世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
ピョン吉は走っていた。
後ろを振り返る余裕はない。ショクパンマンの足音が、規則正しく、冷たく、一定のリズムで背後から迫ってくる。感情もなく、疲れもなく、ただプログラム通りに追跡してくる白い影。
角を曲がる。瓦礫を乗り越える。崩れかけた建物の隙間に身を滑り込ませる。
旧市街の入り組んだ路地を、ピョン吉の小さな身体が縫うように駆け抜けていく。
しかし、ショクパンマンは止まらない。
路地の突き当たり。行き止まり。
ピョン吉が壁を見回した瞬間、壁の下部に、錆びついた金属製のグリルを発見した。廃棄パンの残滓を排出するための、ドームの廃棄ダクトだ。幅は狭い。大人では入れない。しかしピョン吉の小さな身体なら、ぎりぎり通れる。
背後でしょくぱんまんの足音が近づいてくる。
ピョン吉はグリルを引き剥がし、ダクトへと飛び込んだ。
狭い金属の管を、必死に這い進む。重油と腐敗した有機物の臭いが充満している。しかし止まれない。ただ前へ、前へ。
やがて、ダクトの先が開けた。
冷たい夜気が、ピョン吉の顔を叩いた。
ダクトの出口は、ドームの外壁の下部だった。
ピョン吉が這い出て振り返ると、ダクトの入口の向こう、ドームの内側で、しょくぱんまんが静止していた。
追ってこない。
ショクパンマンのセンサーが、ドームの外縁を示す境界線を認識している。その頭部のUV-Cが、ダクトの奥に向けて一度だけ閃光し、そして光量を落とした。
「エラー個体の外部流出を確認」
無機質な音声シグナルが、夜風に乗って聞こえてきた。
「追跡を、終了する」
ピョン吉は息を呑んだ。追ってこない。逃げ切った。
ショクパンマンは踵を返し、ドームの内側へと消えていった。
夜の荒野。
ピョン吉は立ち上がり、周囲を見回した。
ドームの琥珀色の光が背後に滲み、その先には、漆黒の闇が広がっていた。地平線まで続く廃墟。かつて街だったものの残骸が、月光の下で白く浮かび上がっている。
歩き始めてすぐ、ピョン吉の足が止まった。
道路だ。アスファルトが亀裂だらけになりながらも、確かに道路の形を保っている。その脇に、錆びついた車が一台、横倒しになっていた。窓ガラスは割れ、タイヤは腐って原形をとどめていない。しかし車の形は残っていた。
誰かが、ここで生きていた。
その事実が、ピョン吉の胸に重く落ちた。
歩き続けるにつれ、廃墟の密度が増していく。
かつての住宅街だったと思しき区画。建物の骨格だけが残り、壁は崩れ落ち、屋根は陥没している。しかしよく見ると、窓枠の形、玄関の段差、郵便受けの残骸。誰かがここで暮らしていた痕跡が、至るところに残っていた。
ピョン吉は、倒れかけた建物の壁に触れた。
冷たかった。
空気が、変だ。鼻の奥がひりひりする。喉の奥に、ざらついた何かが張り付く感覚がある。ドームの無菌の空気とは全く違う、生々しく、汚く、しかし確かに「外の世界の空気」だった。
最初は気のせいだと思っていた。しかし歩けば歩くほど、息が苦しくなっていく。足が重くなっていく。
(おかしい)
ピョン吉は立ち止まり、自分の手を見た。指先が、微かに震えていた。
廃墟の街の中心に、小さな公園があった。
錆びついたブランコが、夜風に揺れていた。砂場の縁石は苔に覆われ、滑り台は途中から崩れ落ちている。しかしそこには確かに、誰かの子供たちが遊んでいたはずの空間が、形だけ残っていた。
ピョン吉はブランコの前で、膝をついた。
立っていられなくなっていた。
肺が痛い。呼吸のたびに、汚染された空気が内側を焼く。ドームで育ったピョン吉の身体は、外の世界の空気に耐えるための免疫を、何一つ持っていなかった。
カバオは生き延びた。しかし彼は、カバとしての強靭な肉体を持ち、外の汚泥を啜ってでも適応できる特殊な性質も持ち合わせていた。
ショクパンマンが追ってこなかった理由が、今ならわかった。
追う必要がなかったのだ。
ピョン吉はブランコの鎖を掴み、空を見上げた。
ドームの中では、一度も見たことがなかった光景が、そこにあった。
満天の星だった。
管理された人工光源でも、均一に調律された青い空でもない。不規則で、不均一で、システムに制御されていない、本物の星の光。数えきれないほどの光が、冬の空に散らばっている。
綺麗だ、とピョン吉は思った。
同時に、別の思いが胸をよぎった。
(ドームにいれば、今でも楽しく生きていたかもしれない)
ウサ子ちゃんと通学路を歩いて、配給パンを食べて、ジャムおじさんに感謝して。あの白い世界は嘘だったけれど、少なくとも、今みたいに息が苦しくなることはなかった。
(逃げたのは、正しかったのか)
分からない。
(結局、どっちが正しかったんだろう)
その問いに、誰も答えてくれなかった。
夜風がブランコを揺らした。
錆びた金属の音が、静かな廃墟に響いて、消えた。
夜明け前。
廃墟の公園のブランコの前に、小さな少年が倒れていた。動く気配は無い。
ドームの白い壁が、遠くに光っている。
荒野の夜風が、少年の周囲を静かに吹き抜けていった。
答えは、どこにもなかった。