『天上天下 〜銀髪の蛇、宿命の檻〜』 作:トート
【一】
武道場を襲ったあの漆黒の嵐が去ったあとも、学園を包む空気は微塵も軽くなってはいなかった。それどころか、中央大武道場に残された破壊の爪痕――砕け散った鉄扉の破片や、凄まじい衝撃によってひび割れたコンクリートの床板は、居合わせた者たちの心に消えない戦慄を刻み込んでいた。
「くそっ……! なんだよ、アイツは……! 触れてもいねぇのに、俺の体が一瞬でぶっ飛びやがった……っ!」
放課後の夕闇が迫る旧校舎の一室。凪宗一郎は、包帯が巻かれた己の拳を激しく机に叩きつけ、悔し涙を滲ませながら怒声をあげた。
隣に立つボブ牧原もまた、常に不敵だった表情を完全に失い、自らの震える両腕を見つめて硬直している。入学早々、学園の頂点を獲ると豪語して我流のストリートファイトを繰り広げていた彼らにとって、銀の放った暗黒の波動――のちに知る『気』という未知の超常エネルギーによる暴虐は、自分たちの常識が一切通用しないことを思い知らされる、あまりにも残酷な現実であった。
「……当然だ。あの男は、最初から俺たちの生きる次元とは違う場所にいる」
部屋の隅、暗がりに腕を組んで佇んでいた高柳雅孝が、低く絞り出すような声をあげた。その拳は、実の兄である光臣への激しい反発と、何よりも銀という存在への恐怖で、小刻みに震えている。
「あの男の名前は、銀だ。数年前、学園の最高実力者だった真夜さんの兄……棗慎先輩の命を奪い、俺の兄貴を徹底的に打ちのめしたのが、あの銀髪の怪物だ。お前らみたいな新入生のただの喧嘩ごとき、あの男にとっては路傍の石ころを蹴り飛ばすのと変わらねぇんだよ。アイツらが操る力は、お前らの知らない『気』と呼ばれる精神エネルギーだ」
「き……? なんだよ、そのオカルトみたいなのは……っ!」
宗一郎が目を見開く。
「理屈じゃない。体感しただろ、あの圧倒的な暴力を」
雅孝は一瞬だけ、痛みを堪えるように奥歯を噛み締めた。
「真夜さんはアイツを殺したいほど憎んでいるはずだ……。なのに、あの男が来ると、真夜さんは逆らうことすらできない。俺は……兄貴の独裁も、あの男の存在も許せない。俺たちの手で、真夜さんを、柔剣部をあの絶望から救い出す。そのためにはお前ら、死ぬ気で強くなる覚悟はあるか?」
雅孝の切実な問いかけに、武道場で見た光景が宗一郎の脳裏に鮮烈に蘇った。
百九十九センチメートルの圧倒的な巨躯を誇る、銀の鋼のような体格。実体化した闇のような漆黒の蛇を従え、その分厚い胸板の中にすっぽりと閉じ込められながら、恐怖し、しかしどこか狂おしいほどの熱を帯びて彼に身を委ねていた棗真夜の、あの哀しくも美しい表情。
「……あるに決まってんだろッ!」
宗一郎が拳をさらに固く握りしめた。
「その『気』だか何だか知らねぇが、そんなに強い力なら、俺がそいつをぶん取ってアイツを殴り飛ばす! 柔剣部に入って、あの女の人の心をアイツから奪い返してやる!」
「あ、あの……!」
その時、部室の扉を控えめに開けて入ってきたのは、長い黒髪をなびかせた、まだ入学したての美少女――真夜の妹である棗亜夜であった。
亜夜は数日前、入学式の日に偶然出会った宗一郎の圧倒的な野性と強さに一目惚れし、彼をただ純粋に追いかけてこの柔剣部へと辿り着いたのだった。二人はまだ、お互いの名前を交わして間もない、出会ったばかりの初々しい関係に過ぎなかった。
「あ……! 君は、入学式の時の……」
宗一郎が驚いて目を丸くする。
「凪くん……怪我したって聞いたから、心配で……。私、お姉ちゃんの妹の亜夜です。私もこの部活に入ります。凪くんと一緒にいたいから!」
亜夜のその純粋すぎる光。それが、この後に起こる最悪の調教劇の、冷酷な引き金になるとは、その場の誰も予想していなかった。
雅孝は静かに、しかし決して消えない決意の炎を瞳に宿し、宗一郎、ボブ、そして気の存在をまだ掴みきれていない新入生たちを引き連れて、真夜のいる奥の道場へと足を進める。少年たちの壊れゆく純粋な正義感が、絶対的な強者への反逆を誓い、柔剣部での死線を超える特訓がここに幕を開けようとしていた。
【二】
同じ夜。
柔剣部室のさらに奥、外界の喧騒が一切届かない、厚い壁に囲まれた薄暗い私室。
部屋の隅に置かれた壊れた計器の電子音が不気味に低く響く中、真夜は古びた寝台のシーツの上に倒れ伏したまま、全身を小刻みに震わせていた。
格子窓から差し込む青白い月光が、彼女の乱れた衣服、および露わになった白い首筋に生々しく残る、銀の指先の『傷痕』を妖しく照らし出している。
真夜の胸の内を支配していたのは、血を流すような「凄まじい憎悪」であった。
(殺してやりたい……っ。あの銀髪を毟り取り、その冷酷なエメラルドの瞳を抉り出してやりたい……っ。あの男は、私の最愛の兄を殺した仇……!)
