への未練を必死に誤魔化そうとしているのだ。
律は一度も、私の方を見なかった。
徹底的に、私の存在を景色の一部として処理している。
それが、私たちの結んだ「嘘の協定」のルールだった。お互いを見ない。お互いに触れない。あの夜のことは、すべて雨が降らせた幻だったことにする。
胸の奥が、ぎりぎりと音を立てて軋(きし)んだ。
寂しい、と思ってしまった自分に、私は激しい嫌悪感を抱いた。
放課後の美術室。
完成した巨大な看板パネルが、夕日に照らされて怪しく光っていた。
一ノ瀬くんが丁寧に塗った深い夜空のグラデーションの上に、結衣が描いた色鮮やかなチュロスのイラストが映えている。
「よし、これで全員揃ったね。じゃあ、これを一年生の教室の前の廊下まで運ぼう!」
結衣が張り切って指示を出す。
「長谷川くん、僕が右側を持つから、君は左側をお願いできるかな」
一ノ瀬くんが、冷静な声で律に呼びかけた。
「……チッ、分かったよ」
律は面倒くさそうに返事をし、パネルの左端をがっしりと掴んだ。
二人の男子が、一枚のパネルを両側から支える。その光景は、どこか一触即発の緊張感を孕んでいた。結衣を巡って対立する二人。だけど、彼らの間にある空気は、それだけではない歪みを孕み始めていた。
「水瀬さんは、後ろから電飾のコードが付いてこないように見ててくれる?」
一ノ瀬くんが私に向かって微笑む。その眼鏡の奥の目は、相変わらず私の動揺を見透かすように冷徹だった。
「あ、うん。分かった」
廊下に出ると、秋の終わりの冷たい風が、窓の隙間から吹き込んできた。
前を歩く律の広い背中を見つめながら、私はあの夜、あの背中にしがみついていた自分の指の感触を思い出していた。
(バカなこと考えちゃダメ……。忘れるって、決めたのに)
「あ、痛っ……!」
その時、前を歩いていた結衣が、廊下に置いてあったモップの柄に足を取られてバランスを崩した。
「結衣ちゃん!」
一ノ瀬くんが咄嗟に手を伸ばし、結衣の身体を抱きとめる。
その拍子に、二人が持っていた巨大な看板パネルが、ぐらりと大きく傾いた。
「うおっと……!」
律が一人でパネルを支えようと、強引に力を込める。
バキッ、と鈍い音がして、木製の枠組みが律の指を強く挟んだ。
「律!」
私が思わず叫び、駆け寄る。
律は顔をしかめ、パネルを床に下ろすと、右手を押さえてうずくまった。
彼の親指の付け根から、鮮やかな赤い血が、ぽつり、ぽつりと廊下の床に落ちていく。
「大変! 律、ごめんなさい! 私のせいで……!」
結衣が顔を真っ青にして律に駆け寄る。
「……大したことねえよ。かすり傷だ」
律は結衣の手を荒っぽく振り払い、立ち上がろうとした。だけど、傷口は意外と深く、血は止まる気配がない。
「長谷川くん、無理をしないで。保健室に行って手当てをしてきた方がいい」
一ノ瀬くんが冷静に言った。その正論が、今の律には何よりも癪(しゃく)に障るようだった。
「うるせえ、あいつの言う通りにすんな」
律は私を睨みつけるように言った。「葵、お前、ちょっと来い。保健室の場所、分かるだろ」
律は私を指名した。
結衣ではなく、私を。
一瞬、結衣の目に、戸惑いと小さな寂しさが浮かんだのを私は見た。だけど、律の強硬な態度に、彼女はそれ以上何も言えなかった。
「……うん。行こう、律」
私は、床に落ちた血の跡を見つめながら、律の後に続いた。
放課後の保健室は、先生が職員会議で席を外しており、静まり返っていた。
薬品の匂いが充満する静寂の中で、律はベッドの端に腰を下ろし、血の滲む右手を見つめていた。
「座って。消毒するから」
私は救急箱から消毒液とガーゼを取り出し、律の前に立った。
律は無言で、怪我をした右手を私に差し出した。
彼の大きな手を取る。指先が触れ合った瞬間、お互いの身体が小さく、同時に跳ねた。
あの夜以来、初めての、肌の接触。
嘘の協定が、物理的に崩れた瞬間だった。
「……痛い?」
私が消毒綿を傷口に当てると、律は微かに眉をひそめたが、声は出さなかった。
「これくらい、何でもねえよ。サッカー部で、もっとひどいケガ何度もしてる」
「そう、だよね……」
私は丁寧に血を拭き取り、ガーゼを当てて包帯を巻いていく。
