『放課後、僕らは嘘を重ねる』 作:トート
心臓が、耳のすぐ後ろで爆音を立てていた。
一ノ瀬くんの綺麗な指先に挟まれた、白いプラスチックの小さなボタン。それは間違いなく、昨日の夜、旧校舎の暗闇の中で引きちぎられた私のブラウスのものだった。
「……何、それ」
私は、自分の声が酷く掠れていることに気づいた。顔の筋肉が強張り、いつもの嘘の笑顔さえ作れない。
「美術準備室の床に落ちていたんだ。今朝、実行委員の備品を取りに行ったときにね」
一ノ瀬くんは、眼鏡の奥の切れ長な目を冷徹に細めた。その声には、怒りよりも、何か汚い生き物を見るかのような、深い軽蔑の色が混ざっている。
「最初は誰の落とし物か分からなかった。でも、水瀬さん。君のブラウス、一番上のボタンが……さっきから違う種類のものに付け替えられているよね。急いで家の裁縫箱から探してきたのかな。少しだけ、大きさが違っている」
言葉が出なかった。私の喉は完全に干からび、言い訳の言葉を吸い込んでくれない。
一ノ瀬くんの観察力は正確で、容赦がなかった。私は昨日の夜、家に帰ってから泣きながら自分のクローゼットを漁り、形が似ているだけのボタンを不器用につなぎ合わせたのだ。隠し通せると思っていた。この賑やかな、誰もが浮き足立つ文化祭の喧騒の中なら、そんな小さな違いに誰も気づかないはずだと、甘く考えていた。
「君と長谷川くんが、最近不自然に距離を置いている理由はこれだったんだね」
一ノ瀬くんは一歩、私に近づいた。周囲のクラスメイトたちが楽しそうにチュロスを袋に詰める声が、まるで遠い世界の出来事のように遠ざかっていく。
「長谷川くんは、結衣ちゃんのことが好きだと言った。君は、僕のことが好きだったはずだ。それなのに……裏でそんな汚いことをしていたなんて。結衣ちゃんを裏切って、君たちは一体何をしてるんだ」
「違うの……!」
私は声を絞り出した。だけど、「何が違うのか」を説明する言葉を、私は持っていなかった。
私たちは身代わりとしてお互いを抱き合った。寂しさを埋めるために、誰でもいいから一番にしてほしくて、一線を越えた。そんな歪んだ本音を、この綺麗な一ノ瀬くんにぶつけたところで、軽蔑が深まるだけなのは分かっていた。
「一ノ瀬くん、葵? 何話してるのー?」
その時、店のカーテンを引いて、結衣が顔を出した。
彼女の首には、クラスでお揃いで買った可愛いマフラータオルが巻かれている。その無邪気な笑顔を見た瞬間、私は目眩がした。
「あ、結衣ちゃん」一ノ瀬くんの声が、一瞬でいつもの穏やかなトーンに戻る。彼は手の中のボタンを素早くポケットにしまい、結衣に向かって微笑んだ。「いや、ちょっと看板の電飾の予備について、水瀬さんに確認してたんだ」
「そっか! ねえ、それより見てよ。律の呼び込み、すごいの! 他のクラスの女の子たちがみんなチュロス買いに来てくれて、もうすぐ午前中の分が完売しそうだよ!」
結衣は嬉しそうに一ノ瀬くんの腕を掴んだ。一ノ瀬くんはそんな結衣の頭を優しく撫でる。
私はその光景から目を逸らすように、逃げるように店の裏口から外へと飛び出した。
秋の突き抜けるような青空が、今の私には酷く残酷に思えた。
文化祭の熱気は、昼を過ぎて最高潮に達していた。
中庭の特設ステージでは軽音部の演奏が始まり、大音量のドラムとギターの音が校舎全体を揺らしている。
私は、人混みを避けるようにして、校舎の裏手にある非常階段の踊り場に座り込んでいた。膝を抱え、冷たい鉄の格子に頭を預ける。
戻らなきゃいけない。シフトの時間がある。だけど、あの教室に戻れば、一ノ瀬くんの冷たい視線と、結衣の純粋な笑顔が待っている。そう思うと、足が動かなかった。
「……こんなところにいたのか」
階段の下から、低い声がした。
見上げると、律が立っていた。学ランの袖を捲り上げ、呼び込みで声をからしたのか、少し喉を鳴らしている。
