世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
白いドーム。いつもの配給。いつもの無音。
すべてはいつも通りに、完璧な時計仕掛けのように機能しているはずだった。
塵一つない真っ白な天井、一定の温度に保たれた空気、感情の起伏をなだめるための微弱な低周波。しかし、その均一な白のどこかが――ほんの少しだけ、おかしい。
配給所の自動スリットから、気圧の抜ける音と共に、住民たちの手元へと真っ白なパンが吐き出されていく。
それはいつもと変わらない、栄養素だけを正確に配合された無味乾燥な主食のはずだった。しかし、列に並んだひとりの住民が受け取ったそのパンの表面には、ゴマ粒ほどの小さな青黒い点がぽつりと付着していた。
去勢され、思考の波形を一定に調律された住民は、その不純物に疑問を抱くことすらしない。ただ無感動な目でそれを見つめ、何事もなかったかのように口へ運ぼうとする。
その時、床を滑るように巡回していた球体の自律殺菌ドローン――ドーム清掃システム『ハミガキ』が、突如としてその住民の前で停止した。赤いセンサーレンズが激しく明滅し、パンの上の黒点へと焦点を合わせる。
「警告。定型外物質を検知。ブラッシング・プロセスを開始します」
無機質な電子音声と共に、ハミガキの機体から細い金属製の超音波清掃ブラシが伸びた。特殊な研磨剤を極量噴霧し、パンの表面をミリ単位で精密に削り取る。ドーム内のわずかな汚れや有機物を分子レベルで削り落とし、常に世界を「白く」保つための機械的な試み。
しかし、黒点は消えなかった。それどころか、ブラシの微細な繊維が触れた瞬間、青黒い影はまるで生き物のように逆流し、ハミガキの金属ブラシの隙間へとサァと走るように移り住んでいった。無菌であることしか知らない機械は、自らの組織への汚染を正しく認識できない。
「不純物の除去を確認。定型ラインへ復帰します」
ハミガキは青黒く染まったブラシをそのまま機内へと格納し、何事もなかったかのように、再び無菌の床を滑りながら白い通路の奥へと消えていった。その背後に、ほんの微かな青黒い軌跡を引きながら。
中央空調管理室。
そこは、外部の崩壊した世界からドームの無菌状態を守るための、最も厳重な心臓部だった。外気から有害な物質を完全にシャットアウトしているはずの、第4隔壁フィルター。その誰も立ち入ることのない冷たいアルミニウム製ブレードの奥深くに、それはこびりついていた。
まるで引き延ばされた死肉のように、べっとりと張り付いた薄黒い膜。
即座に、ドームの防壁システムが自律的に作動する。ブレードの隙間に設置された除菌UVランプが一斉に点灯した。しかし黒い膜は焼け焦げることも、剥がれ落ちることもない。それどころか、通常出力のUV程度では刺激にすらならないように、より深く、より強固にアルミニウムの繊維へと根を張っていった。
システムは初めて「エラーログ」を吐き出す。
「警告レベル:軽微。推奨対応:定期メンテナンスを早期実施」
致命的な過小評価だった。管理システムは脅威を認識しているが、その深刻さを正しく計測できていない。ジャムの精密なシステムが初めて、現実を見誤った瞬間。エラーログは中央管理システムへ送信され、「定型外物質:対応済み」とだけ記録された。異常フラグは、立たなかった。
深夜。住居区画に並ぶ均一な長方形の部屋のひとつ。
住民のひとりが、ベッドの中で幾度も寝返りを打っていた。いつもなら、就寝時間に合わせて空調から散布される微弱な鎮静ガスの効果で、泥のように深い眠りに落ちているはずの時間だった。しかし、今夜はどうしても耳の奥が冴えて離れない。
シーツの擦れる音さえしない、完全な無音の部屋。……いや、違う。天井の換気口から吹き出す、冷たい空気の微かな対流音。その規則的なファンの風切り音のさらに奥に、何か別の音が混ざり合っている。
チ、チチ……、……ルン……。
粘り気のある、湿った、言語未満の高周波の囁き。住民は暗闇の中でゆっくりと目を開け、ジリジリと冷える天井を見つめた。
『……ル、ルン……』
確かに、聴こえる。だが、周囲の壁に埋め込まれた健康管理モニターも、異常を知らせるアラームも、何一つのサインも示していない。画面には「室内環境:正常」の文字が白く浮かんでいるだけだ。
「……気のせい、か」
住民は小さく呟き、それ以上の思考を放棄して再び目を閉じた。ドームの人間は、異常を異常として認識する機能を、あらかじめシステムによって優しく切り取られている。「ドームが正常である以上、違和感を覚える自分の方が間違っている」として、脳内でオートマチックに処理が完了してしまうのだ。
住民が再び浅い眠りへと落ちていく中、彼の首筋をじわりと冷たい汗が伝う。その皮膚の表面で、換気口から静かに降り注いだ目に見えない無数の胞子が、部屋の主の呼吸に合わせるようにして、静かに、楽しげに震えていた。この夜、同じように寝返りを打っている住民が、他に何人いるか、誰も数えていなかった。
アンパンマン号の内部。バタコがエラーログの集積データをジャムへ報告する。
「配給ライン汚染、換気フィルター異常、鎮静ガス効率の低下。いずれも軽微ですが、発生源が特定できていません」
ジャムは答えない。ただ、巨大な頭部をわずかに傾け、アクリル球の瞳でモニターを見つめている。その視線が一瞬だけ、荒野の方角へと向いた。
ばいきんまんの仕業か。しかし、証拠がない。これまでの彼の手口とも、微妙に異なる。
「……断定、できない」
老人は静かに呟き、モニターへ視線を戻した。
「パン工場の防衛ラインに配置した『ショクパン』の設定を変更する。全住居・配給ラインへの巡回を即時実施。……対症療法だが、今は、これで十分なはずだ」
「工場の衛生レベルが低下します」とバタコが平坦に告げる。
「分かっている」
それだけ言って、ジャムは口を閉じた。バタコは一瞬だけ、必要以上にペンを握りしめた。それ以上は、何も言わなかった。
翌朝。いつもと同じ琥珀色の夜明け。配給列の傍らに、昨日まではいなかった白い角柱型の存在が、音もなく立っていた。その頭部から常時照射される青白い光が、配給所の白い壁を冷たく照らしている。
住民たちは誰もそれを疑問に思わない。ただ、いつもより少し眩しいな、と感じるだけだ。パンを受け取り、咀嚼し、笑顔を浮かべる。いつも通りの、完璧な朝。
しかしその完璧な朝の隙間、配給所の床の目地の奥深くに潜り込んだ青黒い胞子だけは、ショクパンマンの光の届かない暗部で、静かに、楽しげに震えていた。
『……ルン……』