世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録   作:ルーズベルト(-5㎏)

10 / 11
9. 群体型捕食真菌

バイキン城の最深部を支配する薄暗い静寂の中で、時間はただ、重油の滴る音だけを刻んでいた。ドームの中では永久に凍りついたままの時間が、この城の底ではまだ生きていた。96時間――それは世界の調律から切り離された二人にとって、足掻き続けた果てしない時間だった。

 

 ドキンが叩き込んだ黒い汚泥は、ばいきんまんの身体を内側から焼いていた白い光と激しくぶつかり合い、辛うじてその侵食を食い止めていた。二日目の夜には、激しい化学熱の拒絶反応が彼の小さな身体を襲った。皮膚の隙間からどす黒い高熱の蒸気が噴き出し、城の冷却システムが狂ったようにアラートを鳴らす。ドキンは休むことなく、自らのドレスの裾を引きちぎっては冷たい廃液に浸し、彼の焼け焦げた額を拭い続けた。

 

 三日目、四日目と夜が更けるにつれ、ばいきんまんの肉体はドキンが塗りたくった黒い汚泥をゆっくりと、飢えた獣のように同化していった。漂白されかけていた皮膚は、金属質の鈍い黒色を取り戻し、心音は徐々に規則正しい重低音へと安定していく。

 

 およそ四日間にわたる、果てしない看病の夜。五日目の夜明け前、静まり返った部屋に、カサリと微かな機械の擦れる音が響いた。

 

「……ド、ドキンちゃん? 起きてよ、ドキンちゃん……っ」

 

 情けないほどに掠れた、けれどもしっかりとした、いつもの少年の声。

 

 ドキンは、コンソールの足元に座り込んだまま、跳ね起きるようにして目を開けた。そこには、ベッドの上で上体を起こし、オロオロとした様子でこちらを見つめているばいきんまんの姿があった。その双眸には、いつものやんちゃな光が、けれど今は完全に怯えと恐縮の色を帯びて宿っている。

 

「ばいきんまん……!」

 

 弾かれたように駆け寄ろうとしたドキンは、自分の足元がもつれて、床に膝をついた。無理もない。四日間、一睡もせず、重油と劇薬にまみれて凍えるような彼の身体を抱きしめ続けていたのだ。

 

「わわっ、大丈夫!? ……って、それよりドキンちゃん、その格好、どうしたのさ!?」

 

 ばいきんまんは慌ててベッドから飛び降り、床にへたり込むドキンに駆け寄った。いつも美しく整えられていた彼女のオレンジ色の髪はボロボロに乱れ、お気に入りのドレスは重油で見る影もない。そして何より──彼の胸の漂白を止めるために、劇薬の結晶をレンチで叩き潰し続けた彼女の指先は、真紅のポリッシュが完全に剥げ落ち、黒く焼け爛れていた。

 

「……その手、俺様のために、そんなになるまで……っ」

 

 ばいきんまんの声が完全に裏返る。ドキンに怪我をさせた、それも自分のせいでドレスまで台無しにしたという事実に、彼は文字通り頭が上がらなくなり、縮こまりながら彼女の手をそっと両手で包み込んだ。

 

「うるさいわね……。あなたが、いつまでたっても起きないからじゃない」

 

 ドキンはツンと顔を背け、汚れた袖で涙を拭おうとした。

 

「……ごめん。本当にごめん。……ありがとう、ドキンちゃん。ドキンちゃんが、俺様をこの世界に引き留めてくれたんだね」

 

 いつもなら絶対に言わないような、縮こまった、けれど心からの謝罪と感謝の言葉。ドキンはついに堪えきれず、彼の胸に顔を埋めて声をあげて泣いた。ばいきんまんは「ドレスを汚して怒られるかも」と一瞬ビクつきながらも、彼女の震える背中を優しく、しかし二度と離さないように強く抱きしめ返した。

 

