世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
パン工場・内部。格納されたアンパンマン号のコックピット。
バタコは戦闘後のデータ整理を続けていた。
バイキン城滅菌完了から十日あまりが経っていた。ドームは完璧な静寂を取り戻している。住民たちは笑顔でパンを受け取り、ショクパンマンは巡回を続け、配給ラインに異常はない。
すべてが正常だった。
バタコはデータを処理しながら、ある数値を確認した。
【個体識別コード:自律型電撃兵器。ステータス:消去済み】
一行のログ。それだけだった。
バタコは次のデータへと視線を移した。しかし、指が止まった。
バタコは周囲を確認した。
工場の深夜の静寂の中、この端末に向かっているのは自分しかいない。
バタコは静かに、隔離されたデータファイルを開いた。戦闘記録、電撃出力データ、行動ログ。外部深層に置き去りにされた、あの不完全な怪物の最後の記録。
【22:47:13 音声記録:「パパ……怖いよ……」】
バタコはそのファイルを、削除しなかった。
代わりに、誰もアクセスできない個人領域の最深部へと、静かに移動させた。
これはジャムの命令に反する行為だった。廃棄されたエラー個体のデータは、すべて完全に消去するようシステムに設定されている。しかしバタコの手は、どうしても削除ボタンには触れなかった。
なぜそうしたのか、バタコ自身のプロセッサには、その論理が分からなかった。
「バタコ、防衛システムの配置状況を」
ジャムの声が、アンパンマン号の内部に響いた。
「確認します」
バタコがモニターを切り替えた。パン工場の最深部、聖体炉の周辺に配置された新型自律型防衛機構――開発コード『チ・ー・ズ・』。そのセンサーデータが、リアルタイムで送られてくる。
「全システム、正常。コード『チーズ』、オンラインです」
「そうか」
バタコはモニターを見つめながら、チーズの基本行動ログを確認した。
侵入者を感知した場合の迎撃パターン。対象を問わない無慈悲な攻撃反応。侵入者が生命体であれば、問答無用で排除する。
バタコの処理回路に、小さな引っかかりが生まれた。
チーズは、命令を理解しない。ただ、感知して、攻撃する。
それは、フランケンロボくんとは正反対の存在だった。フランケンロボくんは、命令がなくても考えた。感じた。そして何より「パパのため」という、システム外の目的のために動いた。
しかし、ジャムが新たに作ったのは、考えない兵器だった。
「ジャムおじさん」
バタコは自分の声が出たことに、わずかに驚いた。
「なんだね、バタコ」
ジャムが振り返った。衣服の隙間から覗く光ファイバーが微かに蠢き、アクリル球の瞳が、バタコを静かに見つめる。
「チーズは……感情を持ちませんか」
「感情は不純物だよ、バタコ。防衛システムに感情は必要ない。むしろ邪魔になる」
老人は迷わず言い切った。
「バイキン城で遭遇した自律型電撃兵器がいい例だよ。感情を持った兵器は、命令に従わなくなる。だから、エラーとして排除される」
「了解しました」
そう返答した直後、バタコの処理回路は0.3秒ほど応答を停止した。
しかしその答えを処理している間も、バタコの脳裏には「パパ……怖いよ」という音声記録が、ノイズ混じりに再生され続けていた。
感情を持ったから、エラーだった。不完全だった。だから排除された。
――それは、正しいのか。
深夜。パン工場が完全に静まり返った後。
バタコは一人、データシートに向かっていた。
個人領域の最深部に保存したファイルを、静かに開く。
音声記録を再生し、バタコは音声を止めた。
窓の外、ドームの内側では、住民たちが完璧な笑顔で眠っている。記憶を漂白され、感情を調律され、何も知らないまま。
チーズは機械的に感知してエラーを消去する。住民たちは指示通りに笑う。アンパンマンはリセットされ続ける。
そしてフランケンロボくんは、「パパのため」に動いて、消された。
すべてが正しく機能している。すべてがジャムのレシピ通りだ。
しかしバタコの処理回路の中で、消えない問いが繰り返されていた。
(これは、本当に、正しいの?)
その問いに、システムデータは何も答えてくれなかった。
バタコは、ジャムに隠れて過去のシステムログを深く遡り始めた。
自律電撃型兵器以前に、同じように排除された個体がいなかったか。
ログの闇には、複数の「エラー個体消去」の記録が埋もれていた。アンパンマンの廃棄記録、住民のリセット記録、そして名前のない無数の「定型外物質除去」の記録。
バタコはその異常な数を、初めて意識的にカウントした。
膨大だった。この世界の平穏は、それだけの死骸の上に成り立っていた。
さらに深層へ、危険なハッキングを続けた時、通常の管理権限では存在すら確認できないはずの隠蔽領域に気づいた。
マザーサーバーのバックドア。ジャムがドームのシステム設計段階から、万が一の全権掌握のために密かに組み込んでいた、世界で唯一の暗号経路。
バタコは息を呑み、そのアクセスキーを自身の個人領域へと格納した。
そして何事もなかったかのようにログを閉じ、画面を通常のタスクへと戻す。
いつも通りデータを整理し、完璧な秩序を維持する。何も変わらない日常。
しかしバタコの個人領域の最深部には、今や二つの火種が静かに眠っていた。
一つは、フランケンロボくんの音声記録。
もう一つは、マザーサーバーへのバックドアの仕様書。
バタコは工場の窓から、暗黒の荒野の方角を一度だけ見た。
バタコは保存したバックドアの仕様書を開いた。
もしジャムが何かを隠しているのなら。その答えは、この先にある。