一月の終わりだった。
昼間はよく晴れていた。
雲ひとつない空を見て、「今日は月が綺麗に見えそうだな」と思ったことだけは覚えている。
それ以外のことは、あまり覚えていない。
仕事をして。
誰かと話して。
昼ご飯を食べて。
気がつけば夕方になっていた。
そんな一日だった。
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家に帰る。
玄関の電気をつける。
コートを脱ぐ。
鍵を置く。
テレビはつけなかった。
部屋は静かだった。
冷蔵庫の低い音だけが、壁の向こうでずっと鳴っている。
窓の外を見る。
向かいの家では、夕飯の片付けでもしているのか、人影が忙しそうに動いていた。
しばらくすると明かりが一つ消える。
また一つ消える。
住宅街は少しずつ眠る準備を始めていた。
時計を見る。
十時四十分。
いつもなら、もう外へ出ている時間だった。
夜風を吸って。
知らない道を歩いて。
どこかで、こいしちゃんに会えたらいいなと思う時間。
「……。」
立ち上がる。
コートを羽織る。
靴を履く。
玄関のドアノブへ手を伸ばす。
金属は冷たかった。
ゆっくり開ける。
冷たい空気が頬に触れる。
冬の匂いがした。
乾いたアスファルト。
どこかで誰かが焚いているストーブの煙。
それから、雨の降っていない日の土の匂い。
一歩だけ外へ出る。
そこで止まる。
歩けなかった。
理由はわからない。
どこかが痛いわけじゃない。
眠いわけでもない。
ただ。
足が、次の一歩を思い出せなかった。
「……はぁ。」
息を吐く。
白くなって消える。
結局、そのまま家へ戻った。
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五分ほどソファに座っていた。
このまま寝ようかと思う。
でも眠れそうにもない。
また立ち上がる。
もう一度コートを羽織る。
玄関を開ける。
冷たい空気。
街灯。
静かな道。
歩けない。
また戻る。
そんなことを三回くらい繰り返した。
誰も見ていないのに、少し恥ずかしかった。
自分でも何をしているのかわからない。
玄関と部屋を行ったり来たりするだけ。
まるで、外へ出たい誰かと、出たくない誰かが身体の中で綱引きをしているみたいだった。
時計を見る。
十一時半。
「……もういいか。」
そう呟いて、靴だけ履いたまま玄関の外へ座る。
歩けないなら。
今日はここまででいい。
段差に腰を下ろす。
コンクリートが冷たい。
じわじわと体温を奪っていく。
それでも部屋へ戻る気にはならなかった。
住宅街は静かだった。
向かいの家の窓から漏れる明かりが、カーテン越しにぼんやり揺れている。
自動販売機だけが、やけに白かった。
遠くで貨物列車が走る音。
風が電線を鳴らす。
それだけだった。
ふと、路地の奥で猫が歩いているのが見えた。
白と茶色のまだら猫。
ゆっくりと塀の上へ飛び乗る。
その姿をぼんやり眺める。
去年なら。
きっとこいしちゃんは「あ、猫だ」なんて言いながら追いかけていた。
僕も笑って、その後ろを歩いていただろう。
でも今日は。
猫は僕を一度見ただけで、そのまま暗い路地へ消えていった。
追いかけようとは思わなかった。
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「こんばんは。」
声がした。
振り向く。
こいしちゃんが立っていた。
月明かりを背にして、小さく手を振る。
「……こんばんは。」
「寒いね。」
「寒い。」
「今年の冬、寒い気がする。」
「毎年そう言ってる。」
「そうだっけ。」
帽子を押さえながら笑う。
「でも今日は、ほんとに寒い。」
そう言って僕の隣へ座った。
何も聞かない。
どうしてここにいるのかも。
どうして歩かないのかも。
ただ同じ景色を見る。
しばらくして。
住宅街を一台のタクシーが通り過ぎた。
ヘッドライトが道路を白く照らし、すぐに暗闇へ戻る。
「静かだね。」
こいしちゃんが言う。
「うん。」
「みんな寝ちゃったのかな。」
「そうかも。」
「いいなぁ。」
「何が?」
「寝られる人。」
思わず笑ってしまう。
「羨ましいのか。」
「ちょっとだけ。」
また沈黙。
風が吹く。
街路樹の枝同士が、小さく擦れる音がした。
こいしちゃんは空を見上げる。
「今日はよく見える。」
「何が?」
「月。」
僕も見上げる。
確かに丸い月だった。
雲ひとつない。
冷たい空気のせいか、輪郭までくっきりしていた。
「昨日より綺麗。」
「昨日は見てない。」
「私は見たよ。」
「そうか。」
「でも。」
少し考えてから笑う。
「今日の方が好き。」
「なんで?」
「昨日は一人で見たから。」
その言葉に、返事ができなかった。
風がまた吹く。
「ねえ。」
こいしちゃんは月を見たまま言う。
「今日は歩かないんだね。」
責めるような言い方じゃなかった。
確認するでもなく。
ただ、月が丸いね、と同じくらい自然な調子だった。
「……歩こうとはした。」
「うん。」
「でも駄目だった。」
「そっか。」
それだけだった。
彼女は頷いて、また月を見る。
「ここから見る月も。」
少し間を置く。
「ちゃんと同じ月だね。」
僕も空を見上げる。
同じ月。
確かにそうだった。
歩いても。
歩かなくても。
月は変わらない。
「私はね。」
こいしちゃんが小さく笑う。
「歩いて見る月も好きだけど。」
「こうやって止まって見る月も、結構好き。」
「時間がゆっくり流れる感じがするから。」
その横顔を見ていると。
どうしてだろう。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
息がしやすくなった気がした。
理由はわからない。
何も解決していない。
明日も仕事はある。
朝も来る。
それでも。
玄関の段差に座って、二人で同じ月を見上げているだけで。
世界は少しだけ静かだった。
その静けさが、今夜だけはありがたかった。
気がする。
感想とか頂けると喜んだりします。