ケインの右まぶたが、わずかに動いた。
マーニは続けた。
「歴史に、違和感を覚えたの」
ケインは目を細め、眉間にしわを寄せた。
「続けなさい」
その口調は、父親のものではなかった。
教師が生徒を試す声だった。
「今から数百年前、大賢者オルディアスは火・水・風・地を四理に定義した。その100年後、賢者ヴェルナートは炎・氷・雷を三象に定義した。——私は、この順序が逆だと考えているの」
ケインは顎にそっと手を当てた。
「賢者ヴェルナートの歴史資料は残っている」
「でも、大賢者オルディアスの資料は——残っていない」
静寂が落ちた。
「確かに、大賢者オルディアスについては謎が多い」
ケインは小さく息を吐いた。
それから、目尻を下げた。
「僕は考古学者である以上、歴史を探求し、それが間違っていれば正さなければならない」
柔らかく、微笑んだ。
「ふたりが剣に興味を持ったのは——6年前だったかな」
マーニは首を横に振った。
「8年前だよ。非力な子どものままだと、きっと父さんは許してくれない。だから、ソルと相談したの」
ケインはしばらく黙って、ふたりの顔を見比べた。
「——いいよ」
静かな、しかし迷いのない声だった。
「行ってきなさい。だけど、これだけは忘れないでほしい」
一拍置いて、続けた。
「成長したとはいえ、ふたりは僕の子どもだよ」
ソルが胸元を叩いた。
「俺がマーニを守る。無理だと判断したら、すぐに引き返す。だから安心してよ、父さん」
ケインはふたりの表情を見て、ゆっくりと首を縦に振った。
「料理が冷めてしまう前に、食べようか」
食事を終えると、ケインは咳払いをひとつして、テーブルの上で手を組んだ。
「ふたりに——セラのことを話しておこうと思う」
ふたりは顔を上げた。
「馬車で事故に巻き込まれた、というのは嘘だったんだ」
ふたりは黙った。
ケインは目を伏せたまま、続けた。
「10年前、北部平原の調査のために、守護の鏡ルミナルディアへ向かったきり——帰ってこなかったよ」
マーニが、恐る恐る口を開いた。
「それって……始原の故国エレメンティアを、探すため?」
「当時、腕に覚えのある者が202名招集され、調査隊が編成された」
ケインの声が、わずかに揺れた。
「だが、生還したのは81人だった。その中に……セラの姿は、なかった」
目頭を押さえる。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「僕は、酷い父親なのかもしれない。危険だと知りながら、ふたりを死地へ送ろうとしている」
ソルが、勢いよく立ち上がった。
椅子が鳴った。
「父さん、約束するよ。必ず、ふたりで帰る」
「私もソルも——危ないことはしない。約束するよ」
ケインはため息をつき、無理やり笑顔を作った。
「ふたりのために、準備をしてくるよ」
背中を丸め、そのまま自室へ消えた。
部屋にふたりきりになった。
「ソル……」
マーニの不安が、声になって漏れた。
「今さら、やめるなんて言わないよな」
マーニは俯いた。
テーブルの上の自分の手が、震えていることに気づいた。
「危険は、承知の上だ」
ソルの拳も、震えていた。
マーニはそっと視線を上げた。
ソルの唇が、わずかに震えている。
「母さんの話は——確かにショックだった。だけど、マーニが決めたことなら俺はついていく。そう約束したからな」
歯を食いしばり、拳を握り締める。
「ごめんね、ソル。私、少し弱気になっちゃった」
ケインが戻ってきた。
その手に握られていたのは——二本の剣だった。
「ふたりが村を出る際に必要になると思って、用意しておいたんだ。それが、今日になるとは思わなかったがね」
ふたりは無言で、差し出された剣を受け取った。
「今から船着き場へ向かえば、夕方の船に間に合うだろう」
ケインはポケットから硬貨の詰まった布袋を取り出し、マーニに手渡した。
「無駄遣いをしてはいけないよ。お金が足りなくなったら、
ふたりは力強く頷いた。
「ふたりは旅支度をしてきなさい。後片付けは僕がしておくよ」
「行こう、マーニ」
「うん!」
自室へ向かうふたりの背中を見送りながら、ケインは肩を落とした。
「セラ、本当にこれでよかったのかな。ふたりにとって、僕はいい父親だったのか——わからないよ」
廊下から足音が聞こえてきて、ケインは慌てて背筋を伸ばした。
カバンを背負ったふたりが、ケインの前で足を止めた。
ケインはふたりの頭に、そっと手を伸ばした。
「これからふたりはいろんな人と出会う。道中、困難にぶつかることもあるだろう。だが、それらはふたりにとって貴重な経験になる」
一拍置いた。
「この冒険を——楽しんできなさい」
ふたりの表情から、固さが消えた。
「ソル、わがままを言ってマーニに困らせてはいけないよ」
「父さん、それは昔の話だろう」
「ははっ、そうだったね」
ケインはふたりの頭から手を離した。
その手が、一瞬だけ空中で止まった。
「ふたりの冒険譚を——待っているよ」
ふたりは力強く頷いた。
「うん。いってくるよ、父さん」
「父さん、いってきます」
扉が閉まった。
ふたりの足音が、遠ざかっていく。
ケインはしばらく動かなかった。
やがて、ひとりきりの家の中で——
涙が、頬を伝った。