『天上天下 〜銀髪の蛇、宿命の檻〜』 作:トート
【一】
私立統道学園を舞台に繰り広げられた、執行部と柔剣部の学園一斉抗争は、ついにその本当の終着点、そして全ての因縁を灰へと還す最後の幕を上げようとしていた。
中央大武道場。
かつてその場所は、棗一族の哀しき宿命の龍に呑まれ、狂気の戦鬼と化した棗慎が、銀髪の怪物によって完膚なきまでに叩き潰されて命を絶たれた、全ての破滅が始まった処刑場であった。数年の歳月を経て、再びその床板を踏み締める者たちの五体は、血と泥に塗れ、精神エネルギーの限界を超えた極限の緊張感で一様に張り詰められていた。
「ハァ……ハァ……ッ! まだだ、まだ俺たちの生命(いのち)は尽きちゃいねぇぞッ!」
凪宗一郎は、体内で激しく脈打つ他者の気を喰らう魔人の血、あるいは本能が導いた爆拳の気を全身から黒炎のように立ち上らせながら、激しく吼えた。その隣には、ドレッドヘアを激しい風圧に揺らし、拳の皮を破らせながらも闘志を失わないボブ牧原が立ちはだかっている。少年たちの純粋な正義感は、何度も銀の圧倒的な暴虐の前に引き裂かれ、床へと激しく這いつくばらされてきた。しかし、彼らの瞳の奥にある光だけは、絶望の深淵にあっても微塵も曇ってはいない。
「……当然だ。ここで倒れれば、真夜さんは二度とあの暗闇から戻れなくなる」
一歩横で、骨の軋むような呼吸を繰り返しながらも、静かに、しかし絶対の決意を秘めて構えるのは高柳雅孝であった。彼の胸中を占めるのは、実の兄である光臣への反発、および何よりも、愛する真夜が姿なき銀の檻に魂の深奥まで侵食され、かつての慎先輩と同じ自己崩壊の道へ突き進んでいる現実への、激しい執着と無力感であった。だからこそ、彼はこの最後の瞬間に、己の気のすべてを拳へと注ぎ込んでいた。
「ガキども……動けるな。死にたくなければ、俺の闘気に歩調を合わせろ」
4人の中心、ボロボロに引き裂かれた執行部会長の制服をまといながらも、かつてないほど濃密な黄金の龍の気を全身から陽炎のように立ち上らせているのは、高柳光臣であった。
彼の瞳は、真夜を完全に支配している銀への激しい憎悪と、己の持つ高柳の誇りを完璧に打ち砕かれた劣等感で、ドス黒く濁りきっていた。しかし、かつて慎を救えず、今また最愛の真夜をも銀の呪縛によって失おうとしている現実が、彼の独占欲を狂気的なまでの執念へと昇華させていた。
高柳の兄弟の確執、新入生の意地、および姉妹の絆を守るという誓い。
かつては決して交わるはずのなかった4人の「人間の意志」が、全ての未練や内紛を削ぎ落とし、銀を倒して真夜をあの宿命の檻から救い出すというただ一つの目的のために、完全に一つへと重なり合っていた。
「行くぞ!! 高柳飛翔鳳拳――ッ!!」
光臣の咆哮とともに、黄金色の巨大な龍の気が武道場全体を眩いばかりに照らし出した。光臣と雅孝、高柳の血を引く兄弟が同時に地を蹴り、完璧な阿吽の呼吸で襲いかかる。
対するは、武道場の中心にそそり立つ、百九十九センチメートルの圧倒的な巨躯を誇る、あの銀髪の男――銀であった。
衣服の上から特製の鎧をまとったその姿は、4人の極限の闘気の前にあっても一片の傷もなく、そのエメラルドの瞳は、世界のすべてをゴミのように見下ろす冷酷さに満ちていた。しかし、その銀の全身からもまた、制御を失った漆黒の気の波動『黒厳蛇(こくげんだ)』が、まるで狂暴な大蛇の群れのように際限なく噴出していた。それは、異能の許容量を超えた「自己崩壊の暴走」そのものであった。
「……ガキどもの玩具の連携か。随分と不作法な真似をしてくれたな」
地を幾うように低く、冷たい鉄の擦れ合うような声音が響き渡る。
銀が放った黒厳蛇の漆黒の牙と、光臣たちの黄金の龍の気が正面から激突した。ズガァァァンッ!!!! と金属同士が爆発したかのような凄まじい衝撃波が武道場を完全に粉砕し、空間が歪むほどの凄絶な格闘戦が展開される。
「そこだ、新入生!!」
雅孝が流麗な柔術の気をもって、黒厳蛇の無数の首の一瞬の動きを完璧に縛り付けた。その死角を突き、宗一郎とボブの二人が弾丸の如き速度で跳躍する。
「らあああッ!! 爆拳――ッ!!」
体内の大脈を全開に開放し、魔人の血がもたらす漆黒の爆拳の気が、宗一郎の拳に宿る。4人の限界を超えた人間の執念の拳が、銀の頑強な体躯へと全方位から同時に炸裂した。
