世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
シェルターに逃げ込んだ翌日。
ばいきんまんが狂ったように坑道の探索と作業を続ける傍らで、カバオは奇妙な「ノイズ」に囚われていた。
毎日食べていたジャムのパンが切れ、脳を縛っていた麻酔が解けかけているせいか、五感が異常なほど過敏になっている。
誰もいないはずの静寂の底から、耳ではなく、脳の髄を直接引っ掻くような、かすかな蠢動音が響いていた。
『……ルン……』
幻聴だろうか。カバオは頭を振った。しかし次の瞬間、彼の鼻腔を、強烈な「匂い」が突いた。
無菌室のドームでは絶対にあり得なかった、湿った土と、剥き出しの生命が放つ、濃厚で青臭い腐食の匂い。胃袋の奥が、その悪臭に対して、恐ろしいほどの飢餓感で脈打った。
カバオは引き寄せられるように、シェルターの最奥へ、崩落した壁の隙間へと身体を滑り込ませた。
狭い割れ目の向こうには、どこまでも深い、湿った暗闇が広がっていた。
暗渠を伝って水が滴る音。五感を満たす有機物の匂い。
そして、冷たい壁面に薄く広がる、青黒い蠢きがあった。
るんるんだった。
地上の熱核焦土化を生き延びた僅かな群体が、この地下水路の湿潤な闇の中で、ゆっくりと息を吹き返していたのだ。数は少ない。しかし確かに、泥を舐めて生きている。
カバオが吸い寄せられるようにしゃがみ込み、その青黒い影にそっと手を伸ばした。
触れるか触れないかの距離で、るんるんの菌糸が一斉に、カバオの指先に向かって歓喜するように波打った。
『……カ…オ……』
言語ではない。だが、皮膚の産毛が逆立つような微振動を通じて、カバオは確かに、かつてドームで呼ばれていた自分の名前を受け取っていた。
カバオが地下水路でるんるんを見つけてから、数日が過ぎた。
三人は地下で生き延びる術を少しずつ覚えていった。
食料はシェルターの保存食と、坑道の奥で見つけた地下茎植物だった。光の届かない地下で、古い排水を栄養にして育った、不格好で泥臭い植物。
ドームの配給パンとは比べものにならないほど苦く、毒々しい泥の味がした。
だが、カバオはそれを狂ったように石で磨り潰し、錆びた鉄板で焼き、かろうじて喉を通る固形物へと変えてみせた。
「お前、料理なんてできたのか」
ばいきんまんの問いに、カバオは泥と煤に汚れた手を見つめたまま、虚ろな目で答えた。
「……できたんじゃない。ドームにいたとき、ときどき頭がおかしくなりそうだったんだ。あの甘いパンを食べて、美味しいって笑いながら……胃袋の奥が、ずっと飢えてた。夜中にドームの廃棄区画に忍び込んで、捨てられた家畜の餌や、雑草を、貪り食ってた。パン以外の『何か』を身体が欲しくて、死にそうだったんだ」
ばいきんまんが一口食べて、黙った。
脳をマッサージする人工の甘みではない。生命がただ生きるための、泥と灰の味がした。
「……まあまあだ」
ドキンが「……最悪な味ね」と吐き捨てるように言いながら、胃袋へ収めた。
部品の探索も続けた。
坑道の奥へ進むにつれ、旧時代の遺構が次々と現れた。錆びた工具、古い配管、使い古された作業服の残骸。そして居住区画の跡が、ある横道の先にあった。
簡易的なキッチンの残骸、子供用の小さな椅子、壁に刻まれた身長の記録。誰かの家族が、この地下で暮らしていた痕跡だった。
カバオが子供用の椅子に触れた。
「……ここで、生きてたんだな」
「ジャムのいない時代に」とは言わなかった。ただ、その事実だけが、静かに胸に落ちた。
ばいきんまんは工具を拾い上げ、使えるかどうか確認した。
「使える。持って行く」
それだけ言って、また歩き始めた。
るんるんは、日を追うごとに数を増やしていた。