どれほどの歳月が流れようとも、あの雨の庭で慎の命が絶たれたあの生々しい瞬間を、真夜が忘れることはない。毎日、鏡を見るたびに首筋の刻印を見つめ、銀への殺意を燃料にして自らの気を研ぎ澄ませてきた。自分は兄の仇を討つための復讐の人形なのだと、魂の底から呪詛を吐き続けていた。
しかし――その凄まじい憎悪を遥かに痕跡を凌駕する漆黒の熱、「それに勝る狂おしいほどの愛」が、真夜の精神を完全に屈服させていた。
ガサリ、とベッドのシーツが重く沈んだ。
ただそれだけの気配に、真夜の五体は歓喜と恐怖で一瞬にして硬直する。振り返ると、そこには衣服をはだけさせ、特製の鎧を外した銀の巨躯がそびえ立っていた。
衣服の上からでも容易に分かる、丸太のように太い腕と鋼の硬度を持つ超筋肉質な体格が、真夜の視界のすべてを塞ぎ、逃げ場のない檻となって彼女を圧し潰す。
「あ……、ぎん……さん……っ」
真夜の口から、掠れた甘い吐息が漏れる。
銀は一片の温度も宿さないエメラルドグリーンの瞳で真夜を見下ろすと、その大きな、硬い手のひらで、彼女の細い首筋を容赦なく掴み上げ、強引に上を向かせた。万力のような怪力が加わり、気管が圧迫されて真夜の顔が苦痛に歪む。これこそが、彼の容赦のない冷酷な鞭であった。
「昼間は随分と嬉しそうに光臣の前に立ちはだかっていたな、真夜。それに、新入生のガキどもや雅孝……お前の可愛い妹である亜夜まで、あの場所に引き連れて、醜いやきもちの視線を撒き散らしていたな」
銀の声は地を這うように低く、硬質だった。
「あいつらの放つ気がそんなに恋しかったか? お前の妹も、なかなかに良い『道具』になりそうだ。牙を剥くならいつでも骸に変えてやるが、お前のお仕置きの駒として、俺の隣で飼ってやるのも悪くない」
「亜夜に……妹に手を出すのは、やめて……っ!」
真夜は涙を流しながらも、銀の広く頑強な胸板に必死に腕を回し、その頑強な胸にしがみついた。妹を巻き込みたくないという恐怖。まだ出会ったばかりの亜夜の純粋な存在が銀の目に触れたことに対する、頭がおかしくなりそうなほどの激しいやきもち。
殺したいほど憎い。けれど、この圧倒的な強者に組み伏せるように抱かれ、抵抗を完全に無にされるその暴虐の瞬間に、真夜の心は、言葉にできない歪んだ悦びと絶頂の昂ぶりを迎えていた。
銀は彼女の瞳に宿る凄まじい憎悪と愛の歪みを見つめると、不意に首筋に込めていた力を完全に抜いた。
正式な愛撫ではない。しかし、先ほどまでの暴虐が嘘のように、彼の大きな手のひらが真夜の頬を優しく、愛おしむように包み込んだ。無骨な指先が、流れる涙を丁寧に拭い、首筋から鎖骨へと熱を帯びて甘く滑り落ちる。
恐怖の絶頂の後に与えられる、この上なく甘い安堵と、自分だけのものであるはずの優しい手つきという飴。
銀の指先が触れるたび、真夜の脳内には、強烈な快感と痺れが駆け抜けた。光臣や雅孝、そして新しく現れた妹の存在によって煽られた激しいやきもちが、銀の密やかな手つきによって、歪んだ形で満たされていく。
「……ん、ぁ……っ。死ぬほど憎いわ、銀……っ。だから、もっと私を壊しなさい……。光臣の未練や、雅孝の視線、亜夜の純粋さなんかじゃ、私のこの渇きは一生埋められない……っ!」
その口から漏れ出たのは、服従を通り越して、銀の檻の中に自ら溺れていこうとする狂おしいほどの依存の告白だった。真夜は銀の頑強な筋肉の熱に自ら額を押し付け、彼なしでは息ができない壊れた人形へと、さらに深く堕ちていくのだった。
【三】
同じ深夜、学園の最高峰に位置する執行部会長室。
全ての明かりが消された暗闇の中、高柳光臣は、重厚な机の上に置かれた書類のすべてを床へと叩きつけ、激しい怒りと劣等感で肩を荒く揺らしていた。
「銀……! お前はどこまで真夜を弄べば気が済むんだ……ッ!」
昼間、武道場で銀の『黒厳蛇』の前に手も足も出ず這いつくばらされた屈辱。真夜が銀の広く頑強な胸の中に収まった瞬間、恐怖しながらも完全に彼に身を委ね、銀だけを求めていた「女」の表情。
それが、光臣の持つ高柳の正統なるプライドを、内側からズタズタに引き裂いていた。さらに、実の弟である雅孝だけでなく、慎のもう一人の妹である亜夜までもが柔剣部に集まり、自分たちに牙を剥こうとしている現実が、彼の独占欲を狂気へと変えていく。
光臣の拳から、激しい嫉妬と独占欲に応じるように、凄まじい龍の気の波動が黄金色の陽炎となって立ち上り、暗闇の部屋を妖しく照らし出す。
「俺は世界の秩序となる。そして、お前をその銀髪ごと完全に葬り去り、真夜を必ずこの手で奪い返してやる……!」
宿命の糸に縛られた者たちの愛憎劇は、新入生である宗一郎たちが初めて「気」の存在に直面した戸惑い、雅孝の決意、亜夜の合流、および学園の支配権を巡る血生臭い武力抗争とともに、もはや誰にも修復不可能な破滅の段階へと向かって、一気にそのテンポを加速させていくのだった――。