『天上天下 〜銀髪の蛇、宿命の檻〜』   作:トート

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第1話:嵐の記憶、交錯する双刻

【過去編:決裂の雨、血塗られた始まり】

 

その夜の雨は、すべてを洗い流すにはあまりにも赤く、そして冷たかった。

私立統道学園、旧校舎の裏手にひっそりと広がる荒廃した庭。

 

かつては美しい青芝が敷き詰められ、新緑の木々が穏やかに並んでいたであろうその場所は、今や見る影もなかった。崩れ落ちたコンクリートの破片、へし折れた鉄筋、そして激しい気と気の衝突によって無残に抉り取られた泥土が、空を覆う黒雲から降り注ぐ激しい豪雨によって、まるで血のように赤い泥水となって四散する、無残な処刑場と化していた。大気を激しく引き裂くような暴風雨の中、その破壊の嵐の中心に、一人の男が静かに立ち尽くしている。

 

見上げるほど大柄な体躯。その身長は実に百九十九センチメートルに達する。

破れた衣服の上からでも容易に判別できる、岩石を削り出したかのように頑強に鍛え上げられた超筋肉質な体格。闇の中に浮かび上がるように静かに輝く長めの銀髪を激しい雨に濡らし、その切れ長の奥にある瞳は、宝石のように澄んだ、しかし一切の温度を感じさせないエメラルドグリーンだった。

 

男の名は、銀(ぎん)。

この学園のいかなる党派にも属さず、ただ己の圧倒的な武力と冷徹さだけを頼りに生存してきた、孤高の怪物。

 

銀の足元には、一人の少年が横たわっていた。かつて学園の最高実力者として畏怖され、しかしその内面に宿る狂気の龍の気の暴走に耐えきれず、完全に己を見失って戦鬼と化した男――棗真夜の兄、棗慎(なつめ しん)であった。

 

慎の肉体はピクリとも動かない。胸部は不自然な形に陥没し、その口からは絶え間なくどす黒い血が溢れ出ていた。慎を殺したのは、他でもない銀だった。銀がその体内に宿る圧倒的な精神エネルギーを物質化させ、放った黒い大蛇の形をした悍ましい気の波動――『黒厳蛇(こくげんだ)』。その漆黒の顎(あぎと)によって、慎の五体は骨ごと完膚なきまでに叩き潰され、完全に息絶えていた。銀にとって、相手が狂気に落ちた憐れむべき男だろうが関係ない。牙を剥き、自分の行く手を阻むものは等しく「排除すべき障害」として、その肉体をねじ伏せるだけだった。

 

「慎……! 慎、嘘だろ……ッ!? おい、目を開けろよ慎!!」

その凄惨な庭に、激しい泥水を撥ね散らしながら一人の少年が滑り込んできた。

 

高柳一族の正統なる後継者であり、慎を救うために必死にこの場所へと走ってきたはずの少年、高柳光臣であった。光臣は泥水の中に激しく膝をつくと、親友の冷たくなりかけた遺体を掻き抱き、喉が裂けんばかりの絶叫をあげた。

 

「慎……なんでこんな、こんなことになるんだよ……っ!」

光臣の全身が、激しい怒りと、親友の危機に間に合わなかった己の無力さへの悔しさで、小刻みに震え始める。親友を狂気から救い出し、一緒に笑い合える未来を取り戻すはずだった。しかし、そのささやかな願いは、目の前にそそり立つ銀髪の怪物の手によって、無慈悲にも永遠に奪い去られた。

 

「銀……! お前、慎を……よくも慎を殺しやがったなッ!!」

光臣が我を忘れて激昂した。その瞬間、彼の身体の奥底に眠る高柳の血脈が呼び覚まされ、高柳一族に伝わる秘拳「高柳飛翔鳳拳」の凄まじい龍の気が、全身から爆発的に噴出した。黄金色に輝く気の波動が陽炎のように立ち上り、雨の夜の空間を激しく歪ませる。

 

光臣は親友の仇を討つべく、地を蹴った。その絶対的な一撃を、銀の分厚い胸板を目がけて真っ直ぐに叩き込もうと、弾丸の如き速度で突撃する。

だが、銀は眉一つ動かさない。

 

避けることすらせず、彼はただ、己の頑強な両腕を前に突き出し、光臣の渾身の拳を正面から生身の肉体だけで完璧に受け止めた。

 

ガガァァァンッ!!