「律……」
「一ノ瀬の奴、気づいてるな」
律は階段を上がってきて、私の隣の段にドサリと腰を下ろした。
「……え?」
「さっき、店の前でアイツとすれ違ったとき、耳元で言われたんだ。『昨日の夜、旧校舎で何をしていたの』ってな」
律は自嘲気味に笑い、巻かれた包帯を上から爪で強く押し付けた。
「アイツ、本当にむかつくよな。全部お見通しって顔してさ。正義の味方気取りかよ」
「……ボタンを、拾われたの」
私は膝に顔を埋めたまま、小さな声で言った。
「私のブラウスのボタン。昨日、美術準備室に落ちてたのを、一ノ瀬くんに見つけられた」
律の身体が一瞬、硬直したのが分かった。
「そうか……じゃあ、もう言い逃れはできねえな」
「律、どうしよう。結衣に知られたら、私……結衣にどんな顔すればいいか分からないよ」
涙が、じわじわと目元から溢れてくる。
一度目の間違いのときは、忘れることで結衣との関係を守ろうとした。だけど二度目を選んでしまった今、私たちは結衣を二度裏切ったことになる。親友の顔をして、彼女の好きな人と、彼女を好きな男を、めちゃくちゃに掻き回してしまったのだ。
「俺が、アイツに話すよ」
律がぽつりと言った。
「佐倉には、俺が全部話す。お前は悪くない、俺が無理やり連れ込んだって言えば……」
「そんな嘘、結衣は信じないよ!」
私は顔を上げ、律を睨みつけた。
「私だって拒まなかった! 律を求めたのは、私でもあるんだよ! 傷つけ合って、身代わりにし合って、そうしなきゃ立っていられなかったのは、私だって同じなのに……っ」
激しいドラムの音が、私たちの言い争いを掻き消すように中庭から響いてくる。
お互いに傷だらけのままで、私たちはただ、破滅の瞬間が近づいてくるのを待つことしかできなかった。
運命の時間は、文化祭の終了間際、後夜祭が始まる直前にやってきた。
一般のお客さんが退場し、校内は生徒たちだけの少し弛緩した、だけど特別な空気に包まれていた。
二年B組の教室では、模擬店の片付けが始まっていた。机を元の位置に戻し、ゴミを大きな袋にまとめていく。
「葵、ちょっと手伝って」
ゴミ袋を持った結衣が、私に声をかけてきた。
「あ、うん。これ、結び目作っちゃっていい?」
「ううん、その前に……ちょっと、一緒に来てほしい場所があるの」
結衣の声は、いつもの弾むようなトーンではなかった。酷く静かで、どこか平坦な、聞いたことのない声。
私は心臓が冷たく固まるのを感じた。
結衣の後を追って教室を出ると、廊下の向こうには、一ノ瀬くんと律も立っていた。一ノ瀬くんの顔は冷徹そのもので、律は地面を睨みつけたまま動かない。
結衣は二人を伴って、私たちが二度目の過ちを犯した、あの旧校舎の美術準備室へと歩みを進めた。
夕暮れの光が、埃っぽい美術準備室の床を赤く染めている。
4人が室内に集まり、ドアが静かに閉められた。文化祭の喧騒が遮断され、耳が痛くなるほどの静寂が部屋を満たす。
「一ノ瀬くんから、これを見せてもらったの」
結衣が、ポケットからあの白いボタンを取り出し、手のひらに乗せて私に見せた。
「葵のボタンだよね。葵、お裁縫苦手だから、ボタンの付け方、いつも少し曲がっちゃうでしょ。これ、私が一学期のときに、葵のブレザーのボタンが取れかかってたのを縫い直してあげたときの糸と同じ。ピンクの糸。……私には、分かるよ」
結衣の瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちた。
「一ノ瀬くんから、今日の朝、これを見せられて……信じたくなかった。何かの間違いだって、葵と律が、こんなところで二人きりでいるわけないって、ずっと思ってた」
結衣は、泣きながら律の学ランの胸元を強く掴んだ。
「律……教えてよ。何でここに、葵のボタンが落ちてたの? 二人でここで、何をしてたの……?」