ドガァァァンッ!!!! と重苦しい衝撃が銀の鎧を打ち砕き、絶対的だった銀の呪縛の牙を、その根元から力任せにへし折った。
「がはっ……っ……!」
銀の身体が、ピクリと動きを止める。全身から吹き荒れていた漆黒の気が、急激に虚無へと霧散していく。しかし、限界を迎えた銀の気は、周囲のすべてを巻き込んで自爆しようと、不気味な紅い光をその五体の奥底から放ち始めていた。
【二】
「――そこまでよ、銀」
崩れ落ちる瓦礫の向こう、立ち込める血の臭いと砂塵の奥から、式刀『零毀(れいき)』を手に、一歩ずつ歩みを進めてきたのは棗真夜だった。
彼女の瞳には、数年間ずっと彼女の魂を縛り続けてきた、銀への凄まじい憎悪、およびそれを遥かに超える狂おしいほどの愛の歪んだ情念が、静かに、しかし激しく燃え上がっていた。
暴走し、自己崩壊の危機が迫る銀を止め、その魂を本当の意味で宿命の檻から救い出せるのは、世界で自分しかいない。彼女は自らの手で、この長すぎた愛憎の歴史に、すべての因縁とともに決着をつけることを決意していた。
「真夜さん、危ない! 下がってください!」
雅孝が叫び、宗一郎が手を伸ばすが、真夜の耳にはもう、彼らの光の正義の声は届かなかった。
「待って、凪くん、お姉ちゃんを止めないで……!」
背後で、美しい茶髪を風に乱した棗亜夜が、涙を流しながら宗一郎の衣服を強く掴んで引き留めた。それなりに戦える強さを持った亜夜だからこそ、姉の瞳の奥にある、銀と同じ暗闇の覚悟を本能で察知していたのだ。二人が出会って間もないあの頃の純粋な光は、この過酷な愛憎の結末の前に、静かに見守るための祈りへと変わっていた。
真夜はボロボロと涙を流しながら、銀の分厚い胸板の中へと自ら飛び込んだ。かつて何度も自分を壁に圧し潰し、その後に放たれる剥き出しの本当の優しさを手向けてくれた、あの頑強な胸の熱。衣服越しではない、鋼の硬度を持つ超筋肉質な体格が、真夜のすべてを優しく、および冷酷に包み込んでいく。
「愛してるわ、銀。だから……逝きなさい」
真夜は迷うことなく、手にした『零毀』の白刃を、銀の心臓へと向かって真っ直ぐに突き立てた。
深く、鈍い肉の裂ける音が、静寂を取り戻した武道場に冷たく響き渡る。
「ガハッ……っ……」
銀の巨躯の力が、完全に抜けた。彼のエメラルドグリーンの瞳がゆっくりと焦点を結び、自分の胸に深く突き刺さった刀、および自分を抱きしめている真夜の顔を真っ直ぐに見つめた。
血塗られた無骨な指先が、真夜の濡れた頬を、この世の何よりも愛おしそうに優しく包み込む。
「……これで、お前は一生、俺から逃れられないな、真夜」
地を這うように低く、しかし驚くほど穏やかなその声は、死の間際にあっても彼女の魂を永遠に自分の檻へと縛り付ける、この上なく深く、甘い呪縛の言葉であった。
銀は満足げに薄い唇をわずかに歪めると、そのまま真夜の細い肩に頭を預け、その息を引き取った。
「あ……、あああああーーーッ!!」
真夜は銀の銀髪に指を絡め、彼の広く頑強な胸板に顔を埋めて、狂ったように号泣した。
最愛の兄の仇を、ついに自分の手で討ち取った。しかし、それと同時に、自分のすべてだった男を、世界で一番愛した男を、自らの手で永遠に失ったのだ。胸を切り裂くような圧倒的な絶望と、自らの手で愛を終わらせたという歪んだ悦び。
光臣は、二人が血の海の中で完全に一つになっているその光景を、ただ茫然と見つめることしかできなかった。どれほど学園の頂点に立とうとも、真夜の心も、銀の肉体も、最初から最後まで二人の閉鎖的な檻の中にあり、自分は一歩も立ち入ることができなかったのだという、決定的な敗北感だけが残された。
【三】
数日後。激しい抗争の傷跡が残る学園。
執行部による支配は崩壊し、学園には新たな平穏が訪れようとしていた。しかし、柔剣部の奥の私室には、式刀を抱きしめたまま、二度と戻らない銀の熱を求めて、虚ろな瞳で佇む真夜の姿があった。
首筋に残る銀の呪縛の痕。彼を殺したという、消えない愛憎の刻印。
真夜はこれからの一生、彼への凄まじい憎悪と、それを遥かに超える狂おしいほどの愛の檻に囚われたまま、彼だけの女として、その呪縛の中で生き続ける。元の綺麗な場所には二度と戻れない、美しくも完全に壊れた最期の選択。
銀髪の蛇に魂を捧げた少女の、暗く歪んだ秘密の関係の残響を残し、宿命の檻の物語は、ここに美しく、および破滅的に大完結を迎えるのだった――。
(『天上天下 〜銀髪の蛇、宿命の檻〜』 全10話・完結)