『天上天下 〜銀髪の蛇、宿命の檻〜』 作:トート
【一】
あの赤く冷たい、すべてを切り裂いた決裂の雨の夜から、数年の歳月が流れた。
私立統道学園。そこは、力こそがすべての規律を決定づけ、勝者が敗者を家畜のごとく蹂躙する、暴力と異能に統治された巨大な城塞都市であった。
かつて雨の庭で銀髪の怪物に完膚なきまでに叩き潰され、泥水を舐めさせられた高柳光臣は、今や高柳一族の正統なる後継者として、学園の最高権力組織「執行部」の頂点、執行部会長の座に君臨していた。彼の放つ「高柳飛翔鳳拳」の圧倒的な武力と、網の目のように張り巡らされた鉄の規律の前に、生徒たちはただ平伏するしかない。光臣は自らを世界の秩序そのものへと仕立て上げ、真夜をあの怪物の手から奪い返すという執念だけを胸に、学園を完璧に掌握していた。
だが、その絶対的な権力の光が届かない学園の片隅、古びた道場を拠点にして、過去の宿命に抗い続ける不穏な火種が存在していた。
かつての最高実力者、棗慎の遺志を継ぐ「柔剣部」。その部を率いる部長こそが、かつて光臣が心から愛し、あの日、銀の広く頑強な胸の中に強引に奪い去られた少女――棗真夜であった。
「……おいおい、ここが天下の統道学園かよ。大したことねぇな!」
その日、静まり返っていた学園の校舎に、爆音のような大声が響き渡った。
金髪のリーゼントをなびかせ、制服の袖を捲り上げた特攻服姿の少年――凪宗一郎であった。その隣には、ドレッドヘアの巨漢、ボブ牧原が不敵な笑みを浮かべて並んでいる。
「喧嘩上等! この学園の頭を叩き潰して、俺たちが頂点をいただくぜ!」
宗一郎たちは独自の格闘センスと、我流のストリートファイトの腕だけを武器に、入学早々、出会った執行部員たちを片端から力任せに殴り倒し、己の力を証明せんと暴れ回っていた。彼らにとって、学園の裏に潜む「気」や「異能」といった未知の概念、そして重苦しい宿命の因縁など、知る由もなかった。ただの腕自慢の不良。それが今の彼らのすべてだった。
「ひゃはは! 威勢がいいねぇ、新入生!」
廊下の向こうから、執行部が放った刺客たちが武器を構えて襲いかかるが、宗一郎の放つ野性的な拳と、ボブの圧倒的な打撃の前に、次々と壁へと叩きつけられていく。
だが、彼らが調子に乗って旧校舎の薄暗い道場へと殴り込んだ瞬間、その場の異様な空気に、宗一郎の野生の勘がピきりと危険信号を鳴らした。
道場の中央。
そこには、数人の執行部員を従えた執行部会長・高柳光臣と、式刀『零毀(れいき)』を腰に帯びた棗真夜が、冷徹な対峙を続けていた。そして、真夜の後ろには、執行部を、そして実の兄である光臣を激しく睨みつける少年の姿があった。光臣の弟――高柳雅孝だった。
「執行部の命令は絶対だ、棗真夜。大人しく柔剣部の看板を下ろしてもらおうか」
光臣の声は、冷徹な支配者に相応しく硬質だったが、その瞳の奥には、真夜への歪んだ未練と、ドロドロとした執着の炎が爛々と燃え上がっていた。
「ふん、相変わらず偉そうにふんぞり返っているわね、光臣。私たちがそんな一方的な命令に、おとなしく首を縦に振ると思っているの?」
真夜は毅然とした態度で光臣を睨み返した。歳月は彼女を美しく、放置すれば男を狂わせるほどの色気を持つ女へと成長させていた。しかし、彼女がどれほど強く振る舞おうとも、光臣の鋭い視線は、彼女の開いた襟元から覗く首筋の生々しい『傷痕』を捉えていた。
それは、かつて慎を殺し、真夜の初めてと心のすべてを奪い去った男――銀が、彼女の柔らかな肉体に直接刻み込んだ、消えない主従の刻印であった。
光臣の拳が、激しい嫉嫉と劣等感でみしり、と不快な音を立てて硬く握りしめられる。
(真夜……お前はまだ、あの銀髪の怪物に縛られているのか……! 兄を殺した仇のはずの、あの男の檻の中で……!)
