『放課後、僕らは嘘を重ねる』   作:トート

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第6話:歪んだ四角形

文化祭前夜の校舎は、昼間の喧騒を嘘のように吸い込んで、奇妙な熱気と静寂を同時に孕んでいた。

廊下には各クラスが作った段ボールの装飾や看板が並び、明日の本番を待つばかりになっている。大半の生徒はすでに下校を促され、校内に残っているのは、最終調整を許された一部の実行委員や、居残りを申請した数グループだけだった。

「これで……本当に終わり、だね」

二年B組の教室の前。葵は、完成したチュロスの模擬店の看板を見上げて、ぽつりと言った。

木製の大きなフレームに、一ノ瀬くんが描いた深い群青の夜空。そこに結衣の描いた鮮やかなイラストが躍り、私たちが苦労して配線したLEDの電飾が、チカチカと星のように瞬いている。

「うん! めっちゃ綺麗! 葵、律、一ノ瀬くん、本当にありがとー!」

結衣が私の両手を握りしめ、ぴょんぴょんと跳ねる。彼女の瞳には、一切の曇りもない純粋な達成感が満ちていた。

一ノ瀬くんは、そんな結衣を少し離れた場所から、いつもの穏やかな、だけどどこか熱を帯びた眼差しで見つめている。

「長谷川くんも、手が痛むのに最後まで手伝ってくれて助かったよ」

一ノ瀬くんが律に向かって声をかけた。

律は、制服のポケットに包帯の巻かれた右手を突っ込んだまま、壁に背中を預けていた。彼の視線は一ノ瀬くんを完全に無視し、ただ結衣の笑顔だけを、飢えた獣のような目で捉えている。

「……別に。俺は佐倉に頼まれたからやっただけだ」

「もう、律ったら相変わらず素直じゃないんだから」

結衣は苦笑しながらも、一ノ瀬くんの方を振り返った。

「あ、一ノ瀬くん。今日の夜さ、もし良かったら、実行委員の仕事が終わった後、ちょっと中庭で話せない? 明日のシフトのことで、相談したいことがあって……」

結衣のその誘いは、建前だった。シフトの相談なら、今ここで全員ですればいい。彼女の少し赤くなった頬と、泳ぐ視線が、一ノ瀬くんと「二人きりになりたい」という本音を雄弁に物語っていた。

一ノ瀬くんの眼鏡の奥の目が、優しく細められる。

「うん、分かった。じゃあ、あと三十分くらいしたら、中庭のベンチで」

「うん! 待ってるね!」

二人の間に流れる、誰の侵入も許さない特別な空気。

それを見せつけられた瞬間、律の身体が目に見えて強張った。彼の左手が、ブレザーの裾をぎりぎりと引きちぎらんばかりに握りしめる。

葵の胸の奥にも、冷たい泥のような感情が広がっていく。

一ノ瀬くんは結衣を選び、結衣は一ノ瀬くんを選んだ。それはもう、誰の目にも明らかな事実として、私たちの前に横たわっていた。

「俺、帰るわ」

律が低く、押し殺した声で言った。

「あ、律、もう帰っちゃうの? 明日の朝は……」

結衣の声を聞く前に、律は乱暴にカバンを掴み、廊下の向こうへと歩き出した。その背中は、怒りと、それ以上の絶望で激しく震えていた。

「……私も、帰るね。結衣、明日頑張ろうね」

葵もまた、その場に留まることができず、結衣と一ノ瀬くんから逃げるように、律の後を追った。

足早に階段を下り、生徒玄関へと向かう。

だけど、下駄箱の前に律の姿はなかった。彼は自転車通学だから、もう駐輪場に向かったのだろうか。

外に出ると、いつの間にか太陽は完全に沈み、冷たい夜の帳が降りていた。校庭の隅にある駐輪場へ向かう通路は、街灯の光が届かず、深い影が落ちている。

「律……」

暗闇の中に、自転車の横に立ち尽くしている律の影を見つけた。

彼はサドルに手を置いたまま、動かずにいた。ただ、その肩が浅く、激しく上下している。

「律、大丈夫……?」

葵が近づき、彼の背中にそっと声をかける。

律は弾かれたように振り返った。その顔は、街灯の逆光でよく見えなかったけれど、彼の瞳だけが、暗闇の中で妖しく、ギラギラと光っていた。

「大丈夫なわけねえだろ」

律の声は、今にも誰かを殴り殺しそうなほどに荒んでいた。

「あいつら、わざわざ俺たちの前でさ……見せつけてんじゃねえよ。中庭で話す? シフトの相談? 笑わせんなよ。どうせ、付き合うだの何だのって話になるに決まってんだろ」