 

肉体と肉体が激突したとは到底思えない、金属同士が爆発したかのような重苦しい衝撃波が雨夜の庭を駆けぬける。

 

光臣は驚愕に目を見開いた。自分の放った、一撃で鉄筋コンクリートをも粉砕するはずの拳が、銀の鋼のように硬い筋肉の前に、完全に、完璧に阻まれていた。圧倒的な体格差、そしてそれを裏付ける計り知れない底なしの怪力。

 

「……これだけか、光臣」

銀の地を這うように低い声音が響いた。

 

その直後、銀の背後からうねりながら現れた漆黒の気の巨蛇『黒厳蛇』が、暴虐の咆哮をあげた。無数の首が太い鞭のようにしなり、光臣の身体を容赦なく力任せに弾き飛ばす。

 

「ふがっ……!?」

泥水の中を十数メートルも激しく転がり、光臣は内臓を激しく揺さぶられて大量の血を吐きながら、這いつくばるしかなかった。立ち上がろうとするが、腕に力が入らない。

 

「お前の甘さが、この男を殺したんだ」

銀は冷徹な眼差しのまま、這いつくばる光臣を見下ろした。

 

「世界を救う、秩序を守るなどという綺麗な理想を口にする割に、自分の最も身近な親友一人救う力すらお前にはない。お前のその未熟な正義感こそが、慎を追い詰めた毒だ」

銀はエメラルドの瞳を動かし、泥を噛みながら絶望する光臣を一瞥すら呉れず、その場を去ろうと踵を返した。

 

「待って……待ちなさい、銀……ッ!」

その背中に、凛とした、けれど絶望に激しく震える小さな声を投げかけたのは、当時まだ中学生だった棗真夜であった。

 

慎の妹であり、光臣が誰よりも心から愛し、守りたいと願っていた少女。真夜は兄の惨死体を前に、激しい恐怖と哀しみで全身の震えが止まらなかった。兄を殺した仇。目の前にそそり立つ、血も涙もない銀髪の怪物。

 

だが、一人で棗一族の哀しい宿命を背負わされ、今にも精神が壊れそうになっていた真夜の、その強い瞳の奥にある「覚悟」の光を、銀の冷徹な目は見逃さなかった。

 

銀はゆっくりと歩みを進め、光臣が未練と義務の間で泥水を舐めながら這いつくばっているすぐ目の前で、真夜の華奢な身体をその丸太のように太い腕で強引に引き寄せると、自らの分厚い胸板の中へとすっぽりと閉じ込んだ。

 

「ひっ……! 連れて行く気か……!」

逃げ場のない、圧倒的な体格差の檻。

 

衣服越しに伝わる銀の圧倒的な熱量と、鋼のように硬い筋肉の感触が真夜の肌を透過していく。それは真夜にとって、人生最大の恐怖であると同時に、世界が完全に崩壊した夜に唯一自分を物理的に繋ぎ止めてくれる、絶対的な強者の熱であった。

 

「真夜、お前が兄の仇を討ちたいというなら、俺の隣に来い」

銀の声は、真夜の耳元で逃げられない呪縛のように低く、甘く響いた。

 

「高柳のあの男には、お前を救う力も、その小さな身体を抱きしめる覚悟もない。お前を縛る棗の呪いも、慎の遺恨も、俺がすべてこの手で打ち砕いてやる。その代わり、お前の心も肉体も、すべて俺の檻の中で従順に飼われろ」

 

「銀……お前、真夜から、真夜から離れろ……ッ!」

光臣が泥水の中から必死に手を伸ばし、絶望に叫ぶが、銀のエメラルドの瞳はただ冷酷に彼を見下ろするだけだった。

 

真夜は銀の広く頑強な胸の中に押し潰されながら、涙を流した。胸の奥を激しく焦がすのは、兄を殺したこの男への「凄まじい憎悪」だ。今すぐ殺してやりたいと魂が叫んでいる。しかし、光臣の手をすり抜け、銀の圧倒的な暴力と、その後に首筋を優しく撫でていく無骨な手のひらの甘い温もりに触れた瞬間、彼女の精神には、その憎悪にそれ以上に勝る狂おしいほどの愛の歪んだ依存の芽が、修復不可能なほどに深く植え付けられていくのだった。

 

これが、雨の庭から始まる、三人にとっての血塗られた宿命の始まりであった。

 

【現実編:宿命の現在、檻の再会】

 

それから、数年の歳月が流れた。

 

私立統道学園。そこはかつてと変わらず、力こそがすべての規律を決定づける、暴力と異能に支配された巨大な城塞のままだった。だが、あの夜から時を経て、学園の権力図は一変していた。

 

過去の惨劇の庭で泥を舐めさせられた高柳光臣は、今や高柳一族の正統なる後継者として、学園の最高権力組織「執行部」の頂点、執行部会長の座に君臨していた。彼の放つ圧倒的な武力と鉄の規律の前に、生徒たちはただ平伏するしかない。光臣は自らを世界の秩序そのものへと仕立て上げ、真夜をあの怪物の手から救い出すという執念だけを胸に、学園を完璧に掌握していた。

 

