『天上天下 〜銀髪の蛇、宿命の檻〜』 作:トート
【一】
執行部最強の特攻隊長である道海が、新入生・凪宗一郎の内に眠る「魔人の血」の覚醒、そして本能が導いた爆拳の気によって完膚なきまでに叩き潰されたという報は、またたく間に私立統道学園全体へと衝撃となって駆け巡った。
だが、それは柔剣部にとっての勝利や平穏を意味してはいなかった。むしろ、世界の秩序そのものを自負する高柳光臣率いる執行部を完全に本気にさせ、柔剣部を「学園の秩序を根底から乱す絶対的な反逆者」として公式に指名手配するための、冷酷な免罪符を執行部に与えたに過ぎなかった。
学園の至る所に漆黒の制服をまとった執行部員が配備され、張り詰めた緊張感が、重苦しい静寂となって校舎を支配している。
「ハァ……ハァ……ッ! 雅孝、これで……これで本当にいいか!?」
旧校舎の裏庭、血を吐くような凄絶な特訓は、道海戦の翌朝からも休むことなく続けられていた。
宗一郎は、道海を打ち破ったあの漆黒の気の波動を、今度は己の意志で御せんと、全身の血管が浮き出るほどに精神エネルギーを激しく練り上げていた。ボブ牧原もまた、大気を爆裂させるほどの打撃を虚空へと放ち、己の五体を限界まで鋭利な武器へと研ぎ澄ませている。まだ彼らは目覚めたばかりの膨大な力の制御方法を知らない。ただの不良の喧嘩の延長線上にあった拳が、異能という名の凄絶な戦場へと引きずり込まれ、肉体と精神が軋むような悲鳴を上げていた。
「息を止めるな、宗一郎! 体内の大脈を意識し、気の暴走を力でねじ伏せろ!」
一歩下がった位置から声を荒らげる高柳雅孝の瞳には、かつてないほどの焦燥感が宿っていた。
実の兄である光臣が、柔剣部を、そして何よりも真夜さんを力尽くで奪い返すために、執行部の総力を挙げた「一斉武力殲滅」の準備を進めていることを、高柳の血筋である彼は察知していた。何より、あの武道場で見た、銀の分厚い胸板の中にすっぽりと閉じ込められながら、激しいやきもちと恐怖の裏で銀だけを求めていた真夜のあの表情が、雅孝を狂気的な強さへの渇望へと駆り立てていた。
「凪くん……無理しないで、これ、冷たいタオルよ!」
木陰から駆け寄ってきたのは、美しい茶髪を風になびかせた棗亜夜であった。
彼女はそれなりに戦える一族の体術の基礎を持っていたが、それでも、この学園の底で蠢くドロドロとした大人の愛憎の深淵までは、まだ何も見えてはいなかった。ただ、傷つきながらも強くなろうとする宗一郎を健気に支えたいという、無垢な純粋さだけがそこにあった。その鮮やかな茶髪ときらきらとした瞳は、暗い私室で銀の呪縛に溺れていく姉・真夜の暗闇と、あまりにも残酷な対比を描いていた。
「おう、サンキューな、亜夜。……俺は、もっと強くならなきゃいけないんだ。あの銀髪の男の手から、真夜さんを……柔剣部を絶対に救い出すために!」
宗一郎が包帯の血を滲ませながら叫ぶ。少年たちの壊れゆく純粋な正義感が、姿なき怪物への反逆を胸に、急速に牙を研ぎ澄ませていく。
【二】
同じ頃、外界の喧騒が一切届かない、柔剣部室のさらに奥にある薄暗い私室。
銀の巨躯はそこにはなかった。しかし、銀のいない静寂の夜だからこそ、古びた寝台の上に横たわる真夜の胸の内は、引き裂かれるような情念で狂いそうになっていた。
(殺したい……っ。あの銀髪をこの手で引き千切り、兄さんの仇を討つ……っ)
真夜の胸を占めるのは、銀への凄まじい憎悪だ。しかし、彼がそばにいない冷たさが、逆に、彼女の皮膚の裏側に残る銀の無骨な手のひらの熱を、生々しい鮮烈な記憶として呼び覚ましていた。あの圧倒的な暴虐で自分を壁に圧し潰したあとに与えられる、自分だけのものであるはずの優しい手つき。
