夜の三時。
秋の風は静かだった。
知らない住宅街を抜けた先に、小さな公園があった。
ブランコが二つ。
古い滑り台。
街灯が一つ。
誰もいない。
こいしちゃんは何も言わずにブランコに座った。
ぎい、と小さな音。
僕は少し離れたベンチに腰掛ける。
風が吹く。
木の葉が擦れる音。
遠くを走るトラックの音。
そんなものだけが夜に浮かんでいた。
「静かだね」
「うん」
「いい夜」
「そうだな」
しばらく何も話さない。
でも嫌じゃない。
むしろ、この静けさが懐かしかった。
昔もこんな風だった。
大した話をするわけでもなく。
ただ夜の中を一緒に歩いて。
時々どうでもいい話をして。
時々黙って。
それだけだった。
「ねえ」
こいしちゃんが揺れながら言う。
「君、変わんないね」
「またそれか」
「うん」
「変わってるよ」
「そう?」
「仕事してるし」
「うん」
「前より疲れるし」
「うん」
「相変わらず考えすぎるし」
「うん」
「たまに眠れないし」
「歩いてるし」
「歩いてる」
こいしちゃんは笑った。
「変わんない」
「だから変わってるって」
「違う違う」
ブランコが揺れる。
ぎい。
ぎい。
「なんていうんだろ」
彼女は空を見上げる。
「ちゃんと君」
風が帽子を揺らした。
「会ってない間、もっと別の人になっちゃうと思ってた」
「そんなに変われないよ」
「うん」
こいしちゃんは嬉しそうに笑った。
「知ってた」
「なんだそれ」
「だって君だもん」
月が雲から出てきた。
公園が少し明るくなる。
「ねえ」
「ん?」
「最近、眠れない日ある?」
「あるよ」
「ふーん」
「なんだよ」
「いや」
くすっと笑う。
「安心した」
「なんで」
「だって、全部平気になっちゃったら君じゃないもん」
思わず笑ってしまう。
「ひどいな」
「ひどくないよ」
こいしちゃんは足をぶらぶらさせる。
「人間なんて、ちょっと眠れなくて、ちょっと寂しくて、ちょっと考えすぎるくらいでいいんだよ」
「そんなもんか」
「そんなもん」
風が吹く。
どこかの家の風鈴が鳴った。
「君ね」
こいしちゃんがぽつりと言う。
「前より笑うようになったけど」
「うん」
「別に強くなったわけじゃない」
「……そうかも」
「うん」
「でも、それでいいと思う」
彼女は月を見ながら笑った。
「夜って、強い人のものじゃないもん」
静かな声だった。
「眠れない人とか」
「寂しい人とか」
「なんか考えすぎちゃう人とか」
「そういう人にも優しいから」
僕は夜空を見上げる。
星はあまり見えない。
都会の空だった。
それでも綺麗だった。
「そういえば」
僕が言う。
「こいしちゃん」
「ん?」
「久しぶりなんだよな」
「うん」
「なんか実感ない」
「私も」
「昨日も会ってた気がする」
こいしちゃんは少し笑った。
「夜って、そういうとこあるよね」
「会ってない時間まで、ちょっと曖昧にしちゃう」
ぎい。
ぎい。
ブランコが揺れる。
「でも」
彼女は僕を見る。
月明かりの中。
昔と変わらない笑顔。
「また会えてよかった」
その言葉は静かだった。
大げさじゃなくて。
寂しそうでもなくて。
ただ。
夜みたいに優しかった。
僕も少し笑う。
「うん」
それだけだった。
それだけで十分だった。
風が吹く。
秋の夜はまだ長い。
朝はきっと来る。
でも今はまだ。
もう少しだけ。
知らない道を歩いていたかった。