世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
ばいきんまんの強襲から数日が経っていた。
表面上、ドームはいつも通りの静寂を取り戻していた。しかし住民たちの中には、就寝時間になっても目が冴える者、配給パンを口に含んでもどこか遠い不安が消えない者が確かに増えていた。
ウサ子がベッドの中で何度も寝返りを打っていた。チビゾウが配給パンを手に持ったまま、どこか遠くを見つめていた。ねこ美がふと窓の外の荒野の方角へ視線を向け、すぐに目を逸らした。みみ先生が教卓の前で教科書を開いたまま、長い時間動かなかった。
誰も、言葉にしなかった。言葉にする前に、思考がホワイト・ノイズに遮断されるからだ。
その夜。アンパンマン号が、ドームの中央広場に静かに着けられた。
深夜。住民たちが眠りについた頃、ショクパンマンがドームの各区画を巡回し始めた。
今夜の光は、るんるんを駆除するためのものではない。
ショクパンマンの頭部から照射されるUV-Cが、通常の数倍の出力で、住民たちの眠る部屋へと静かに降り注ぐ。その光は壁を透過し、天井を貫き、眠る住民たちの脳内に直接作用する周波数帯域へと調整されていた。
これは滅菌ではない。記憶の、漂白だった。
ウサ子の脳裏に残っていた「夜の恐怖」の記憶が、白く塗り潰されていく。チビゾウの胸の奥にあった「何かがおかしい」という感覚が、静かに消去されていく。ねこ美が窓の外に向けた視線の意味が、ドロドロに融解して流れ落ちていく。ミミ先生の沈黙の理由が、跡形もなく削除されていく。
彼らは眠ったまま、何も知らない。
ショクパンマンが、ピョン吉の部屋の前で止まった。
ドア越しに、UV-Cを照射する。しかしピョン吉の小さな身体は、ベッドの奥、壁際の隙間に丸まって眠っていた。ショクパンマンの光が届く範囲の、わずかに外側に。
光は、ピョン吉の額すれすれを通り過ぎた。
ショクパンマンのセンサーは微細な残存反応を検知した。しかし許容誤差範囲内として処理し、次の区画へと移動していった。
ピョン吉は眠ったまま、うっすらと汗をかいていた。
翌朝。
少年――ピョン吉は、新しく舗装されたばかりの、塵一つ、あるいは有機物の染み一つすら落ちていない真っ白な通学路を歩いていた。初夏の太陽を模したドームの人工光源は眩しく大気を均一に暖め、空は抜けるように青い。すれ違う街の住民たちは、誰もが完全に左右対称の穏やかな笑みを浮かべ、完璧に同期されたタイミングで互いに会釈を交わしている。
「おはよう、ピョン吉くん。今日も素晴らしいお天気だね」
「おはよう、ウサ子ちゃん!」
元気よく挨拶を返しながら、ピョン吉は自分の胸の奥に、爪先からせり上がってくるような得体の知れない『冷たさ』を感じていた。何かがおかしい。決定的に何かが反転している。けれど、その「何か」の輪郭がどうしても掴めない。
ピョン吉は歩きながら、隣を歩くウサ子ちゃんの顔を盗み見た。彼女の白い耳は美しく整えられ、非の打ち所がない造形をしていた。だが、その瞳をじっと覗き込んだ瞬間、ピョン吉の背筋に冷たい戦慄が走った。
彼女の瞳は、まるで上質なアクリル球か硝子玉のように、ドームの琥珀色の光をただ表面で無機質に反射しているだけのように見えたのだ。その虹彩の奥には、生物特有の感情の揺らぎも、深い精神の影も存在しない。
「ねえ、ウサ子ちゃん」
ピョン吉は、ふと自分でも理由の分からない不穏な問いを口にしていた。
「僕たち……昔、もう一人、誰かと一緒にこの道を歩いて学校に通っていなかったっけ?」
ウサ子ちゃんは、ピョン吉の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ピタリと人形のように動きを止めた。その笑顔の形状を完全に維持したまま、数秒間、瞬きすらしない。彼女の頭部の奥で、ジャムの管理プログラムが存在しないエラーデータを検索し、強制的にデリートしているかのような、ひどく不気味で無音の空白。
