世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
バイキン城の外壁センサーが、異常を検知したのは夜明け前だった。
警報音が城全体に響き渡る。ばいきんまんが研究室から飛び出し、モニターを確認した瞬間、その顔から血の気が引いた。
荒野の地平線が、赤く染まっていた。
点ではない。線だ。地平線の端から端まで、等間隔に並んだ熱源が、一定の速度でバイキン城へと迫ってくる。その数、二十二。
「……多すぎる」
ばいきんまんが初めて、純粋な驚愕を声に出した。
アンパンマン号が荒野の中央に停車し、その背後に二十二の影が整列している。体内の熱炉が赤黒く輝き、胸のノズルから高温のスパイス蒸気が漏れ出している。その熱気だけで、荒野の凍えた空気が揺らいていた。
「バタコ、前進」
アンパンマン号の上部ハッチから、ジャムの平坦な声が荒野に響いた。
「了解。カレーパン、全域滅菌を開始」
二十二の影が、一斉に動き出した。
「だだんだんを起動する!」
ばいきんまんが格納庫へ走りながら叫んだ。しかし庫内のコンソールが示す数値は、最悪のものだった。前回の戦闘で損傷しただだんだんの修復は、まだ六割しか終わっていない。完全起動まで、あと十五分はかかる。
「十五分……!」
城壁の外で、すでに爆発音が響き始めていた。
カレーパンの先頭が、城の外壁へと最初の熱核火線を放ったのだ。重厚な鉄板が赤熱し、溶けて垂れ落ちていく。
「るんるん、迎撃だ!」
培養槽から解放されたるんるんが、城壁の隙間から這い出て、カレーパンへと殺到する。しかし、カレーパンが胸のノズルから散布した高熱のスパイス油脂が、るんるんの群体に降り注いだ瞬間、チチチチ――!!という悲鳴とともに、青黒い胞子が次々と蒸発していく。
「くそ……! るんるんが……!」
ばいきんまんがコンソールを叩きながら、格納庫の入り口で立ち尽くした。だだんだんはまだ起動できない。るんるんは焼かれていく。城壁はじりじりと溶けていく。
その時だった。
「ぱぱ!」
格納庫の奥から、ギコギコと激しい金属音を響かせて、足音が近づいてきた。
フランケンロボくんが、継ぎ接ぎのボディを揺らしながら走ってきた。その目は、いつものように純粋に光っていた。しかし今夜は、その光の中に、はっきりと「戦う」という意志が宿っていた。
「ぼく、出る!」
「駄目だ! お前はまだ試作機だ! 相手の数を見ろ!」
「ぱぱがこまってる!」
ばいきんまんは怒鳴り返そうとして、城壁が大きく抉れる轟音に遮られた。カレーパンの二体目が、外壁を突破しようとしていた。
フランケンロボくんは、ばいきんまんの返事を待たなかった。
城壁の破れた隙間へ向かって、全速力で走り出した。
「フランケンロボ!」
夜の荒野。
フランケンロボくんが外に出た瞬間、カレーパンの三体が照準を向けた。
フランケンロボくんは止まらなかった。
両手を前に突き出す。全身がビリビリと震え、継ぎ接ぎのボディから青白い電流が迸る。
ドカァン――!!