対するは、過去の因縁に抗い、わずかな仲間と共に学園の片隅で牙を研ぎ続ける「柔剣部」。その部長を務めるのが、あの日、銀の広く頑強な胸の中に強引に奪い去られた少女――棗真夜であった。

 

放課後の薄暗い武道場。格子窓から差し込む夕暮れの斜陽が、板張りの床に不気味で長い影を落としている。

その静寂を破るように、重々しい足音が響き渡る。数人の執行部員を従え、現れたのは光臣だった。

 

「……執行部の命令は絶対だ、棗真夜。大人しく柔剣部の看板を下ろしてもらおうか」

光臣の声は低く、冷徹だったが、その瞳の奥には、真夜への歪んだ未練と、狂気的な独占欲の炎が爛々と燃え上がっていた。

 

「ふん、相変わらず偉そうね、光臣。私たちがそう簡単に首を縦に振ると思っているの?」

 

真夜は式刀『零毀』を腰に、毅然とした態度で光臣を睨み返した。大人の色気と強さをまとい、凛とした美しさを放つ真夜。しかし、彼女がどれほど強く振る舞おうとも、光臣の鋭い視線は、彼女の開いた襟元から覗く首筋の生々しい『傷痕』を捉えていた。

 

それは、かつて慎を殺し、真夜の心と身体を強引に奪い去った銀が、彼女の肉体に直接刻み込んだ、消えない主従の痕だった。

光臣の拳が、激しい嫉妬と劣等感でみしり、と不快な音を立てて硬く握りしめられる。

 

(真夜……お前はまだ、あの銀髪の怪物に縛られているのか……!)

 

「真夜、お前をあの怪物の檻から救い出せるのは、世界の頂点に立つこの俺だけだ。大人しく俺の元へ来い!」

光臣が激昂し、己の拳に凄まじい龍の気を宿して一歩を踏み出した、その瞬間だった。

 

武道場の重い木製の扉が、一切の予兆なく、爆音とともに内側へと激しく吹き飛んだ。

「――ガキの身勝手な独占欲を、正義と呼ぶな」

 

地を這うように低く、一切の揺らぎのない、鉄の擦れ合うような声音。

砂塵の向こうから姿を現したのは、見上げるほど大柄な体躯を持つ銀髪の男――銀だった。衣服の上からでも容易に分かる超筋肉質な体格、一切の温度を感じさせないエメラルドの瞳が、再び光臣を冷酷に見下ろす。

 

「銀……ッ!! お前、なぜここに……! 執行部の敷地に土足で踏み込みおって!」

光臣の全身の筋肉が、過去の恐怖と激しい憎悪で強張る。

 

銀は光臣の動揺など意に介さず、大柄な体躯を滑り込ませると、無言のまま真夜の華奢な腰をその丸太のように太い腕で強引に引き寄せ、自らの分厚い胸板の中へとすっぽりと閉じ込んだ。

 

「あ……、ぎん……さん……っ」

真夜の身体が、本能的な恐怖と、それ以上に激しい愛憎の熱を帯びて銀の胸の中で硬直した。銀の大きな、硬い手のひらが、真夜の髪を驚くほど優しく、しかし他者を一切寄せ付けないという強い独占欲を込めて撫で上げる。恐怖を乗り越えた先にある、一筋の甘い安らぎだった。

 

「お前がどれだけ会長として権力を握ろうが、この女の心も肉体も、最初からすべて俺の檻の中にある」

 

「銀! 真夜からその汚い手を離せ! 今日こそ、お前をここで完全にねじ伏せてやる!」

光臣が激怒し、高柳飛翔鳳拳の凄まじい気を拳に宿して銀へと殴りかかる。

 

だが、銀のエメラルドの瞳には一片の揺らぎもなかった。

銀が静かに息を吐いた瞬間、彼の背後から、かつて慎を滅ぼした暗黒の気の波動――『黒厳蛇(こくげんだ)』が爆発的に噴出した。漆黒の巨蛇が無数の首をうねらせて咆哮をあげ、光臣の放った龍の気を正面から完璧に噛み砕き、その波動を霧散させたのだ。

 

「がはっ……!? くそ,力が……!」

衝撃波に押され、光臣は再び武道場の床へと激しく這いつくばる。数年前のあの雨の庭と、全く同じ屈辱の光景。

 

「戦場に未練を持ち込むな、光臣。お前には真夜を救う力も、抱きしめる覚悟もない」

 

銀は真夜をその逞しい腕で横抱きにすると、傷つき這いつくばる光臣には目もくれず、何事もなかったかのように武道場を去ろうと歩き出す。真夜は銀の胸の鼓動を聴きながら、光臣への激しいやきもちを抱かせつつも、銀の冷酷な呪縛の中に、より深く、狂おしく依存していくのだった――。

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