『放課後、僕らは嘘を重ねる』 作:トート
二週間の自宅謹慎期間は、まるで終わりのない底なし沼のようだった。
スマホの電源は切ったまま。部屋のカーテンも閉めきり、薄暗い部屋の中でただ天井を見つめて過ごした。
隣の家からは、時折、律の父親の怒鳴り声や、何かが壊れるような鈍い音がかすかに聞こえてきた。そのたびに、私は耳を塞ぎ、布団の中で小さく丸まった。
私の家でも、母は私と目を合わせようとしなかった。ただ、ため息の数だけが、静まり返ったリビングに重く積もっていく。
(私が、全部壊したんだ……)
誰も傷つけたくなかったはずなのに、自分の寂しさから逃げるために重ねた嘘が、結果として全員を最悪の形で傷つけた。
そして十一月の半ば、謹慎期間が明けた。
「……行くの?」
玄関で靴を履く私に、母が冷淡な声で言った。
「うん。学校に行かなきゃ、進路のことも、結衣たちのことも、終わらせられないから」
私はそれだけ言うと、二週間ぶりに外の空気を吸った。秋の風はすっかり冬の冷たさを帯びていて、吐く息が白く曇る。
学校へと続く坂道を上る足取りは、ひどく重かった。だけど、今回は逃げるための足じゃない。自分が犯した過ちの結末を、この目でちゃんと見届けるための足だった。
校門をくぐると、周囲の生徒たちの視線が一斉に私に突き刺さる。
「ほら、あの子だよ」「戻ってきたんだ」
ひそひそ話が耳に届くけれど、不思議ともう涙は出なかった。二週間の闇の中で、私の心は、そのすべての軽蔑を受け入れる覚悟を決めていた。
教室のドアを開ける。
教室内は一瞬で静まり返った。
私の席のすぐ後ろ。律の席を見ると、彼はすでに座っていた。
学ランをきっちりと着込み、前髪を短く切り落とした彼は、窓の外をじっと見つめていた。右手の包帯は外され、そこには赤黒い、痛々しい傷跡が残っていた。
律は私が席に座っても、こちらを見ようとはしなかった。だけど、彼の肩が微かに緊張で強張ったのを私は感じた。
教室の前方、結衣の席を見る。
結衣は、友達に囲まれていなかった。ただ一人でノートを見つめている。彼女のトレードマークだったポニーテールは解かれ、肩の上で不揃いに切り揃えられた短い髪が、どこか彼女の痛みを物語っているようだった。
一ノ瀬くんは、そんな結衣の少し離れた席から、静かにこちらを睨みつけていた。眼鏡の奥の目は、相変わらず鋭く、そして冷たかった。
誰もが傷を負っていた。
私たちが犯した過ちの刃は、4人全員の心を、等しくズタズタに切り裂いていたのだ。
その日の放課後。完全下校を告げるチャイムが鳴り響いた。
クラスの生徒たちが、嵐の前の静けさから逃げるように足早に帰っていく。
やがて、夕暮れの斜光が差し込む教室に残されたのは、あの日と同じ、私たち4人だけになった。
「……話そう」
最初に口を開いたのは、一ノ瀬くんだった。彼はカバンを持たずに立ち上がり、黒板の前に立った。
「これ以上、学校や親に言われるがままに距離を置いても、何も解決しない。僕たちの問題だ。僕たちの言葉で、終わらせるべきだ」
一ノ瀬くんの声は、いつも通り冷静だった。だけど、その声には、二週間前のような絶対的な正義感や傲慢さはなかった。彼もまた、大大人たちを巻き込んで事態を大ごとにしたことへの、何らかの葛藤を抱えているようだった。
律が、ゆっくりと腰を上げた。
「終わらせる? ああ、そうだな。一ノ瀬、お前の言う通りだ」
律は一ノ瀬くんの前に歩み寄り、彼と真っ直ぐに対峙した。
「俺は、お前に謝る気はねえよ。お前がむかつく優等生だってことは、今でも変わってねえからな」
律の声は低かったが、そこに以前のようなトゲはなかった。
「だけど……佐倉を傷つけたことは、本当に悪かったと思ってる。俺の、くだらねえ嫉妬とプライドのせいで、お前たちの綺麗な世界をめちゃくちゃにした」
「律……」
結衣が、細い声で律の名前を呼んだ。彼女は短い髪を震わせながら、ゆっくりと立ち上がった。
「綺麗なんかじゃないよ……」
結衣の目から、涙が溢れ落ちた。
「一ノ瀬くんといるとき、私、ずっとドキドキしてた。でもね、心のどこかで、ずっと律のことを探してたの。何でも話せて、私のバカなところも全部知っててくれる律が、急に遠くに行っちゃいそうで、怖かったの。だから、一ノ瀬くんに縋って、律の気を引こうとしてたのかもしれない……」
結衣の口から出た本音に、教室中の空気が止まった。
結衣もまた、自分の純粋さの裏側で、律への無意識の独占欲を抱えていたのだ。彼女が美術室で一ノ瀬くんに抱きついていたのも、律に自分を見てほしかったから、という歪んだ動機が混ざっていた。
「佐倉、お前……」
律の目が、驚きに揺れる。
「私が、律をただの『幼馴染』っていう便利な場所に閉じ込めて、甘えてたの。だから律を追い詰めちゃったんだよね。……ごめんなさい、律。本当に、ごめんなさい……」
結衣は顔を覆って泣き崩れた。
結衣の涙を見て、一ノ瀬くんが小さくため息をつき、眼鏡を外して目元を押さえた。
「僕も……身勝手だったよ」一ノ瀬くんが言った。その目は、初めて私の方を真っ直ぐに見つめていた。
