『放課後、僕らは嘘を重ねる』 作:トート
文化祭が明けた月曜日の朝は、世界がすべて灰色に染まってしまったかのように寒々しかった。
校門をくぐる生徒たちの顔には、お祭りの後の独特な疲労感と、日常に戻る諦めが漂っている。だけど、私にとってのそれは、ただの日常への帰還ではなかった。断頭台へと続く階段を、一歩ずつ上らされているような、息の詰まる恐怖そのものだった。
「……おはよう、葵」
下駄箱の前。声をかけてきたのは、同じクラスの女子グループの一人、真由(まゆ)だった。彼女の目は、いつもなら向けてくれる親しげなものではなく、どこか遠巻きに、好奇心と気まずさを孕んで私を観察していた。
「あ、真由。おはよう……」
私が上履きに履き替えて歩き出そうとすると、真由たちは顔を見合わせ、小さな声でひそひそと囁き合いながら、私を追い抜いていった。
(……やっぱり、ね)
噂が広まるのは、驚くほど早かった。
美術準備室で私たちが何をしたか、その具体的な内容まではクラスの誰も知らないはずだ。だけど、「文化祭の最終日に、水瀬と長谷川が一ノ瀬、佐倉と大喧嘩をして、4人の関係が完全に壊れた」という事実だけは、尾ひれをつけて教室中に知れ渡っていた。
地味で真面目だった私が、クラスの人気者である結衣を泣かせ、優等生の一ノ瀬くんを怒らせた。それだけで、私は十分に「悪者」だった。
教室のドアを開けると、一瞬だけ全体のざわめきが止まった気がした。
私の席は窓際の後ろから二番目。そのすぐ斜め後ろには、律の席がある。
律はすでに席に座っていた。学ランのボタンを上まで留め、机に突っ伏して顔を隠している。彼の周りだけ、誰も近寄らせないような重苦しい冷気が漂っていた。
そして、教室の前方。
結衣の席の周りには、いつものように女子たちが集まっていた。だけど、結衣の背中はどこか小さく丸まっていて、いつもの弾けるような笑顔はどこにもなかった。彼女の隣には一ノ瀬くんが立っていて、彼女を庇うようにして、時折こちらの席へと冷たい視線を送ってきていた。
私は自分の席に座り、ただ机の木目をじっと見つめた。
一時間目のチャイムが鳴るまでの数分間が、まるで永遠のように長く感じられた。
隣の席の男子が、椅子を少しだけ私の席から離すようにして座り直した。その小さな摩擦音が、私の胸の奥をカリカリと削っていく。
誰も私に話しかけない。誰も私と目を合わせない。
一度踏み外してしまった一線の代償は、私から「普通」という名の居場所を、完璧に奪い去っていた。
昼休み、私はお弁当の入った袋を持ったまま、教室を抜け出した。
あの息が詰まる空間にこれ以上いたら、本当に頭がおかしくなりそうだったから。
向かったのは、人気のない旧校舎の裏手。あの美術準備室がある建物の、影になった一角だった。コンクリートの地面に直接腰を下ろし、冷たい壁に背中を預ける。
「……そこ、俺の場所なんだけど」
低く、掠れた声がして、私はビクリと肩を揺らした。
見上げると、学ランのポケットに両手を突っ込んだ律が立っていた。彼の目の下の隈はさらに濃くなっており、右手の包帯は、金曜日から巻き直されていないのか、少し黒ずんで解れかかっていた。
「律……」
「お前も、教室にいられなくなった口か」
律は自嘲気味に笑い、私の少し離れた場所にドサリと座り込んだ。
二人の間に、冷たい秋風が吹き抜ける。
私たちは、お互いの顔を見ることができなかった。顔を見れば、あの夜の生々しい感触や、結衣の流した涙が、鮮明に蘇ってきてしまうから。
「佐倉、今日一回も俺の方見なかったわ」
律がぽつりと言った。その声には、もう怒りも焦りもなかった。ただ、すべてを失った人間の、虚しい諦めだけが漂っている。
「当たり前だよ……。あれだけのことをしたんだもん。結衣を、一番傷つけたのは、私たちなんだから」
「分かってるよ。分かってるけどさ……」
律は頭を後ろの壁に打ち付けた。ゴン、と鈍い音が響く。
「あいつに嫌われるのが、こんなにきついなんて思わなかった。一ノ瀬の言う通りだよ。俺は、アイツを傷つけるためだけに、お前を巻き込んで、最低なことをしたんだ」
「律のせいじゃないって、何度も言わせないで」
私はお弁当の袋を強く握りしめた。
「私も、一ノ瀬くんに選ばれない現実から逃げたくて、律を利用したの。お互い様だよ。私たちは、二人で一緒に、泥の中に落ちたんだよ」
お互いを責める言葉さえ、今の私たちには贅沢だった。
私たちが抱えた罪悪感は、誰かにぶつけて軽くなるような種類のものではない。お互いの存在が、そのまま自分の犯した過ちの証明であり、鏡のようだった。
「なあ、葵。このまま、どこか遠くへ逃げちゃおうか」
律が冗談めかしたトーンで、だけどその目の奥に本物の切実さを宿して言った。
「学校も、家も、佐倉も一ノ瀬もいない、誰も俺たちのことを知らない場所へさ。二人で行けば、少しは楽になれんのかな」
逃避行。
その言葉が、今の私の耳には酷く甘美に響いた。
ここではないどこかへ行けば、この消えない罪悪感から、一ノ瀬くんの冷たい目から、結衣への裏切りの痛みから、解放されるのだろうか。