高圧の電撃が、カレーパンの一体の胸部に直撃した。ばいきんまんの計算通り、そして一週間の特訓で培ったコントロールで、乾燥装甲を貫通。高電圧が内部を破壊し、体内の熱炉がショートしてスパイス油脂の配管が断裂する。カレーパンが爆発的な蒸気を噴き上げながら、その場に崩れ落ちた。
「やった……!」
城壁の内側で、カバオが息を呑んだ。
フランケンロボくんは二体目へ向かって走る。電撃は寸分の狂いもなく直撃する。撃破。三体目。電撃. 直撃. 撃破。
三体のカレーパンが瞬く間に荒野に倒れていた。
「ー未知の自律兵器を確認。脅威度更新」
「カレーパン、08以降、包囲戦術へ移行ー」
「ドキンちゃん、カバオ、地下へ!」
ばいきんまんが叫んだ。城の各所で爆発が続いている。このまま地上に留まれば、城ごと焼かれる。
「地下の旧坑道に! 急げ!」
ドキンは一瞬、上層階へと続く螺旋階段を見上げた。
あの先には、彼女が集めた大好きなドレスが並ぶクローゼットがあり、お気に入りの可愛い家具で飾られた彼女だけの部屋がある。戦いには何の役にも立たない、ただのガラクタかもしれない。けれどそれは、この殺伐とした荒野の城の中で、彼女が必死に守り、愛してきた「女の子としての日常」そのものだった。
何か一つだけでも――。
そう願って足を向けかけた瞬間、頭上で凄まじい轟音が響いた。激しい熱波と共に上階の床が真っ赤に融解し、火の粉となって崩れ落ちてくる。彼女のクローゼットが、思い出の部屋が、容赦のないスパイスの炎に呑み込まれ、一瞬で黒い灰へと変わっていくのが見えた。
取りに戻ることすら許されない絶対的な喪失感と恐怖に、ドキンの顔から完全に血の気が引いた。
我に返ったドキンがカバオと共に地下への扉へ走りだしたとき、並走していたばいきんまんに、カバオが叫んだ。
「フランケンロボくんは!」
「俺様が今から連れてくる! ドキンちゃんと先に行け!」
ばいきんまんは踵を返し、再び荒野へ飛び出した。フランケンロボくんが、残りのカレーパンを相手に電撃を放ち続けていた。四体目、五体目。しかし電撃の全出力に継ぎ接ぎの有機回路が耐えきれず、その出力が、少しずつ落ちてきていた。
「フランケンロボ! 逃げるぞ!」
フランケンロボくんが振り返った。
ばいきんまんが地下への扉を指差す。フランケンロボくんが頷き、走り出した。
地下への扉は、城の内壁に埋め込まれた、幅の狭い非常扉だった。ばいきんまんが先に入り、フランケンロボくんが続こうとした。
その大きな肩が、扉の縁に激しく当たった。
「……っ」
フランケンロボくんが、もう一度入ろうとした。入れなかった。
その頑強な装甲板が重なった肩幅は、皮肉なことに、この狭い非常扉の幅を完全に超えていた。
「腕を折り畳め! 装甲を外すんだ!」
「ぱぱ、むり……。うごかない……」
度重なる高圧放電の負荷によって、パージ用の電子回路は完全に焼き溶かされていた。そればかりか、外からの熱核の熱と内からの電力負荷によって、歪んだ継ぎ接ぎの装甲同士がフレームごと完全に噛み合い、固着してしまっているのだ。
ばいきんまんが扉の内側から必死に手を伸ばし、フランケンロボくんの手を引っ張った。――動かなかった。完全に一体の金属塊と化した身体は、びくともしない。
荒野の向こうで、残りのカレーパンが城壁を越えてこちらへ向かってくる。その熱気が、夜の空気を歪めていた。
フランケンロボくんは、ばいきんまんの手を強く握った。
...そして、ゆっくりと、その手を押し戻した。
「ぱぱ」
「離すな! 引っ張れ!」
「ぱぱ」
フランケンロボくんの声が、少し柔らかくなった。
「ぼく、がんばった?」
ばいきんまんの手が、止まった。
熱気が、すぐそこまで迫っていた。城壁が赤く染まっている。しかしばいきんまんは、その瞬間だけ、動けなかった。
「……ああ」
声が、かすれた。
「よくやった」
フランケンロボくんの目が、ぱっと輝いた。純粋な光。
「やったー……!」
小さな声だった。しかし確かに嬉しそうだった。
「じゃあ、もっと、がんばる」
フランケンロボくんは振り返った。
非常扉の前に立ちはだかり、両腕を広げた。カレーパンの群れへ向かって、残された全エネルギーを注ぎ込み、最後の放電を構える。継ぎ接ぎのボディ全体が、狂おしいほどの青白い電流で包まれていく。
「やめるんだ!!」
フランケンロボくんは振り返らなかった。
「ドキンちゃん、カバオと、なかよくしてね」
ドォォォン――!!