「兄貴……! これ以上、あなたの独善で真夜さんを、柔剣部を汚すのはやめてくれ!」
雅孝が拳を握りしめて叫ぶが、光臣は実の弟を一瞥すらしない。
「あぁん? なんだよ、お前らがこの学園のトップか?」
割り込んできた宗一郎が、光臣に向かって拳を突き出す。
「上等だ! 会長だか何だか知らねぇが、まずはそのすましたツラを殴り飛ばして――」
「目障りだ、ガキども。お前たちの遊戯に付き合っている暇はない」
【二】
地を幾うように低く、そして凍りつくほど冷徹な、冷たい鉄の擦れ合うような声音。
道場の天井の梁の上から、音もなく舞い降りてきたのは、見上げるほど大柄な体躯を持つ男であった。
身長は199センチ。鍛え上げられた岩石のような超筋肉質な体格。闇の中に浮かび上がるように静かに輝く銀髪をなびかせ、切れ長の奥にあるその瞳は、宝石のように澄んだ、しかし一切の温度を感じさせないエメラルドグリーンだった。
男の名は、銀(ぎん)。
「な……んだ、アイツ……!?」
宗一郎とボブは息を呑んだ。ただ近くに降り立たれただけで、全身の肌が粟立ち、呼吸が詰まるほどの凄まじいプレッシャーが、道場内を一瞬で支配したのだ。それが、のちに知る「気」という超常的なエネルギーの威圧感だとは、今の宗一郎には理解すらできなかった。ただ、本能が「化け物だ」と告げていた。
雅孝もまた、その圧倒的な存在感を前に、激しい恐怖と、何よりも胸を掻きむしるような絶望に襲われていた。自分の愛する真夜を、その身も心も支配している、銀髪の怪物。
銀は宗一郎たちの動揺など一瞥すら呉れず、その大柄な体躯を滑り込ませた。
外見とは裏腹に、無言のまま真夜の華奢な腰をその丸太のように太い腕で強引に引き寄せると、自らの分厚い胸板の中へとすっぽりと閉じ込めたのだ。
「あ……、ぎん……さん……っ」
真夜の身体が、本能的な恐怖と、それ以上に激しい熱を帯びて、銀の腕の中で硬直した。
真夜の胸の奥を占めているのは、最愛の兄を殺したこの男への「凄まじい憎悪」であった。今すぐ殺してやりたいと魂が叫んでいる。しかし同時に、この男の放つ圧倒的な暴力と、自分のすべてを組み伏せる強固な筋肉の熱に、「それに勝る狂おしいほどの愛」を注がれ、銀の広く頑強な胸の中でしか息ができない身体にされていた。
銀の大きな、硬い手のひらが、真夜の髪を驚くほど優しく、しかし他者を一切寄せ付けないという強い独占欲を込めて撫で上げる。これこそが、彼女にだけ与えられる、恐怖の裏の甘い愛撫であった。
それを見つめる雅孝の胸に、ドス黒い「やきもち」と無力感が突き刺さる。
(真夜さん……どうして……。仇のはずのあの男の腕の中で、そんな、女の顔をするんだ……っ!)
「お前がどれだけ会長として権力を握ろうが、この女の心も肉体も、最初からすべて俺の檻の中にある」
銀の低い声が、光臣のプライドを完膚なきまでに叩き潰すように響く。
「銀! 真夜からその汚い手を離せ! 今日こそ、お前をここで完全にねじ伏せて、真夜を奪い返してやる!」
光臣が我を忘れて激怒し、高柳飛翔鳳拳の凄まじい龍の気を拳に最大出力で宿すと、銀の顔面目がけて真っ直ぐに突撃した。空間が黄金の光で染まるほどの、一撃必殺の拳。
同時に、「何カッコつけてやがんだ!」と、宗一郎も自身の我流の、ただの生身の拳を力任せに振り回し、銀の脇腹へと同時に殴りかかった。
だが、銀のエメラルドの瞳には一片の揺らぎもなかった。
銀が静かに息を吐いた瞬間、彼の背後から、かつて慎を滅ぼした暗黒の気の波動――『黒厳蛇(こくげんだ)』が爆発的に噴出した。漆黒の巨蛇が無数の首をうねらせて咆哮をあげ、光臣の放った龍の気と、宗一郎のただの生身の突撃を、正面から完璧に噛み砕き、その波動を跡形もなく霧散させたのだ。
「がはっ……!? くそ、力が……!」
「うわあああっ!?」
目に見えない巨大な衝撃波に正面から押し戻され、光臣は血を吐きながら、そして「気」という存在すら知らない宗一郎とボブは、何が起きたのかさえ分からぬまま、雅孝もろとも武道場の床へと激しく這いつくばった。圧倒的な実力差。高柳の兄弟の確執も、新入生のただの喧嘩拳も、銀にとっては路傍の石ころを端に蹴り飛ばすのと同義だった。
「戦場に未練を持ち込むな、光臣。お前には真夜を救う力も、抱きしめる覚悟もない」
銀は真夜をその逞しい腕で横抱きにすると、床に這いつくばる光臣や雅孝、宗一郎たちには二度と目もくれず、何事もなかったかのように武道場を去ろうと歩き出す。真夜は銀の広く分厚い胸板に小さく顔を埋め、彼の強固な筋肉の熱に触れながら、光臣や雅孝へ激しいやきもちを抱かせつつも、銀の冷酷な呪縛の中に、より深く、狂おしく依存していくのだった――。