 だが、天才の瞳は、すでに涙の向こう側にある「次なる復讐」を冷徹に見据えていた。

 

「人形め。次は、絶対に同じ手は通用しないぞ」

 

 完全に回復したばいきんまんは、その日のうちに中央研究室のホロ・テーブルへと向かった。彼の衣服の繊維に付着していた、前回の戦闘の唯一の戦利品──アンパンマンの右拳から削り取られた、微細な組織片。それを特殊なレーザー顕微鏡で解析しながら、ばいきんまんは狂気的な笑みを深めていく。

 

「ジャムの奴らが作ったあの完璧な正義の肉体……こいつはパンなんかじゃない。分子構造が結晶のように調律された『高密度澱粉細胞(無菌のレシピ)』だ。だからこそ、一箇所にバグをインジェクションすれば、ドミノ倒しのように全壊するはずだ」

 

 ばいきんまんが設計したのは、あの完璧な無菌のレシピを、内側から直接腐食させ、泥水へと変える局地戦用ナノ物質――。

 

「見ろよ、ドキンちゃん。このプロトタイプを、アンパンマンの組織片に投与すると……」

 

 彼がコンソールを叩くと、ガラスカプセルの中で、純白だった澱粉細胞の破片が瞬時にどす黒く変色し、不気味に膨張を始めた。完璧に調律されていた遺伝子コードが反転し、自壊していく。だが、その腐敗コードは、外界の汚染環境と接触した瞬間、ばいきんまんですら想定していなかった変異を起こした。

 

 ホロ・テーブル上の解析データが、激しく明滅を始める。

【WARNING: SELF-REPLICATING UNKNOWN MULTI-AGENT DETECTED】

 

「……なんだ、これは? 分解プロセスの副産物が、自律的に増殖して……群れを作っている?」

 

 ばいきんまんが息を呑む中、カプセルの中でドロドロに融解した黒いカビの底から、無数の「極小の影」が蠢き出した。それは、一つ一つが粘菌と昆虫の中間のような、アクリル球ほどの青黒い胞子塊。意志を持たないはずのその無数の黒い球体が、数千、数万と寄り集まり、生き物のようにうねる「青黒い液状の波」となって、ガラスの内壁を隙間なく侵食し始めたのだ。

 

 チチチチ、チチチチ……。

 

 研究室のスピーカーが、奇妙な高周波ノイズを拾い始める。無数の菌糸が擦れ合うその微細な音が、汚染された大気を媒介し、聴覚ではなく脳の直下に、不気味なほど楽しげな「幻聴」として響き渡った。

 

【挿絵表示】

 

『……ルン……ルン……』

『……ルン……ルン……』

 

「な、何よこれ、耳の奥に直接響いてくる……気味が悪いわ……!」

 

 ドキンが思わず耳を塞ぎ、ばいきんまんの背中に隠れる。

 

 だが、ばいきんまんはその異形の群体を見つめ、陶酔したような笑みを浮かべながら、ホロ・テーブルに展開された戦術シミュレーションの画面を切り替えた。

 

「……群体型・捕食真菌。一旦『るんるん』と呼ぶ。これは俺様の可愛い軍勢だ。見てよドキンちゃん、このシミュレーション結果を。こいつらは、あの忌々しいアンパンマン型に対する『天敵』だよ」

 

 画面上の仮想空間で、青黒い胞子の波がアンパンマンに襲いかかる。

「あの人形、肉体の主成分は糖分と有機水分……つまり、カビにとって最も栄養価が高い極上の有機物。るんるんは、その甘い匂いを感知して襲いかかる。そして、ジュクジュクに腐らせて機能停止(エラー)を引き起こすんだ!」

 

 ガラスケースの向こうで、ヒトの形を持たない青黒い胞子の波が、まるで意志があるかのように不気味に、激しく波打つ。

「生きたバグ」が完成したその瞬間、バイキン城の最外殻ハッチのセンサーが、侵入者を知らせる警告音を鳴らし始めた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。