「……無理だよ、律。どこへ逃げたって、私たちの体には、あの夜のことが刻み込まれてる。記憶からは、逃げられないんだよ」
私は膝に顔を埋めた。
律は何も答えなかった。ただ、怪我をした右手を、そっと私の手の隣に置いた。
触れ合うことはしなかった。だけど、その微かな体温だけが、この冷たい灰色の世界のなかで、私たちが感じられる唯一の「生」の感覚だった。
その日の放課後、事態はさらに最悪な方向へと動き出した。
完全下校のチャイムが鳴り、私がカバンをまとめて教室を出ようとしたとき、担任の先生に呼び止められた。
「水瀬、長谷川。ちょっと進路指導室まで来い」
先生の顔は、いつになく厳しかった。
廊下を歩く間、生徒たちの視線が突き刺さる。進路指導室の重い扉を開けると、そこにはすでに、一ノ瀬くんと結衣の姿があった。
さらに、部屋の奥には、私たちの親――私の母と、律の母の姿もあった。二人は隣同士に住む幼馴染の親同士として仲が良かったはずなのに、今は互いに顔を背け、険悪な空気を漂わせている。
「座りなさい」
学年主任の先生が、低い声で言った。
私たちは言われた通りに椅子に腰を下ろした。
対面には、一ノ瀬くんと結衣。一ノ瀬くんは冷静な目で私たちを見つめ、結衣は母親の隣で、小さく肩を震わせてうつむいていた。
「文化祭の最終日に、旧校舎の美術準備室で、お前たちが何か不適切な行為をしていたという報告が一ノ瀬からあった」
学年主任の言葉に、私の頭の中が一瞬で真っ白になった。
一ノ瀬くんが、学校(大人たち)にすべてをぶちまけたのだ。
結衣を守るため、そして私たちをこの学校から、結衣の周囲から完全に排除するために。
「水瀬さんの親御さん、長谷川くんの親御さんにも集まってもらったのは、これがただの生徒同士の喧嘩では済まないレベルの話だからだ」
先生が、一枚の書類を机の上に置いた。それは、一ノ瀬くんが提出したと思われる、あの夜の目撃談や状況のメモだった。
「違うんです……! 律は、そんなこと……!」
私の母が、声を震わせて弁明しようとした。
「水瀬さん、お宅の娘さんだって、拒まなかったんでしょう? うちの律ばかりが悪者みたいに言われるのは納得いきません!」
律の母が、鋭い声で言い返す。
「やめてくれよ!」
律が突然、机を激しく叩いて立ち上がった。
「親は関係ねえだろ! 全部、俺がやったんだ! 俺が葵を無理やり連れ込んで、めちゃくちゃにしたんだよ! 葵は悪くねえ!」
律は、私を守るために、また嘘をつこうとした。自分がすべての泥を被ることで、私だけでも救おうとしたのだ。
だけど、そんな嘘が通じる段階は、もうとうに過ぎていた。
「長谷川くん、嘘をつくのはやめろよ」
一ノ瀬くんが、静かに、だけど決定的なトーンで言った。
「君たちが、金曜日の夜にも同じことをしていたって、君の口から聞いたよ。水瀬さんも、それを認めていた。二人は、お互いの寂しさを埋めるために、合意の上で何度も関係を持ってたんだ。結衣ちゃんを、僕たちを傷つけるためにね」
一ノ瀬くんの言葉は、大人の前で、私たちの歪んだ内面を完璧に解剖してみせた。
「……最低ね」
結衣の母親が、冷たい声で呟いた。その言葉が、私の胸に深く突き刺さる。
結衣は、何も言わずにただ泣いていた。
彼女の流す涙が、部屋の中の大人たちの怒りを、さらに燃え上がらせていく。
「長谷川、水瀬。お前たちの行為は、健全な学校生活の秩序を著しく乱すものだ。学校としては、相応の処分を検討せざるを得ない。明日から当面の間、二人には自宅謹慎を命じる」
学年主任の宣告が、静まり返った部屋に響いた。
進路指導室を出たとき、外はもう完全に夜になっていた。
親たちは、学校側との今後の話し合いのために部屋に残り、私たちは先に帰されることになった。
校舎から出ると、冷たい夜雨がポツポツと降り始めていた。あの間違いの夜と同じ、すべてをドロドロに溶かすような雨。
一ノ瀬くんと結衣が、前を歩いていた。
一ノ瀬くんが傘を開き、結衣をその中にすっぽりと入れた。二人の影が、街灯の光に照らされて、寄り添うようにして校門へと向かっていく。
私は、その二人の後ろ姿を、ただ呆然と見つめていた。
もう、一ノ瀬くんへの恋心なんて、どこにも残っていなかった。あるのは、ただ、自分たちが犯した過ちの大きさと、すべてを壊してしまったという圧倒的な絶望感だけだった。
「……葵」
隣に立つ律が、私のブレザーの袖を、怪我をした右手でぎゅっと掴んだ。
包帯が解け、彼の血の滲む指先が、私の肌に直接触れる。
「俺たち、もう本当に、どこにも行けねえな」
律の声は、今にも消えてしまいそうなほど小さかった。
「うん……そうだね、律」
私は、律のその冷たい手を、今度は自分の手で強く握り返した。
学校からも、親からも、友達からも、すべてから拒絶され、私たちは完全に孤立した。
逃げる場所なんて、世界のどこにもない。
だけど、この冷たい雨のなかで、お互いの手の温かさだけが、私たちが手に入れた、唯一の、そして最悪の「嘘の居場所」だった。
自宅謹慎という、社会からの隔離。
深い泥の底に沈み込んだまま、私たちは、自分たちの傷跡の重さを、いやというほど思い知らされることになるのだった――。