その記憶が脳内を支配するたび、真夜の心は、それに勝る狂おしいほどの愛に灼かれ、彼なしでは息ができない壊れた人形のように震えるのだった。
無用な殺生は絶対にせず、道海戦のようなここぞという瞬間にだけ、銀の呪縛を宿した圧倒的な気を解放する誇り高き部長。しかし、その内面はすでに、銀という絶対的な檻の前に完全に魂まで屈服させられていた。
「……ん、ぁ……っ。死ぬほど憎いのに……どうして、あんたの熱が、こんなに愛おしいの……っ!」
真夜は涙を流しながら、自らの首筋に残る傷痕を強く指でなぞった。光臣の未練や、雅孝の視線、そして妹である亜夜の純粋な光――それらが迫れば迫るほど、真夜のやきもちは歪んだ形で銀への絶対的な依存へと昇華されていく。
だがその時、真夜は自らの体内に流れる気の異変に、冷たい戦慄を覚えた。
道海と戦った際に引き出した、銀の『黒厳蛇』の残滓を孕んだ暗黒の気。それが、真夜の意志とは無関係に、まるで意志を持つ本物の蛇のように、彼女の体内で不気味に脈打ち、暴走の兆候を示し始めていたのだ。
(この気は……一体何……? まるで、かつての兄さんの……)
それは、かつて棗慎を自己崩壊へと追いやった、異能の暴走という名の破滅の足音が、真夜のすぐ背後にまで迫っている証拠であった。銀の呪縛に囚われた代償として、真夜の精神と気の根源は、すでに引き返せない破滅の段階へと引きずり込まれ始めていたのだ。
【三】
同じ深夜、学園の最高峰に位置する執行部会長室。
高柳光臣は、重厚なマホガニーの机の上に置かれた「柔剣部全員抹殺」の作戦計画書を睨みつけながら、黄金色に輝く龍の気の波動を全身から陽炎のように立ち上らせていた。
道海の敗北。実の弟である雅孝、および慎の妹である亜夜までもが柔剣部に集まり、自分に牙を剥こうとしている現実。何よりも、銀の広く頑強な胸の中にすっぽりと収まっていた時の真夜の表情が、彼の独占欲を狂気へと変えていた。
「銀……お前がどれだけ真夜の五体を縛ろうが関係ない。俺は高柳のすべてを、この学園のシステムのすべてを賭けて、お前をその銀髪ごと完全に葬り去る」
光臣の目は、激しいやきもちと劣等感で完全に濁りきっていた。
「全執行部員に通達しろ。明日、柔剣部を完全に包囲し、一人残らず骸に変える。……真夜、お前をあの怪物の檻から救い出し、この手で永遠に支配してやる……!」
宿命の糸に縛られた者たちの愛憎劇は、学園全体を戦火で包み込む大天脈の最終決戦、そして真夜と銀の心中へと向かう美しくも残酷な破滅の段階へと向かって、一気にそのテンポを最高潮へと加速させていくのだった――。
【四】
翌朝の統道学園は、かつてない濃霧に包まれていた。白く濁った視界は、まるでこれから流れるであろう無数の血をあらかじめ覆い隠そうとしているかのようだった。旧校舎へと続く一本道、その静寂を破り、何百もの足音が規則正しく響き渡る。
漆黒の執行部制服に身を包んだ精鋭たちが、一切の容赦を捨てた冷徹な陣形を組み、柔剣部道場を完全に大包囲していた。その先頭に立つのは、高柳一族の正統なる血脈、執行部会長・高柳光臣。
「柔剣部、および学園に仇なす異能者よ。これ以上の抵抗は無意味だ。神妙に捕縛に応じるか、それともここでその五体を打ち砕かれるか、選ぶがいい」
光臣の拡声器を通した低い声音が、霧の奥に佇む古い道場へと叩きつけられる。彼の全身からは、かつてないほど濃密な黄金の龍の気が立ち上り、周囲の水分を蒸発させていた。
「ふん、大層な包囲網を敷いてくれたわね、光臣。相変わらず自分の手は汚さずに、数に頼るやり方は感心しないわ」
道場の扉が静かに開き、現れたのは棗真夜だった。
