十二月の終わりだった。
窓ガラスにはうっすらと白い結露がついている。
暖房はつけていたはずなのに、部屋の隅だけは少し冷えていた。
机の上には読みかけの本。
飲みかけのコーヒーはすっかり冷めていて、カップの縁に薄い膜が張っている。
時計を見る。
午後十一時十五分。
いつもなら、とっくにコートを羽織って外へ出ている時間だった。
街を歩く理由なんてなかった。
ただ家にいるより、外の空気を吸っている方が落ち着いた。
そんな夜が、ずっと続いていた。
けれど。
今日は靴を履く気になれなかった。
玄関に置いたままのスニーカーが、やけに遠く感じる。
別に眠いわけでもない。
疲れているのとも少し違う。
身体は動く。
ただ、立ち上がる理由だけが見つからなかった。
カーテンを少しだけ開ける。
街灯が一本。
その下を、自転車がゆっくり通り過ぎていく。
コンビニの袋が風に揺れる音。
どこかの家の風呂を沸かす音。
遠くで電車が橋を渡る低い響き。
世界はいつも通りだった。
変わっているのは、自分だけだった。
そのときだった。
コン。
控えめな音が玄関から聞こえた。
インターホンじゃない。
誰かが、指先で木の扉を叩いたような音。
こんな時間に訪ねてくる人なんて、一人しかいない。
ドアを開ける。
冷えた空気が一気に流れ込んできた。
思わず肩をすくめる。
「こんばんは。」
こいしちゃんが立っていた。
厚手のコートの襟元に顔を少し埋めて、帽子のつばを押さえている。
風が吹くたびに、長い髪が肩のあたりで揺れた。
吐いた息が白い。
「寒いね。」
笑いながら言う。
「……寒いな。」
「今年はいつもより冷える気がする。」
「毎年言ってないか?」
「そうだっけ。」
少し考えてから、自分で小さく笑った。
その笑い方は、何も変わっていなかった。
「今日は歩いてないんだね。」
自然な言い方だった。
責めるようでも、驚くようでもない。
ただ、いつもの時間にいつもの場所へ行ったら閉まっていた店を見つけたような。
そんな調子だった。
「うん。」
「そういう気分?」
「……そういう気分。」
「そっか。」
彼女はそれ以上聞かなかった。
代わりに玄関の段差へ腰を下ろす。
コンクリートは冷たいはずなのに、気にした様子もない。
「座ってもいい?」
「そこ寒いぞ。」
「ちょっとだけだから。」
僕も靴を履かないまま、玄関の上がり框に腰掛けた。
ドアを半分だけ開ける。
家の暖かい空気が外へ流れ、代わりに冬の匂いが部屋へ入ってくる。
乾いた土の匂い。
遠くの誰かが焚いた木の煙。
冷えたアスファルト。
そんな匂いだった。
しばらく二人とも何も話さない。
沈黙は不思議なくらい居心地がよかった。
玄関先から見える道は狭くて、昼間なら何の変哲もない住宅街だ。
でも、この時間になると少し違う。
向かいの家の二階だけがまだ明るい。
カーテン越しに、人影がゆっくり動く。
角の自動販売機だけが妙に明るくて、その光の周りを小さな虫が一匹だけ飛んでいた。
風が吹く。
電線がかすかに鳴る。
「ねえ。」
こいしちゃんが空を見上げた。
「今日は月がぼんやりしてる。」
僕も見上げる。
薄い雲が流れていて、月の輪郭が少しだけ滲んでいた。
「明日は晴れるかな。」
「どうだろう。」
「晴れるといいね。」
「なんで?」
「歩きやすいから。」
その言葉に少しだけ笑う。
「今日は歩いてないのに。」
「今日は歩かない日。」
彼女は穏やかに言う。
「でも、明日はわからないでしょ。」
風がまた吹いた。
帽子が飛ばされそうになって、こいしちゃんは慌てて押さえる。
「危ない。」
「その帽子、飛びそうだな。」
「何回も飛んでる。」
「買い替えろよ。」
「愛着あるもん。」
そう言って笑う。
他愛のない話だった。
意味なんてない。
けれど、その意味のなさが妙に心地よかった。
時間だけが、ゆっくり流れていく。
やがて向かいの家の明かりが消えた。
住宅街が少しだけ暗くなる。
遠くで終電らしい電車の音が響いた。
「もうこんな時間か。」
思わず呟く。
「ほんとだ。」
こいしちゃんも立ち上がる。
コートについた砂を軽く払って、帽子を被り直す。
「今日は帰るね。」
「ごめん。」
口をついて出た。
「せっかく来たのに。」
こいしちゃんは少しだけ首をかしげる。
「謝らなくていいよ。」
「でも。」
「歩けない日もあるよ。」
静かな声だった。
励ますわけでもない。
慰めるわけでもない。
ただ、冬は寒い、というくらい自然に言う。
「歩かなくても、月はちゃんとあそこにあるし。」
雲の向こうを見上げる。
「今日はここから見ただけ。」
「それでも、同じ月だから。」
僕もつられて空を見上げた。
薄い雲の向こうで、月はぼんやりと光っていた。
歩かなかった夜。
それでも確かに、外には冬の匂いが流れていて、街は静かに息をしていた。
こいしちゃんは小さく手を振る。
「またね。」
「……また。」
その背中が角を曲がって見えなくなっても、僕はしばらく玄関に座ったままだった。
冷たい空気が頬を撫でる。
寒いはずなのに、不思議とドアを閉める気にはなれなかった。