夜の二時だった。
雨が降っていた。
強い雨じゃない。街灯に照らされると、ようやく見えるくらいの細い雨。
僕は傘を持たずに歩いていた。
どうせすぐ帰るつもりだったし、少しくらい濡れた方が頭が冷える気がしたのだ。
コンビニの明かりが滲んでいる。
信号機の赤が、濡れた道路の上でゆらゆら揺れていた。
その交差点に、こいしちゃんはいた。
「わ、びしょ濡れ」
第一声がそれだった。
彼女はバス停の屋根の下に座って、足をぶらぶらさせていた。今日は黄色いレインコートを着ている。
けれど傘は持っていない。
「こいしちゃんこそ」
「私は平気。見えないんだから」
意味のわからないことを言って、彼女は笑った。
僕はバス停の隣に立った。
雨の音がする。
静かな夜だった。
「眠れないの?」
こいしちゃんが聞く。
「まあ」
「ふーん」
彼女は缶ジュースを指で転がしながら、ぼんやり道路を眺めていた。
車はほとんど通らない。
世界に僕たちしかいないみたいだった。
「ねえ」
しばらくして、彼女が言った。
「夜ってさ、落ちたものが集まる時間なんだよ」
「落ちたもの?」
「昼間に誰かが落っことした気持ちとか」
彼女は胸の前に浮かぶ目をひとつ撫でた。
「言えなかったこととか、諦めたこととか。そういうの、夜になるとふわふわ浮いてくるの」
僕は笑った。
「詩人みたいなこと言うね」
「えへへ」
こいしちゃんは嬉しそうに笑う。
「でもほんとだよ。ほら、あそこ」
彼女が指差した先には、濡れた歩道しかなかった。
けれど少しだけ、何かが見えた気がした。
透明な影みたいなもの。
誰かのため息みたいなもの。
雨の中を漂って、排水溝へ流れていく。
「君もいっぱい落としてる」
「……何を」
「色々」
こいしちゃんは簡単に言う。
「本当は怒ってたこととか、本当は寂しかったこととか」
雨音が急に近く聞こえた。
僕は黙る。
彼女はそういうところがある。
ふざけているみたいなのに、ときどき心の奥を覗いてくる。
「でもね」
こいしちゃんは立ち上がった。
レインコートの裾から雨粒が落ちる。
「落としたものって、別に拾わなくてもいいんだよ」
「え?」
「無理して大事にしなくていいの。苦しいなら流しちゃえばいい」
彼女は道路に出て、くるりと回った。
黄色い裾が夜にひらく。
「人間って、捨てるの下手だよね」
その言葉が、なぜだか胸に残った。
遠くで雷が鳴った。
空が少し白く光る。
こいしちゃんは空を見上げる。
「朝が来るなあ」
「嫌なの?」
「うん。夜の方が好き」
「なんで」
彼女は少し考えてから答えた。
「昼はみんな、自分を隠すから」
雨が少し弱くなった。
街の輪郭がぼんやり浮かび始める。
こいしちゃんは僕の方を見た。
「でも君は、夜だとちゃんと息してるね」
その言葉に、うまく返事ができなかった。
彼女はにっと笑う。
「また眠れなくなったら歩いてよ。たぶんその辺いるから」
「猫みたいだな」
「飼ってはいるよ、私は猫じゃないけど」
そう言って、彼女は雨の向こうへ走っていった。
黄色いレインコートが、暗い街の中で小さく揺れる。
そして曲がり角を過ぎた瞬間、ふっと消えた。
本当に最初からいなかったみたいに。
僕だけがバス停に残される。
雨上がりの匂いがした。
時刻表についた水滴が月明かりを反射する。
僕は空を見上げる。
いつの間にか雨は止んでいた。
夜はまだ終わっていなかった。