世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
バイキン城・中央研究室。朝。
培養槽の中で、るんるんがいつも通りうねっている。ばいきんまんはデータを一瞥し、異常なしと判断して次の作業へ移る。
部屋の隅で、カバオが膝を抱えてうずくまっていた。昨夜から、頭の奥で聴こえる『ルン……』という囁きが、微かに増えている。培養槽の中のるんるんは目の前にいるのに、声の出所がどこか遠くからも重なって聴こえてくるような、奇妙な感覚。カバオはその耳鳴りのような違和感を言葉にできないまま、ただ黙って壁を見つめていた。
ばいきんまんがコンソールに向かい、日課のドーム監視カメラへのハッキング・アクセスを開始する。
「見てよドキンちゃん、今日のドームの様子」
ドキンが億劫そうに近づき、モニターを覗き込む。画面には白い配給所、整然と並ぶ住民たち、湯気を立てるパン。いつもと変わらない無菌の光景のはずだった。
「……あれ、なんだ?」
ばいきんまんの目が細くなる。配給列の脇に、見慣れない白い角柱型の存在が静かに立っていた。
「新型か?」
「さっき配給所にいたのに、次は換気システム周辺か……」
ばいきんまんがカメラのタイムスタンプを確認する。時刻は数分しか違わない。
「……1体で、全域を巡回してるのか」
画面上の数値を凝視し、さらに詳細な解析コードを走らせる。
「なんだこいつの装甲。極限まで水分を排した
純粋な科学者としての興味で、データをスキャンし始める。
その時、画面の中で新型――ショクパンマンが、換気口の隅に向かって強烈な青白い光(UV-C)を照射する場面が映った。
「……何かを駆除してる? 何を?」
ばいきんまんがカメラをズームする。床の隅から這い出した青黒い影が、UV-Cの直撃を受けて一瞬で乾いた黒い粉末に散った。
――ビキッ。
「う、あ……っ」
背後で、カバオが不意にこめかみを押さえてうめき声を上げた。
激痛ではない。だが、頭の中に直接、鋭いノイズが弾けたような不快な耳鳴り。
それと同時に、培養槽の中のるんるんが、まるで遠くの同族の「死」に反応したかのように、一瞬だけザワッと毛羽立つように波打った。
ばいきんまんは、モニターの黒い粉末、毛羽立った培養槽、そして頭を押さえるカバオを、順番に流し見た。
「……なるほどな」
ばいきんまんの口元が、三日月のように歪に吊り上がる。
「ジャムのジジイのフィルターが破られたわけじゃない。……『すり抜けた』のか」
彼はコンソールに肘をつき、泥まみれの少年を面白そうに見やった。
「おいカバ。外にいた胞子ども、お前の『共生データ』を読み込んで、自分たちを進化させやがったぞ。お前、無自覚なルーターになってたってわけだ」
カバオには、彼が何を言っているのか完全には理解できなかった。だが「自分が原因で、ドームの中に何かが入り込んだ」という事実だけは、その薄ら笑いから重く伝わってきた。
「ははっ、傑作だ! だがジャムの野郎、それに気づいて即座にあの『白い新型』を配備しやがった。……随分と焦ってるじゃないか」
ばいきんまんが歓喜と敵意を漏らす中、ドキンはただ一人、その騒ぎの輪から外れていた。
彼女はノイズだらけのモニターの向こう、白い光の中に静かに立つ「彼」の姿から、なぜか目が離せなかったのだ。
完璧な均整。曇りのない白。ドームの配給パンが放つ生ぬるい甘さとは全く異なる、凛と冷たく、鋭利な光。
このゴミ溜めのような城には存在しない。重油も、泥も、カビの臭いも一切寄せ付けない、圧倒的な洗練と「正しさ」。
「……綺麗」
ぽつりと、誰に聞こえるでもない声が漏れた。
自分の指先が、真紅のポリッシュの剥げた爪を無意識に握りしめていたことに、後から気づいた。
その白い姿に、激しい劣等感と、それゆえの狂おしいほどの憧れ――『初恋』に似た執着を抱いていることに、まだ気づいていなかった。
ばいきんまんはホロ・テーブルへ向かい、倒すべき敵の解析を急いでいる。
「UV-Cに完全乾燥装甲。熱にも強そうだ。となると、対抗策は……」
ばいきんまんが独り言をこぼす中、カバオは壁際で息を殺していた。
自分が何も分かっていない。そして、自分の中に芽生えたこの微かな繋がりが、これから世界をどう変えてしまうのか。その恐ろしさだけが、静かに沈んでいた。カバオは自分の汚れた両手を見つめ、ただ固く握りしめた。