腰に『零毀』を帯びたその姿は、大人の色気と強固な覚悟をまとっていたが、彼女の息遣いは昨夜から続く体内の気の反乱によって、微かに乱れていた。そのすぐ後ろには、額に大粒の汗を浮かべ、拳を固く握りしめた凪宗一郎とボブ牧原、そして茶髪を風に揺らした棗亜夜と高柳雅孝が並び立つ。
「真夜さん……俺が、あの兄貴を止めます」
雅孝が前に出ようとするが、真夜はそれを細い手で制した。
「いいえ、雅孝。これは私と光臣、そしてあの人との因縁よ。あなたたちは新入生を守りなさい」
「問答は不要だ。突撃しろ。柔剣部を根絶やしにせよ」
光臣の冷酷な右手が下ろされた瞬間、大包囲網が一斉に縮まった。数百の暗殺者や精鋭部隊が、一斉に武器を構えて道場へと殺到する。
「らあああッ!! 喧嘩なら負けねぇって言っただろッ!!」
宗一郎が吠え、体内で覚醒したばかりの爆拳の気を拳に宿して突撃した。ボブもまた、その人間離れした打撃で迫り来る執行部員を次々と壁へと叩きつけていく。特訓の成果は確実に実を結んでおり、まだ完全に制御できていないとはいえ、その一撃一撃は執行部の強固な盾を粉砕するほどの破壊力を秘めていた。
「宗一郎くんの邪魔はさせないわ!」
亜夜もまた、茶髪を翻しながら棗一族の体術を駆使し、襲いかかる部員の腕を掴んで鋭い投げ技で見事に無力化していく。それなりに戦える彼女の凛々しい姿が、混沌とした戦場の中で一筋の光となっていた。
だが、数があまりにも圧倒的すぎた。十人を倒せば二十人が現れ、少年たちの精神エネルギーは確実に削り取られていく。
「くっ、このままじゃ……」
雅孝が柔術の極意で敵の攻撃を受け流しながらも、じりじりと後退を余儀なくされていく。
【五】
その戦場の真ん中で、ついに「その瞬間」が訪れた。
「あ……、くっ……あ、あああああッ!!」
突如として、真夜が凄惨な悲鳴を上げてその場に膝をついた。彼女の腰にある『零毀』が不気味に共鳴し、衣服を突き破らんばかりに、彼女の五体から「漆黒の気の波動」が爆発的に噴出したのだ。
「真夜さん!?」
「お姉ちゃん!?」
雅孝と亜夜が驚愕に目を剥く。真夜から放たれているのは、彼女自身の気ではなかった。それは、姿を見せぬ銀の冷酷な調教によって彼女の精神の深奥に植え付けられ、体内で不気味にとぐろを巻いていた銀の『黒厳蛇』の気そのものだった。
道海戦でその禁忌の力を解放した代償が、今、最悪の形で牙を剥いたのだ。
漆黒の巨大な大蛇の幻影が、真夜の背後から陽炎のように立ち上り、周囲の空間を激しく歪ませていく。真夜の切れ長の瞳は完全に生気を失い、エメラルドグリーンに妖しく発光し始めていた。かつて銀に殺された兄、棗慎と全く同じ、異能の許容量を超えた「自己崩壊の暴走」。
「ぎ、銀……さん……。殺して……でも、愛して、私を……っ!」
真夜の口から漏れ出たのは、狂おしいほどの愛憎に引き裂かれた絶叫だった。暴走した『黒厳蛇』の気は、真夜の意志を完全に奪い去り、周囲にいる執行部員だけでなく、助けようと手を伸ばした宗一郎や亜夜たちをも、無差別に噛み砕こうと無数の首をしならせた。
「な……んだよ、あれ……! 真夜さんが、化け物の気に飲み込まれていく……っ!」
宗一郎がその圧倒的な闇の前に圧倒され、言葉を失う。
「真夜……! お前は、そこまであの男に……!」
包囲網の奥でそれを見た光臣の顔が、激しい絶望と嫉妬で歪みきった。
学園全体を巻き込む大天脈の決戦は、銀の姿なき呪縛がもたらした最悪の暴走によって、敵も味方もない破滅の地獄へと変貌を遂げようとしていた。真夜を、そして学園をこの狂気から救い出すためには、もはや全ての因縁を捨てて、あの銀髪の怪物の牙を物理的に打ち砕くしかない。少年たちの正義と、大人たちの未練が激しく交錯する中、物語はついに本当の最終決戦へと突入していくのだった――。