午前一時を過ぎたころ、街は急に音を失う。
昼間にはあれほど騒がしかった商店街も、終電後にはシャッターの海になる。自販機だけが白く光っていて、その光に吸い寄せられる蛾の影が、ゆっくり壁を這っていた。
僕は眠れなくて、夜の住宅街を歩いていた。
理由は特になかった。ただ、布団の中にいると胸の奥がざわざわして、静かな場所へ逃げたくなったのだ。
空気は少し冷たい。
遠くで犬が鳴いた。
そのとき、交差点のミラーの向こうに、妙な子が立っているのが見えた。
緑色の髪。
黒い帽子。
妙に無邪気な笑顔。
そして胸のあたりに、よくわからない目玉みたいな模様がふわふわ浮いている。
「こんばんはー」
彼女は、昔から知り合いだったみたいな声で言った。
僕は思わず立ち止まる。
「……誰?」
「こいし!」
あっけらかんと彼女は言った。
まるで名前だけで全部通じると思っているみたいに。
こいしちゃんは僕の周りをくるくる歩き始めた。靴音は妙に軽く、まるで夜そのものが歩いているみたいだった。
「君、眠れないんでしょ」
「なんでわかるの」
「夜を歩いてる人って、だいたいそうだよ」
彼女は自販機の前でしゃがみ込み、光る商品棚をじっと見上げた。
「ねえねえ、あったかいココア買って」
「急だな……」
「だって寒いもん」
僕は苦笑しながらココアを二本買った。
こいしちゃんは缶を受け取ると、子供みたいに嬉しそうに笑った。
「ありがと」
その笑顔は妙に自然で、見ているとこちらの警戒心が少しずつ薄れていった。
僕たちは川沿いの道を歩いた。
街灯が水面に揺れている。夜風で木々がざわめき、その音だけが世界の端まで続いているみたいだった。
「君さ」
こいしちゃんが突然言う。
「考えすぎるタイプでしょ」
「……そうかも」
「夜ってね、考えすぎる人には毒なんだよ」
彼女は欄干に身を乗り出し、黒い川を覗き込む。
「昼間は色んな音があるから、嫌なこと考えなくて済むの。でも夜は静かだから、自分の頭の中の声が大きくなる」
僕は返事をしなかった。
図星だった。
未来のこととか、失敗したこととか、もう戻れない会話とか。夜になると、そういうものばかり浮かんでくる。
「でもね」
こいしちゃんはくるりと振り向いた。
「夜は、隠れてるものが見える時間でもあるんだよ」
「隠れてるもの?」
「ほんとの気持ちとか」
風が吹いた。
彼女の髪が揺れる。
その瞬間だけ、彼女が少し透明に見えた。
まるで最初から人間じゃなかったみたいに。
「君、本当は寂しいんでしょ」
その言葉に、胸の奥が小さく痛んだ。
僕は笑って誤魔化そうとしたけれど、うまくできなかった。
こいしちゃんはそんな僕を見て、ふっと目を細めた。
「大丈夫だよ」
彼女は言った。
「夜にしか会えないものもあるから」
川の向こうで始発電車が走った。
遠くの空が少しだけ青くなり始めている。
「そろそろ帰るね」
こいしちゃんは帽子を押さえながら後ろ歩きした。
「また会える?」
僕が聞くと、彼女は少し考えてから笑った。
「忘れたころにね」
そして次の瞬間、風が吹いた。
気づけば、そこには誰もいなかった。
ただ、自販機のぬるい光だけが静かに夜を照らしていた。
僕は一人で立ち尽くしながら、冷めかけたココアを飲んだ。
少し甘すぎた。
でも、その甘さが妙に夜に合っていた。