「……何を言っているの、ピョン吉くん?」
やがて、彼女はいつも通りの、鈴を転がすような澄んだ音声シグナルで笑った。
「私たちはずっと、この素晴らしい無菌の街で、ジャムおじさんの美味しいパンを食べて、平和に暮らしているじゃない。それ以外の現実なんて、最初からどこにもないわ」
「……そうだよね。変なこと言ってごめん」
ピョン吉は引きつった笑みを浮かべ、それ以上追求するのをやめた。激しい頭痛がこめかみを刺していた。
毎朝、中央広場の配給所でジャムおじさんから手渡される、あの温かくて白いパン。あれを一口でも咀嚼すれば、どんな不安も、脳裏をよぎる不都合な悲しみも、すべてがナノ・ケミカルの作用によって霧が消えるように頭から消え去ってしまうはずだった。
「――おやおや、みんな、朝から元気だね」
不意に、通学路の向こうからアンパンマン号が近づいてきた。ハッチが開き、ジャムが白い衣服に身を包んで姿を現す。その背後には、バタコが新しい
「さあ、みんな。今日も一日、仲良く元気に過ごすんだよ」
周りの子供たちが歓声を上げて群がる中、ピョン吉もうながされるままに、そのパンを一口、口に含む。
圧倒的な人工の甘みと多幸感が、脳のシナプスを直接マッサージし、思考の平坦化を開始していく。
(ああ、やっぱり僕の勘違いだ。世界はこんなに優しくて、満ち足りている――)
昨夜の漂白光に晒された脳は、いつもより無防備に開いていた。
意識が心地よい白濁に染まりかけた、その瞬間だった。
脳を白く染め上げるはずの人工の多幸感が、ピョン吉の脳の奥底、ある一点に触れた途端──凄まじい火花を散らしてショートした。
昨夜、しょくぱんまんが放った漂白の光。ベッドの隙間で、ピョン吉の額をすれすれに掠めていったあの不完全な光は、彼の記憶の全てを消し去るにはあまりにも足りていなかったのだ。
二つの矛盾するコードが正面衝突した瞬間、ピョン吉の精神の奥底で、凄まじい拒絶反応が爆発した。
(あ、あ、あ、頭が、割れる――ッ!!)
脳裏を覆っていた耳鳴りのような
いつも通学路を一緒に歩いて、配給所の前で誰よりもお腹を空かせては、「お腹がペコペコだよ」と笑っていた、あの身体の大きな少年の姿。
忘却の膜を引きちぎり、その当たり前だったはずの日常の輪郭が、圧倒的な解像度で脳裏に蘇る。
(思い出した。思い出した、思い出した!!)
「……カバ、オ……ッ!!」
脳壁を突き破って、その名前が完全にサルベージされた瞬間、内臓を雑巾のように絞られるほどの強烈な嘔吐感がピョン吉を襲った。
「げふっ……ぁ、が、あぁッ!!」
ピョン吉の口から、噛み砕かれ、多幸感の薬剤が混ざり合ったドロドロの白いパンの塊が、ボトボトと純白のアスファルトへ汚らしく零れ落ちた。
脳内のホワイト・ノイズが、精神を引き裂くような高音の悲鳴へと変わる。
そして、ゆっくりと顔を上げる。目の前では、巨大な頭の老人が、あのガラス玉のような冷たい瞳で、じっと自分を見つめていた。
「どうしたんだい、ピョン吉くん。パンが美味しくないのかな?」
老人の平坦な合成音声が、少年の鼓膜を冷たく震わせる。
「……あ、いや、なんでもありません! お腹がいっぱいで!」
ピョン吉は踵を返し、純白のアスファルトを蹴り飛ばして走り出した。
「バタコ」
背後で、老人の冷徹な命令権が駆動する。
「個体識別名:ピョン吉に、システムへの拒絶反応を確認した。……処理しなさい」
「了解。――ショクパン」
少女の冷酷なシグナルが響いた直後、ピョン吉の頭上を、空気を引き裂く白い閃光が通り過ぎた。
ドォォォン――!!
凄まじい風圧と質量の衝撃とともに、ピョン吉の数十メートル先の道路に、ショクパンマンマンが着地した。純白のアスファルトがクレーター状に粉砕され、白い煙が立ち上る。
「これより、エラーデータを【漂白】する」
感情を一切排した周波数。ショクパンマンの白い手袋が、ピョン吉に向けて真っ直ぐに伸ばされる。