世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
バイキン城の最下層にある薄暗い廃棄庫から、クチャクチャという、肉塊が濡れた泥を捏ねるような生々しい咀嚼音が響いていた。
カバオは防護服の上半身を脱ぎ捨て、脂汗の浮いた丸い背中を丸めて、文字通り缶詰を貪っていた。ドームの配給所で与えられていた、栄養素だけを固めた無菌の白いパンとは何もかもが違う。重油の匂いが染みついた鋼鉄の缶。その中に押し込められた、塩分と合成保存料の塊である得体の知れない肉塊。それを指先で直につかみ、口の周りを濁った油で汚しながら、カバオは喉を鳴らして胃袋へ叩き込んでいく。
「ちょっと!! 何してくれてんのよ、あんた!!」
頭上から、金切声が響いた。ドキンが階段の途中で、これ以上ないほど不快そうに眉を吊り上げている。
「それ、私がばいきんまんに頼んで探してもらった、とっておきのコンビーフ缶じゃないの! 泥棒! 最悪! ばいきんまん、早くこいつをだだんだんで踏み潰してよ!」
「……っ、げほっ、ごほっ」
カバオは怯えたように肩をすくめ、肉を喉に詰まらせて激しくむせた。それでも、手に持った缶詰だけは決して離そうとしない。ドームの去勢された住人には存在しない、野生の獣のような「飢え」の執着が、その泥まみれの双眸にぎらぎらと宿っていた。
「わ、分かったからそんなに怒らないでよドキンちゃん! 今、こいつの『異常な消化プロセス』のデータを取ってるんだ! 代わりの缶詰なら俺様がいくらでも探してくるから、ちょっとだけ我慢して!!」
背後の暗闇から、巨大なスキャナー端末を抱えたばいきんまんが慌てて顔を出した。ドキンの怒りを懸命になだめつつも、その赤い瞳はスキャナーに表示される数値に釘付けになっていた。
(信じられない消化速度だ。あのケーブルを溶かした『カバオの胃液』が、コンビーフの保存料ごとすべてを栄養に変換している……。なのになぜ、こいつの胃壁は溶けないんだ? 完全に、菌と細胞が『共生』してやがる!)
カバオが腹を満たし、ばいきんまんに首根っこを掴まれて城の入り組んだ通路を研究室へと戻る道中、奇妙な現象が起き始めていた。
ドシ、ドシ、と彼の不格好な足音が鉄板の廊下に響く。その足跡を追うようにして、コンクリートの細かなクラックや、錆びついた配管の隙間から、青黒い煙のような「何か」がサァと走るように這い出てくるのだ。
るんるんだった。
「うわっ……あっち行けよ、気味が悪い……っ」
最初は、カバオも激しく嫌がった。足首にまとわりついてくる青黒い菌糸の網を、何度も防護靴で踏みつけ、振り払おうとした。だが、彼らがカバオを傷つけることはなかった。ただ、彼が外の世界から運んできた「野良の泥」の匂いを引きずり回すその大きな肉体を、慕うように、観察するように、どこまでも静かについてくる。
中央研究室に戻され、壁際のパイプの横でカバオが膝を抱えて座り込んでいると、その周囲の床はいつの間にか、びっしりと青黒い真菌の絨毯で埋め尽くされていた。
カバオは、自分の影のように寄り添う菌糸の塊を見つめ、掠れた声でぽつりと言った。
「……なんだよお前ら。俺に何か用かよ」
真菌の表面が、チチチ……と、微かな高周波のノイズを立てて震えた。
「違う! そうじゃねぇ。お前たちは本当にコントロールが下手くそだな!」
少し離れたメインコンソールで、ばいきんまんはキーボードを乱暴に叩き、ガラスケースの中の『るんるん・オリジナル』へ電気刺激を流していた。数式、コード、電圧。ばいきんまんにとって、るんるんはあくまで自分が「開発」した、制御すべき生物兵器だった。電磁場を以て無理やり一定の形に「制御」し、押さえつける。それが彼の科学だった。
ビビビビッ!!
強い電流が流れた瞬間。
部屋の隅に座り込んでいるカバオの頭の中に、強烈な痛みが走った。
(い、たい、あつい……っ)
言葉ではない。脳の髄、あるいは鼓膜の奥の皮膚が直接、無数の微小な生命の「悲鳴」を感知していた。
それは、数億の細胞が一斉に鳴らす、言語未満の五感の波形。
カバオには、感覚的に分かってしまった。今、るんるんがケースの中で何を欲し、電流にどれほど怯え、目の前の科学者にどんな「恐怖と好奇心」を抱いているのかが、自分の血流の音のようにリアルに理解できるのだ。
ばいきんまんにとってるんるんは「作品」だったが、るんるんにとってカバオは、この過酷な世界で初めて巡り会った「
「おい、カバオ、何冷や汗かいてぼーっとしてんだ」
ばいきんまんが怪訝そうに振り返る。
カバオは、ガラスケースの中で自分を見つめて蠢く青黒い波から目をそらさず、ただ、がたがたと震えていた。
そして――彼らが気づかぬ間に、カバオと共鳴した菌糸の「進化の波形」は、荒野の地下茎ネットワークを通じて、遠く離れた場所へも伝播を始めていた。
世界の中心であるはずの「白いドーム」。
かつてない微細な、しかし致命的なエラーが、そこで静かに発生し始めていた。
これまで外界の猛毒を完璧に遮断していたドームの第4隔壁フィルター。その表面に付着していた胞子たちが、カバオという「正解」のデータをネットワーク越しに受信し、フィルターの殺菌プロトコルをすり抜ける『未知の変異』を起こしたのだ。
埃一つない、完璧に温度と湿度が管理された中央食料備蓄庫。
チタン製の滑らかな棚の冷たい隅に、水分すら存在しないはずのその場所に──見たこともない、不気味な「青黒いシミ」が、墨を落としたように点々と滲み広がっていた。
「エラー。配給ラインA-12、定型外の不純物を検知」
無機質なアラートが、誰もいない備蓄庫にむなしく響く。
ばいきんまんはまだ、るんるんを弄んでいる段階であり、散布計画など一歩も進めてはいない。
なのに。
ドームの清潔な静寂の中、換気扇の風の音に混じって、それは確かに聴こえ始めていた。
『……ルン……』
『……ル、ルン……』
それは、誰も想定していなかった、自ら増殖を始めた、死のハミングだった。