手元の作業に集中しようとすればするほど、律の体温が、彼の独特の匂いが、私の鼻腔を、そして脳の芯を痺れさせていく。
「なあ、葵」
頭上から、低く、掠れた声が降ってきた。
「ん……?」
「お前、あいつと何話したんだよ」
「あいつって……一ノ瀬くん?」
「あいつが、俺たちのこと、怪しんでる。……お前、なんか喋ったんじゃねえだろうな」
律の目が、鋭く私を射抜いた。その目には、秘密が暴かれることへの、剥き出しの恐怖が宿っていた。
「何も言ってないよ」私は包帯を結びながら、静かに首を振った。「一ノ瀬くんは、律の様子がおかしいから、結衣ちゃんを傷つけないようにストッパーになってくれって、私に頼んできただけ。……私たちのことなんて、気づいてないよ」
「そうかよ……」
律は小さく息を吐き、包帯の巻かれた自分の手を見つめた。
「あいつは、どこまでも綺麗だな。佐倉を守るためなら、俺たちを道具にするのも厭わねえってわけだ」
「律……」
「俺さ、毎日、朝が来るのが怖いんだよ」
律がぽつりと漏らした言葉に、私の手が止まった。
「目が覚めるたびにさ、一瞬、全部夢だったんじゃないかって思うんだ。でも、学校に来て、佐倉の顔を見て、お前の顔を見ると、あの日、俺が犯した最悪の間違いが、現実だって突きつけられる」
律の肩が、微かに震えていた。
「俺は、佐倉のことが好きだった。今でも、あいつが一番綺麗だと思ってる。だけど……もう、あいつの隣に胸を張って立つ資格なんて、俺にはねえんだよ。自分を裏切って、お前を裏切って、こんな汚い秘密を抱えちまったからな」
律の言葉は、私の胸の奥の、一番痛い場所を正確に抉り取った。
(私だって、同じだよ、律……)
私も、一ノ瀬くんのことが好きだった。だけど、もう彼を純粋な目で見ることはできない。彼への憧れの裏側には、いつもあの夜の、律の重みと、結衣への裏切りの罪悪感が、黒い影となってへばりついている。
「……ごめんね、律。私が、あのとき拒まなかったから」
「責めてねえよ。……俺が、弱かっただけだ」
律はベッドから立ち上がり、巻かれた包帯をポケットに押し込むようにして隠した。
「行くぞ。あいつらを待たせてる」
ドアノブに手をかけた律の背中は、夕暮れの影に溶けて、ひどく脆く見えた。
私たちは、お互いの存在によって、より深く傷つき、より深く追い詰められていく。
何もなかったことにする、という嘘の代償は、私たちが想像していたよりも遥かに重く、鋭い刃となって、私たちの心を削り続けていた。
美術室に戻ると、看板パネルはすでに元の位置に綺麗に設置されていた。
一ノ瀬くんと結衣が、並んで片付けをしている。
「あ、律! 大丈夫だった?」
結衣が心配そうに駆け寄ってくる。
「おう。ただの擦り傷だ。包帯大げさだけど、明日には外せる」
律はポケットから怪我をしていない左手を出して、結衣の頭をぽんぽんと叩いた。その仕草は、完璧な「優しい幼馴染」のものだった。
「良かったぁ……本当にごめんね、律」
結衣がホッとしたように胸をなでおろす。
その時、一ノ瀬くんが私の隣を通り過ぎ、律の前に立った。
「長谷川くん。怪我をさせたのは僕たちの不注意だ。すまなかった」
一ノ瀬くんは、綺麗に頭を下げた。
「いいって言ってるだろ。しつこい奴は嫌われるぞ、一ノ瀬」
律はわざと挑発するように笑った。
「……そうだね。気をつけるよ」
一ノ瀬くんは表情を変えずに顔を上げた。だけど、彼の視線は、律のポケットに隠された右手ではなく、私の、少し赤くなった指先へと向けられていた。
一ノ瀬くんの目が、かすかに細められる。
(気づかれた……?)
心臓が、恐怖で冷たく凍りつく。
私は慌てて、両手をブレザーのポケットの中に隠した。
「じゃあ、明日からいよいよ文化祭だね! みんな、頑張ろう!」
結衣が、何も知らずに、楽しそうに両手を合わせた。
その笑顔の後ろで、私と律、そして一ノ瀬くんの視線が、静かに、そして激しく火花を散らしていた。
朝焼けが来るたびに募る、消えない罪悪感。
私たちは、自分たちの嘘が作り出した歪な日常のなかで、一歩一歩、確実に出口のない奈落へと歩みを進めていた。
文化祭という、誰もが浮き足立つお祭りの裏側で、私たちの四角関係は、いよいよ最悪の形で崩壊の時を迎えようとしていた――。