「律、やめて……」

葵は自分の耳を塞ぎたかった。律の言葉は、私が一番想像したくない未来を、正確に、そして残酷に言語化していた。一ノ瀬くんが結衣に本物の告白をして、結衣がそれを受け入れる。そんな瞬間を、私たちは今、この学校の同じ敷地内で待たされているのだ。

「何でだよ……何で俺じゃねえんだよ……」

律は自転車のハンドルを乱暴に蹴り飛ばした。ガシャーンと大きな音がして、自転車がコンクリートの地面に倒れる。

「生まれた時からずっと一緒にいて、あいつが泣いてるときも、笑ってるときも、全部俺が隣にいたんだぞ!? なのに、あんな数ヶ月前に転校してきたような、すました優等生に、全部持ってかれるのかよ!」

律の叫びは、夜の駐輪場に虚しく響き渡った。

彼は倒れた自転車の前に膝をつき、頭を抱え込んだ。その大きな背中が、まるで小さな子供のように丸まって、震えている。

葵は、そんな律を見つめることしかできなかった。

彼がこれほどまでに結衣を求めているという事実が、私の胸を激しく抉る。

(律、私を見てよ……)

心の奥で、小さな、だけど醜い声が響いた。私は一ノ瀬くんを求めているはずなのに、今、目の前で傷ついている幼馴染の律に対して、どうしようもない「独占欲」のようなものが、黒い芽を伸ばし始めていた。

誰も、私たちを一番に選んでくれない。

この残酷な世界で、私と同じ痛みを、同じ絶望を共有しているのは、一ノ瀬くんでも結衣でもない。この、目の前で泣きそうな顔をしている律だけなのだ。

葵はゆっくりと歩み寄り、律の丸まった背中に、そっと両手を回した。

「……葵?」

律の身体が、ビクリと硬直する。

「律、もういいよ。もう、結衣のことなんか見なくていいよ……」

葵は律の首筋に顔を埋め、彼のシーブリーズの匂いを深く吸い込んだ。

「ここにいるよ。私が、ここにいるから……」

それは、慰めの言葉ではなかった。

お互いの「一番欲しかった人」に選ばれなかった惨めな者同士が、その寂しさを埋めるため、そして世界への復讐のために差し出した、最悪の誘惑だった。

律はゆっくりと顔を上げた。彼の目の奥に、あの雨の夜と同じ、正気ではない狂気の光が灯る。

「……葵。お前、分かってて言ってんのか」

「分かってるよ。……忘れるって約束、破っちゃおう、律」

律は何も言わずに立ち上がり、私の腕を強く掴んだ。

怪我をしていない左手の力が、骨が軋むほどに強い。彼は私を引きずるようにして、人気のない、放課後の旧校舎へと足を進めた。

旧校舎の二階、使われていない美術準備室の扉は、鍵がかかっていなかった。

室内には、古い石膏デッサン用の像や、埃を被ったイーゼルが乱雑に置かれており、独特の油絵の具と木屑の匂いが充満していた。

暗闇の中、律は私を壁に押し付けた。

背中に冷たいコンクリートの感触が伝わるのと同時に、律の熱い唇が、私の口を強引に塞いだ。

「ん……っ……!」

一度目の間違いは、雨のせいにできた。頭がバグっていた、という言い訳が通用した。

だけど、二度目は違う。私たちは、自分たちが何をしているのか、これがどれほど致命的な裏切りなのかを、完全に理解した上で、自ら奈落へと飛び込んでいた。

律の指先が、私のブラウスのボタンを次々と引きちぎるように外していく。

彼の荒い息遣いが、静まり返った部屋に響く。

「葵……、葵……」

律は私の名前を呼んだ。だけど、その声はどこか哀願するようで、まるで「頼むからお前が葵であってくれ、結衣の幻を見せないでくれ」と、自分自身に言い聞かせているかのようだった。

私は律の広い肩に腕を回し、彼の背中に爪を立てた。

痛みが走る。だけど、その痛みが心地よかった。

(一ノ瀬くん、見てる……? 私は今、こんなに汚れてるよ……)