凄まじい爆発が、城の外壁を白く染め上げた。
フランケンロボくんの全出力の電撃が、迫っていたカレーパンの群れへと一斉に放たれ、その多くを吹き飛ばした。しかし同時に、隙を突いたカレーパンの熱核火線が、フランケンロボくんの継ぎ接ぎのボディを正面から直撃した。
「フランケンロボ……!!」
熱核の炎に包まれ、内部のギアがドロドロと融解していく。毎日あれほど一生懸命響かせていた不器用な歩行音は、熱に歪み、悲しいほど高い「ギギ……ギ, コ……」という微かな摩擦音へと変わっていった。
継ぎ接ぎの装甲が、一枚、また一枚と焼け剥がれていく。
ばいきんまんはたまらず、非常口の狭い隙間から外へと這い出そうとした。炎に包まれる我が子の元へ、無理やり身体をねじ込もうとする。
だが、融解しながら傾ぎ、倒れかけるフランケンロボくんの巨体が、その動きを阻むように、外側から非常口をぴったりと塞いだ。身体を張った遮断だった。いくら押し返そうとしても、焼き付いた鉄の塊はびくともしない。
「ぱ、ぱ……」
「なんだか、こわい、よ……」
環境に響く不完全な音の途絶と共に、青白い目の光が完全に消えた。
フランケンロボくんの身体が、扉の前に、動かないただの金属の塊となって、ゆっくりと崩れ落ちた。
アンパンマン号の上部ハッチ。
バタコは、その光景を見ていた。
モニター越しではない。現場のすぐ傍ら、アンパンマン号の外壁に張り付くようにして、その目で直接見ていた。
自律型ロボットの身体が崩れ落ちる瞬間を。
「パパ……怖いよ……」という、引き裂かれるような生々しい死の声を。
バタコの視界に、滝のようなエラーコードが高速で走り始める。処理回路がこの状況を「定型外物質の消去」として定義できず、システムはそれを【未知の致命的エラー】として弾き出し続けた。
「バタコ」
ジャムの声が、通信回線を通じてアンパンマン号の内部から響いた。
「状況を報告しなさい」
バタコは、一秒の静寂の間、完全に静止した。
「……了解」
その声は、いつも通りの平坦な周波数だった。しかし、ハッチを閉じて内部へと戻る彼女の足は、引きずるように、一歩だけ重かった。
地下の旧坑道。
ばいきんまんは、暗い坑道の壁に背中を預けて座っていた。
ドキンが隣にいた。カバオが向かいにいた。誰も、何も言わなかった。
坑道の奥から、カレーパンの熱気が伝ってくる。城はまだ燃えている。
ばいきんまんは、じっと自分の手のひらを見つめた。
フランケンロボくんの最後の電撃が逆流した手のひらは、赤黒く焼け焦げ、まだ皮膚の奥がジクジクと疼くような、「熱」を帯びていた。引き戻せるはずだった手の痛みが、彼が確かにそこに生きていたことを証明していた。
ポケットの奥へと指を走らせると、昨日彼から取り上げた、関係のないボルトを締めようとしていた「小さなレンチ」が、冷たく指先に触れた。
「……ぱぱ、か」
誰にも聞こえないほど小さな声で、ばいきんまんが呟いた。
カバオが、膝を抱えたまま、目を伏せた。
ドキンは何も言わなかった。放置されたままで、ばいきんまんの隣で、自分の指先をじっと見つめていた。
いつの間にか、あの不格好なロボットが「ドキンちゃん」と言って裾を掴んできたときの、頑固な「黒い重油の汚れ」が小さく染みついていた。
汚いから触るなと、あれほど露骨に嫌悪したはずの汚れを、ドキンは拭い去ることができなかった。