「水瀬さん。君が僕のことを、図書室でずっと見てくれていたの、本当は気づいていたんだ」
心臓が、跳ねた。
「一ノ瀬くん……?」
「気づいていたのに、僕はそれを利用した。長谷川くんが結衣ちゃんに向ける目が羨ましくて、焦って、結衣ちゃんを僕だけのものにしたくて……。君の気持ちを知りながら、あえて無視して、結衣ちゃんとの距離を縮めるための道具みたいにしてしまった。僕がもっと誠実だったら、君たちがそんな風に追い詰められることはなかったはずだ」
一ノ瀬くんの完璧な仮面が、完全に剥がれ落ちた。
彼もまた、孤独だったのだ。誰に対しても一線を引いていた彼が、初めて本気で欲しいと思った結衣を手に入れるために、私の恋心を踏みにじり、律を煽った。
誰もが、自分の欲望のために、誰かを犠牲にしていた。
綺麗なだけの被害者なんて、この4人の中には、最初から一人もいなかったのだ。
「……みんな、嘘つきだね」
私は、自嘲気味な笑みを漏らしながら言った。
「私は、一ノ瀬くんに選ばれなくて惨めだった。結衣が羨ましくて、憎かった。だから、律が私の部屋に来たとき、これ幸いと彼を受け入れたの。律を慰めるためじゃない。私が、誰かの一番になりたかったから。律の中に結衣の幻が見えても、あえて気づかないフリをして、体を重ねた」
私は、自分の醜さをすべて言葉にして、教室の空気の中に放出した。
「二度目のときもそう。旧校舎で、私たちは世界への復讐みたいにお互いを貪り合った。私たちは、幼馴染っていう一番大切な関係を、自分たちのエゴで粉々に壊したんだよ。自業自得なの」
剥き出しの言葉が、夕暮れの教室を飛び交う。
お互いの傷口に、直接指を突っ込んで掻き回すような、痛々しい会話。
だけど、そうやって血を流しながら本音をぶつけ合うことで、私たちの間に張り詰めていた、あのドロドロとした不協和音は、少しずつ、静かな余韻へと変わっていった。
「……壊れたものは、もう元には戻らねえな」
律が、自分の右手の傷跡を見つめながら呟いた。
「俺たちの友情も、幼馴染としての関係も、全部終わった」
「うん……戻らないよ」
結衣が、涙を拭って微笑んだ。その笑顔は、切り揃えられた短い髪のせいで、どこか大人びて見えた。
「でもね、私、みんなのことが大嫌いにはなれないよ。傷つけ合って、最低なことをしたけど……それでも、みんなと過ごした放課後は、嘘じゃなかったと思うから」
一ノ瀬くんが、再び眼鏡をかけた。その瞳には、いつもの冷静さと、それ以上の「覚悟」が戻っていた。
「明日からは、もう普通には戻れない。クラスの奴らの目も、親たちの関係も、歪んだままだ。……だけど、僕たちはその歪みを抱えたまま、ここで生きていくしかないんだよ」
窓の外。夕日は完全に沈み、深い群青色の夜空が広がり始めていた。
それは、私たちが文化祭の看板に描いた、あの「午後四時のプラネタリウム」の夜空に、少しだけ似ていた。
「帰ろうか」
一ノ瀬くんがカバンを肩にかけた。
「うん……」
結衣がその後に続く。二人の距離は、以前のような他者を寄せ付けない甘いものではなく、お互いの傷を静かに労り合うような、静かな距離感に変わっていた。
二人が教室を出て行く。
ドアが閉まる直前、結衣が一度だけ振り返り、私と律に向かって、小さく手を振った。
「バイバイ、また明日ね」
その言葉が、今の私たちにとって、何よりも救いだった。
教室に残されたのは、私と律の二人だけ。
二週間の謹慎を経て、私たちは再び、あの放課後の教室で二人きりになった。
「律……」
私が声をかけると、律はゆっくりと私の方を振り向いた。彼の目は、もう濁っていなかった。過ちを受け入れ、傷跡を胸に抱いた人間の、静かな目がそこにあった。
「葵。俺さ、お前とセックスしたこと、後悔してるよ」
律の口から出たストレートな言葉に、私は微かに胸を突かれた。
「……うん。私も、後悔してる」
「でもさ」
律は立ち上がり、私の席の前に立った。彼は怪我をした右手を、そっと私の頭の上に乗せた。ゴツゴツとした、だけど温かい、幼馴染の手の感触。
「お前が隣にいてくれなきゃ、俺、あの泥の中で本当に死んでたわ。ありがとな、葵」
「律……」
涙が、今になって一気に溢れてきた。
お互いを身代わりにし合った最悪の過ち。だけど、あの極限の孤独の中で、お互いの体温だけが、私たちが生きるための唯一の酸素だったのも、また事実なのだ。
私たちは、もう「綺麗な幼馴染」には戻れない。
お互いを見るたびに、あの夜の背徳感と罪悪感が、一生胸を刺し続けるだろう。
だけど、私たちはその傷跡を抱えたまま、この場所で歩き出すしかない。
「帰ろう、律」
「おう。飯、食って帰るか。お前の奢りでな」
「何で私が奢るのよ、バカ律」
私たちは、少しだけ、本当に少しだけ、いつものように笑い合えた気がした。
歪んだ四角形のなかで、私たちは誰もが嘘をつき、誰もが傷ついた。
だけど、その傷跡に触れる言葉を見つけた私たちは、ようやく、奈落の底から地上へと、一歩を踏み出し始めていた――。