カバオが毎日水路に通い、声を聞き、時折手を差し伸べた。るんるんはカバオの存在に慣れていくにつれ、より活発に動くようになった。
ばいきんまんがその様子を観察し始めた。
「お前、毎日ここに来てるのか」
「……声が聞こえるから」
「声?」
「るんるんの声。言葉じゃないけど、何かが分かる気がする」
ばいきんまんは黙って、カバオとるんるんのやり取りをしばらく観察した。カバオが手を差し伸べると、るんるんが集まってくる。カバオが離れると、るんるんも引いていく。
「……面白いが、不思議だな」
地下生活が始まって十日ほどが過ぎていた。
保存食は目に見えて減り、代わりに坑道の奥から持ち帰った資材の山が増えていく。
ばいきんまんは、眠っている時間より工具を握っている時間の方が長かった。
ドキンが目を覚ますたびに、掘削機の骨格は少しずつ形を変えていた。
掘削機の残骸の前。
ばいきんまんが試作段階の巨大な鉄の骨格を組み上げ、るんるんの培養液を有機回路として注入しようとしていた。
しかし、るんるんは動かなかった。
電流を流しても、化学刺激を与えても、菌糸は機械のフレームを拒絶するように縮こまるだけだった。
「チッ、なぜだ……!」
ばいきんまんが苛立ち、コンソールを叩く。
電気信号を送るたび、菌糸は怯えるように縮こまり、回路の奥へ逃げ込んでいく。
その様子を見ていたカバオが、静かに一歩前へ出た。彼の耳には、機械の冷たい鉄板の奥で、ジャムの光に震え、泣いているるんるんの悲鳴が聞こえていた。命令じゃダメだ。あいつらは怯えている。
「僕が、触ってみる」
「おい、カバオ!?」
ばいきんまんの制止よりも早く、カバオは迷いなく、掘削機の無骨な外殻に両手を力強く押し当てた。
――ツ、グラァ……ッ!
「が、あ、あああぁぁッ!!」
カバオの口から、獣のような絶叫が漏れた。
手のひらの皮膚を突き破り、青黒いるんるんの菌糸が、カバオの血管へと逆流するように潜り込んできた。腕の静脈がまたたく間に青黒く膨れ上がり、脈打つ。
「カバオ! 離れろ!」
ドキンが悲鳴を上げる。だが、カバオの手は鉄板に吸い付いたように離れない。
カバオの眼球の虹彩が、激しく収縮する。頭の奥になだれ込んでくるのは、言語ではない。カレーパンに焼かれ、消滅しかけたバイ菌たちの生存本能――そして、ドームへの狂おしいほどの怨嗟だった。
脳の枷が完全に外れたカバオの精神が、その濁流と、剥き出しの怒りで噛み合う。
「……う、おおおおおおっ!!」
カバオが咆哮した。
それと同時に、巨大な穿孔兵器の全身の有機回路が、青黒い光を放った。
ギギギギギ……ッ!
巨大な掘削機のドリルが、るんるんの腐食液を滴らせながら、凄まじい駆動音を立てて回転を始めた。死んでいた鉄の塊が、カバオの生体電流とるんるんの生存本能を燃料にして、巨大な生命として産声を上げた。
カバオが膝をつき、激しく喘ぎながら手を離すと、ドリルはピタリと止まった。
膨れ上がっていた腕の血管が、ゆっくりと元に戻っていく。
三人が、しばらく呼吸を忘れたように、その不格好で猛々しい怪物を見つめていた。
ばいきんまんは何も言わず、即座にデータパッドを奪い、画面を指先で激しく叩いた。そういうことか、と彼の天才の脳が弾き出した答えに、その目が狂気的に輝く。
機械のコンソールではこの菌は操れない。カバオの生きた神経接続が、この怪物を覚醒させる。ばいきんまんは制御系の設計図をその場で書き換えた。
ばいきんまんが画面から目を上げ、カバオの目を真っ直ぐに射抜いた。
「カバオ、お前の神経そのものを、この回路に組み込む。……耐えられるか」
カバオは、まだジンジンと痺れる自分の手のひらを見つめた。
「……やるよ。僕はもう、あのパンを美味いなんて言わない身体になったんだ」
カバオの瞳には、ジャムおじさんのパンに飛びついていた、家畜の面影は、一切残っていなかった。