律は、結衣の手を振り払うこともできず、ただ唇を噛み締めていた。
「……佐倉」
「嘘つかないで! 律、最近私に全然笑いかけてくれなかった! 葵も、私のLINE無視して、目も合わせてくれなかった! 二人で、私の知らないところで、ずっと何か隠してたでしょ!? 答えてよ、律!」
結衣の悲鳴のような問いかけに、律はゆっくりと顔を上げた。その目は、諦めと、底知れない絶望に染まっていた。
「……したよ」
律の声が、静かな室内に響いた。
「俺と葵は、ここで、体を重ねたよ。昨日だけじゃない。あの雨の金曜日の夜も、葵の部屋で、同じことをした」
「……っ!」
結衣は息を呑み、一歩後ろに下がった。まるで怪物を目の前にしたかのように、怯えた目で律と私を交互に見つめる。
「何で……? 律、私のこと好きって言ってくれたじゃん。葵は、私の大親友じゃん。何で、二人が……」
「身代わりだよ」
今度は、私が口を開いていた。
もう、嘘の仮面を被り続けるのは限界だった。これ以上、結衣の純粋さに押し潰されるくらいなら、いっそ自分の醜さをすべて晒して、楽になりたかった。
「結衣、私は一ノ瀬くんのことが好きだったの。でも一ノ瀬くんは結衣を見てた。律は結衣のことが好きだった。でも結衣は一ノ瀬くんを求めてた。……私たちは、誰の一番にもなれなかったの。だから、お互いを結衣と一ノ瀬くんの身代わりにして、寂しさを埋めてただけ。私たちが汚いんじゃない。私たちの心が、もうボロボロだったから……!」
「水瀬さん、いい加減にしろ」
一ノ瀬くんが激しい怒りを孕んだ声で、私の言葉を遮った。彼は結衣の肩を抱き寄せ、私たちを冷たく睨みつけた。
「自分の弱さを、結衣ちゃんのせいに狂わせるな。君たちがやったことは、ただの裏切りだ。長谷川くん、君が結衣ちゃんをどれだけ大切に思っているか知っていたから、僕は君をライバルとして認めていた。だけど……こんな形で結衣ちゃんを傷つけるなんて、最低だ」
一ノ瀬くんの拳が、固く握りしめられていた。
「最低……か。ああ、そうだな。俺たちは最低だよ、一ノ瀬」
律が自嘲気味に笑った。
「でもな、お前みたいな完璧な奴に、俺たちの気持ちが分かってたまるかよ!」
言葉の暴力が、夕暮れの美術準備室で行き交う。
結衣は一ノ瀬くんの胸に顔を埋めて、声を上げて泣いていた。その姿は、あの金曜日に私たちが美術室で見た光景そのものだった。
やっぱり、一ノ瀬くんの隣には結衣がいて、結衣の隣には一ノ瀬くんがいる。
その世界の美しさと正しさが、今の私たちには、何よりも鋭い刃となって突き刺さる。
「……行こう、結衣ちゃん。ここにいる必要はない」
一ノ瀬くんが結衣の肩を支え、ドアへと向かった。
結衣は、一度も私の方を振り返らなかった。彼女の流す涙は、私と律が積み重ねてきた嘘の代償の重さを、何よりも雄弁に物語っていた。
ガチャリ、とドアが閉まり、二人の気配が消えた。
残されたのは、真っ赤な夕日に染まった美術準備室と、私と律の二人だけ。
床には、結衣が落としていった、ピンクの糸がついた白いボタンが、ぽつんと転がっていた。
「……終わったな」
律が、壁に背中を預けてずるずると床にへたり込んだ。
彼の巻かれた包帯には、いつの間にか、傷口から滲み出た新しい血の跡が、小さく赤く広がっていた。
「うん……終わったね、全部」
私も律の隣に腰を下ろした。
お互いの身体は、昨日と同じ距離にある。だけど、そこにはもう、寂しさを埋めるための熱も、世界への復讐の激情も、何も残っていなかった。
あるのは、すべてを失った人間の、空っぽな孤独だけ。
窓の外からは、後夜祭の始まりを告げる花火の音が、ドーン、ドーンと虚しく響き渡っていた。
私たちは、自分たちの嘘によって、一番守りたかった友情も、届かなかった恋も、すべてを灰にしてしまったのだ。