頭の中で、一ノ瀬くんの冷徹な、だけど綺麗な瞳を思い浮かべる。彼に選ばれなかった私は、こうして幼馴染の身体を使って、自分の存在を証明することしかできない。

冷たい床の上にブレザーを敷き、私たちは再び肌を重ねた。

一度目よりも、その行為は生々しく、そして退廃的だった。

愛なんてどこにもない。そこにあるのは、お互いの胸にある「別の誰かへの執着」を、肉体の快楽によって無理やりすり潰そうとする、凶暴なまでのエゴイズムだけだった。

「あっ、あ……、律……」

律の激しい動きに合わせて、古いイーゼルがカタカタと乾いた音を立てて揺れる。

窓の外からは、遠くで文化祭の準備をする生徒たちの笑い声や、BGMの音楽が、かすかに、だけど確実に聞こえていた。

あの眩しい光の世界の裏側で、私たちは真っ黒な嘘の泥の中に、二度と抜け出せないほど深く、深く、沈み込んでいく。

行為が終わった後、私たちはしばらく、暗闇の中で並んで横たわっていた。

埃っぽい空気の中で、お互いの荒い呼吸だけが重なり合う。

律は腕で顔を覆ったまま、一言も喋らなかった。

彼の身体からは、激しい後悔と、それ以上の「終わってしまった」という絶望の気配が、肌を刺すように伝わってきた。

一度目の過ちの後、私たちは「何もなかったこと」にしようと決めた。

だけど、二度目を犯してしまった今、もうその嘘は通用しない。私たちは、自分たちの手で、幼馴染という安全な関係を完全に、修復不可能なまでに破壊してしまったのだ。

「……帰ろう」

律が、掠れた声で言った。

彼は衣服を整え、床に落ちた私のブラウスのボタンを、暗闇の中で探そうともせずに立ち上がった。

「うん……」

葵もまた、壊れたボタンの代わりにブレザーのボタンを上までしっかりと留め、身支度を整えた。

部屋を出るとき、私たちは一度も目を合わせなかった。

お互いの顔を見るのが、お互いの汚れた肉体を確認することが、今の私たちには何よりも恐ろしかった。

翌朝。文化祭当日の朝は、雲一つない、憎らしいほどの秋晴れだった。

校門にはカラフルなアーチが設置され、朝早くから多くの生徒や保護者、他校の生徒たちで賑わいを見せていた。

校内にはポップコーンや焼きそばの香ばしい匂いが立ち込め、スピーカーからは軽快なJ-POPが鳴り響いている。

「葵! こっちこっち! 早くシフト交代しよう!」

二年B組のチュロス模擬店の前。結衣が、エプロン姿で元気に手を振っていた。

彼女の顔は、昨日よりも一層、輝いて見えた。その左胸には、クラスの女子の誰よりも可愛らしくアレンジされたネームプレートが揺れている。

「結衣……おはよう。大盛況だね」

葵は、顔に完璧な「親友の笑顔」を張り付かせて近づいた。

「そうなの! 開店からずっと行列でさ! 一ノ瀬くんが看板の電飾の調整を何度もしてくれたおかげだよ」

結衣が嬉しそうに、店の奥を指差す。

そこには、学ランの袖を捲り上げ、真剣な表情で電飾のコードをチェックしている一ノ瀬くんの姿があった。

彼がふと顔を上げ、私と目が合う。

一ノ瀬くんは、いつものように薄く微笑んだ。だけど、その微笑みの奥にある彼の目は、昨日とは明らかに違っていた。

冷たく、鋭く、何かを確信したような、凍りつくような視線。

葵は思わず、一歩後ろに下がった。

(……まさか、ね)

昨日の夜、旧校舎には誰もいなかったはずだ。見られるわけがない。そう自分に言い聞かせるけれど、心臓のバクバクという音が止まらない。

「あ、律! やっと来た!」

結衣の声に、葵はハッと振り返った。

後ろから、律が歩いてきていた。彼の学ランの襟元は、いつになくきっちりと留められており、右手にはやはり包帯が巻かれている。

「遅れてゴメン。……何すればいい?」

律の声は、驚くほど低く、平坦だった。

「律は、店の前で呼び込みお願い! 律が立てば、絶対女子のお客さんたくさん来るから!」

結衣が律の背中をポンと叩く。

その瞬間、律の身体が、微かに拒絶するように強張ったのを私は見逃さなかった。

律は、結衣のその無邪気な接触から、目を逸らすようにして「……分かった」とだけ答え、呼び込み用のメガホンを掴んだ。

4人が、再び同じ場所に揃った。

賑やかな文化祭の喧騒の中、私たちの四角形は、綺麗に形を保っているように見えた。

だけど、その四角形の内側は、二度の過ちと、重なる嘘によって、すでにドロドロに溶け出していた。

「水瀬さん」

店の裏側で、おしぼりを補充していた私の後ろから、一ノ瀬くんの声がした。

振り返ると、彼は眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、私を見下ろしていた。その手には、一枚の小さな、見覚えのある「プラスチックのボタン」が握られていた。

制服の、ブラウスのボタン。昨日、旧校舎の美術準備室で、律が引きちぎった、私のボタン。

「これ、今日の朝、美術準備室の床に落ちてたんだ。……見覚え、ないかな?」

一ノ瀬くんの、静かで冷徹な声が、私の耳元で不快な不協和音を響かせた。

周囲の賑やかな音楽が、一瞬で遠ざかっていく。

ついに、隠し通せるはずだった私たちの最悪の秘密が、暴かれようとしていた――。

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