冬の夜だった。
雪は降っていない。
けれど、空気は凍るみたいに冷たかった。
午前一時。
人気のない川沿いを、僕は一人で歩いていた。
夜は好きだった。
昔ほどじゃない。
でも、嫌いにもなれなかった。
こいしちゃんと再会してから、もう何度か夜を歩いた。
ふらっと現れて。
ふらっといなくなる。
いつ会えるかもわからない。
でも、夜になれば、どこかで会える気がした。
それでよかった。
そう思っていた。
思っていたはずだった。
「……疲れたな」
声が夜に溶ける。
仕事。
人。
生活。
失ったもの。
増えていくもの。
笑える日もある。
幸せな日だってある。
なのに。
何故か最近、少しずつ重くなっていた。
上手く言えない。
不幸じゃない。
絶望しているわけでもない。
でも。
疲れていた。
心の奥が。
静かに。
ゆっくりと。
沈んでいくみたいに。
川を見る。
黒い水。
流れる音。
夜風。
「いた」
声がした。
振り返る。
「久しぶり」
こいしちゃんだった。
帽子の上に、枯葉が一枚乗っている。
「なんだそれ」
「知らない」
彼女は笑う。
「飛んできた」
いつも通りだった。
僕も少し笑う。
でも。
こいしちゃんは笑ったまま、僕を見ていた。
「元気ないね」
「そうか?」
「うん」
「そうかな」
「そう」
それだけだった。
追及しない。
理由も聞かない。
ただ、一緒に歩き始める。
風が冷たい。
コンビニの光。
遠くを走る車。
冬の匂い。
「ねえ」
こいしちゃんが空を見ながら言う。
「君、最近夜見てないね」
「見てるよ」
「見てない」
「歩いてるじゃん」
「歩いてるだけ」
月が雲に隠れる。
「前は、もっと色々見てた」
「猫とか」
「風とか」
「変な雲とか」
「知らない家の明かりとか」
「最近、足元ばっか」
僕は黙る。
図星だった。
「そっか」
こいしちゃんは頷く。
「疲れてるんだ」
「……かもな」
「うん」
それきりだった。
責めない。
慰めない。
ただ。
静かな夜を一緒に歩く。
やがて、小さな踏切に出た。
遮断機は上がったまま。
誰もいない。
赤いランプだけが点滅している。
二人で立ち止まる。
「ねえ」
こいしちゃんが言う。
「君さ」
「ん?」
「人間だよね」
「そうだけど」
「不思議」
「何が」
「人間って、疲れるの好きだよね」
思わず笑う。
「好きで疲れてるわけじゃない」
「そう?」
「うん」
「でも、頑張るじゃん」
冬の風が吹く。
「私、頑張るってよくわかんない」
「知ってる」
「夜は頑張らないもん」
赤い光が、彼女の顔を照らす。
「だからかな」
「君見てると、時々苦しそう」
「……」
「難しいね、人間」
遠くで電車の音がする。
まだ見えない。
でも、音だけが近づいてくる。
「ねえ」
こいしちゃんは言う。
「疲れたら、止まればいいのに」
「止まれないんだよ」
「なんで」
「色々あるんだ」
「ふーん」
電車の音が大きくなる。
「難しいね」
「難しいよ」
「うん」
少し沈黙。
そして。
「でも」
彼女は笑った。
「君、最近笑うの下手」
「ひどいな」
「ほんとだよ」
「昔はもっと変な顔してた」
「褒めてる?」
「褒めてる」
電車が通り過ぎる。
光が流れていく。
ごう、と風。
その中で。
こいしちゃんがぽつりと言った。
「春、来るね」
「まだ冬だぞ」
「うん」
「でも春は来るでしょ?」
「そうだな」
「桜も咲く」
「うん」
「夜もあったかくなる」
「そうだな」
彼女は笑う。
「だから」
「うん」
「それ見てからでもいいんじゃない?」
「何が」
「知らない」
くすっと笑う。
「春」
「結構好きだし」
踏切のランプが消える。
また静かな夜。
こいしちゃんは歩き出す。
「行こ」
「どこに」
「知らないとこ」
「またか」
「夜なんだから」
月が雲から出る。
その横顔は、いつもと変わらなかった。
でも。
何故だか。
その夜のこいしちゃんは。
少しだけ。
いつもより静かだった。
まるで。
僕が見ていない何かを、ずっと見ているみたいに。