世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
ピーーーー、ピーーーー……。
最外殻ハッチの警告音は、侵入者を内部へ通した後も、まるで瀕死の獣の神経質な心拍のように弱々しく鳴り続けていた。
冷たい研究室のコンクリート床に、カバオは半ば泥に潰れた肉塊のように転がっている。外気と一緒にハッチから流れ込んだ真菌混じりの泥水が、床の排熱グリッドの隙間へじわじわと染み込み、精密機械の熱を帯びた溝を汚染していく。カバオが身にまとう防護服の関節部は無惨に裂け、吸気フィルターには外界の不気味な黒い胞子がびっしりと不快な厚みで張り付いていた。
「……くさいわね」
最初に沈黙を破ったのはドキンだった。
露骨に美しい顔をしかめ、鼻先を汚れていない袖口で強く押さえる。
「何よこいつ、泥とカビと胃液の臭いしかしないじゃない……! 部屋に充満したらどうすんのよ!」
「う、ぇ……っ」
その言葉が呼び水となったのか、カバオの肥大した胃袋がまた激しく痙攣した。ドームの無菌のパンと、外の荒野で吸い込んだ猛毒の胞子が胃の中で悍ましい発酵を起こし、食道を鋭く焼いて逆流する。
彼は抗うこともできずに、床へドロリと胃液を撒き散らした。黄色く濁った生臭い液体が、這い回る蛇のように研究室の複雑なケーブル束の隙間へと流れ込んでいく。
「ぎゃっ! ちょ、ちょっと、嘘でしょ!?」
ジュゥゥゥゥッ……!!
激しい腐食音と、それに続く破裂音。青白い火花が散り、壁際に並んだモニターが一斉にブラックアウトした。
ただのショートではない。カバオの吐き出した胃液が触れた被膜ケーブルが、まるで強酸を浴びたようにドロドロに溶け落ちていたのだ。
「うわぁぁ!? 電圧ラインが死んだ!!」
ばいきんまんが文字通り跳ね上がった。握っていた工具を床に投げ捨て、狂ったようにメインコンソールへ駆け寄る。
「な、何してくれてんだこのカバ!! そこはるんるん培養槽の冷却ラインだぞ!? ああっ、俺様の大事なケーブルが……溶けてる!?」
「し、し、知らないよ……っ」
カバオは床に這いつくばったまま、掠れた声で必死に頭を振った。
「……だ、だって……止められなかったんだ……っ。息が、うまくできなくて……胃が、勝手に……っ」
「こいつぅ……お前の胃袋、どうなってるんだ!?」
ばいきんまんは目を吊り上げながら、腰のベルトから小型のバイオスキャナーを引き抜き、カバオの顔面に突きつけた。
直後、スキャナーの液晶が真っ赤に点滅し、鼓膜を裂くような
『――WARNING。対象体内ニ致死濃度ノ重度汚染真菌ヲ検出。』
「……は?」
ばいきんまんの動きが、不自然なほどピタリと止まった。
その赤い瞳が見開かれ、スキャナーの数値とカバオの顔を三度ほど見比べる。
「おい、お前……防護服がこんなに破れてて、肺の中まで外の胞子に食われてるじゃないか。……なんで、まだ生きてるんだ?」
ドームの無菌室で育ったひ弱な住人なら、外の空気をひと呼吸吸い込んだだけで肺が腐って即死する。常識だ。だが、目の前のカバオは泥水を吐きながらも、確かに泥臭く命を繋いでいる。
――ガツンッ!!
その時、背後の巨大なガラスケースから、鈍い衝突音が響いた。
ドキンが「ひっ」と短い悲鳴を上げる。
るんるんだ。
意志を持たないはずの無数の青黒い胞子塊が、狂ったように培養槽のガラス内壁に叩きつけられていた。それらはガラスの向こう側にいるカバオの「汚染された匂い」に呼応するように、悍ましい速度で異常増殖を始め、カバオが倒れている床の方向へじわじわと寄り集まっていく。
『……ルン……ッ!!』
『……ル、ルル、ルン……ッ!!』
まるで同族を見つけたかのような、あるいは未知の餌に飢えているような、強烈な高周波のノイズが部屋に反響する。
「……ハーヒフヘホー……!」
ばいきんまんの怒りは完全に消え失せ、代わりに、狂気的な天才科学者としての爛々とした歓喜が瞳に灯った。
彼はしゃがみ込み、カバオの顔面から汚れた吸気フィルターをベリ、と引き剥がした。
「ドームの綺麗で均一なルールを完全に無視した、生きたバグ。……お前、最高に面白いサンプルじゃないか!」
カバオには、この少年の言っている言葉の意味がよく分からなかった。ただ、目の前の最悪な顔をした少年が、自分を「追い返そう」としていないことだけは、感覚的に理解できた。
ドキンはまだ腕を組み、心底嫌そうな顔でカバオから距離を取っている。
「ちょっと、ばいきんまん。まさかこいつをここに置いとく気?」
「ど、ドキンちゃん、待って!」
ばいきんまんは慌てて立ち上がり、世紀の大発見を自慢するような顔で振り返った。
「こいつはただの薄汚いカバじゃないんだ! 極上の生きたバグだよ! 捨てるなんてもったいないよ!」
ドキンは「もう、信じられない」と言いたげに不満そうに眉の根を寄せ、ますます不機嫌な顔でそっぽを向く。そんな彼女の視線を気にする風でもなく、ばいきんまんは油に汚れた手足で嬉々としてコンソールを叩き始めた。
「おいカバ! 勝手にそこら辺の床でも使っていいぞ。ただし、二度と俺様の機材に吐いたりするんじゃない! 次やったら本気でだだんだんの踏み台にしてやるからな!」
「……」
「それと、腹が減って動けないって言うなら、下の廃棄庫に俺様が拾ってきた缶詰が転がってるぞ。期限はとっくに切れてるが、お前のその頑丈な胃袋なら泥よりマシだろう!」
背中越しに投げられたその言葉に、カバオはしばらく反応ができなかった。
そこには、ドームの住民たちが向けてくるような、去勢された、均一で不気味な「優しさ」は微塵もなかった。歓迎の言葉も、同情の視線もない。
「そこにいても別に構わない、ひとつの異物」
として、ただ背景のように扱われているだけだった。
けれど、その突き放したような温度の低さが、カバオには妙に心地よく、狂ったように逃げてきた胸の奥に、一番深く息を吸い込める隙間をくれた。
ドームとは、何もかもが違った。
重油の臭い。剥き出しの配線。脳に直接響く胞子の声。目の前の性格の悪い少年。
なのに――ここでは、息がしやすかった。
「……っ」
カバオの潰れた腹の底から、ぐう、と情けなく、しかし猛烈な『飢え』を訴える音が鳴り響いた。生きたいと叫ぶ、本物の生命の音だった。
ばいきんまんは振り返りもせず、ハンダゴテに火を灯しながら、楽しげに鼻で笑った。
「さっさと下の階に行って、食えるもん食ってこい!」