夜にこいしちゃんとお話するだけ   作:居酒屋の枝豆

2 / 5
雨の夜にこいしちゃんとお話するだけ

夜の二時だった。

雨が降っていた。

強い雨じゃない。街灯に照らされると、ようやく見えるくらいの細い雨。

僕は傘を持たずに歩いていた。

どうせすぐ帰るつもりだったし、少しくらい濡れた方が頭が冷える気がしたのだ。

コンビニの明かりが滲んでいる。

信号機の赤が、濡れた道路の上でゆらゆら揺れていた。

その交差点に、こいしちゃんはいた。

「わ、びしょ濡れ」

第一声がそれだった。

彼女はバス停の屋根の下に座って、足をぶらぶらさせていた。今日は黄色いレインコートを着ている。

けれど傘は持っていない。

「こいしちゃんこそ」

「私は平気。見えないんだから」

意味のわからないことを言って、彼女は笑った。

僕はバス停の隣に立った。

雨の音がする。

静かな夜だった。

「眠れないの?」

こいしちゃんが聞く。

「まあ」

「ふーん」

彼女は缶ジュースを指で転がしながら、ぼんやり道路を眺めていた。

車はほとんど通らない。

世界に僕たちしかいないみたいだった。

「ねえ」

しばらくして、彼女が言った。

「夜ってさ、落ちたものが集まる時間なんだよ」

「落ちたもの?」

「昼間に誰かが落っことした気持ちとか」

彼女は胸の前に浮かぶ目をひとつ撫でた。

「言えなかったこととか、諦めたこととか。そういうの、夜になるとふわふわ浮いてくるの」

僕は笑った。

「詩人みたいなこと言うね」

「えへへ」

こいしちゃんは嬉しそうに笑う。

「でもほんとだよ。ほら、あそこ」

彼女が指差した先には、濡れた歩道しかなかった。

けれど少しだけ、何かが見えた気がした。

透明な影みたいなもの。

誰かのため息みたいなもの。

雨の中を漂って、排水溝へ流れていく。

「君もいっぱい落としてる」

「……何を」

「色々」

こいしちゃんは簡単に言う。

「本当は怒ってたこととか、本当は寂しかったこととか」

雨音が急に近く聞こえた。

僕は黙る。

彼女はそういうところがある。

ふざけているみたいなのに、ときどき心の奥を覗いてくる。

「でもね」

こいしちゃんは立ち上がった。

レインコートの裾から雨粒が落ちる。

「落としたものって、別に拾わなくてもいいんだよ」

「え?」

「無理して大事にしなくていいの。苦しいなら流しちゃえばいい」

彼女は道路に出て、くるりと回った。

黄色い裾が夜にひらく。

「人間って、捨てるの下手だよね」

その言葉が、なぜだか胸に残った。

遠くで雷が鳴った。

空が少し白く光る。

こいしちゃんは空を見上げる。

「朝が来るなあ」

「嫌なの?」

「うん。夜の方が好き」

「なんで」

彼女は少し考えてから答えた。

「昼はみんな、自分を隠すから」

雨が少し弱くなった。

街の輪郭がぼんやり浮かび始める。

こいしちゃんは僕の方を見た。

「でも君は、夜だとちゃんと息してるね」

その言葉に、うまく返事ができなかった。

彼女はにっと笑う。

「また眠れなくなったら歩いてよ。たぶんその辺いるから」

「猫みたいだな」

「飼ってはいるよ、私は猫じゃないけど」

そう言って、彼女は雨の向こうへ走っていった。

黄色いレインコートが、暗い街の中で小さく揺れる。

そして曲がり角を過ぎた瞬間、ふっと消えた。

本当に最初からいなかったみたいに。

僕だけがバス停に残される。

雨上がりの匂いがした。

時刻表についた水滴が月明かりを反射する。

僕は空を見上げる。

いつの間にか雨は止んでいた。

夜はまだ終わっていなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。