世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
地下では、もぐりんの最終調整が続いていた。
その頃――パン工場の内部ではバタコが日課のデータ整理を続けていた。
カレーパンの稼働ログ、ショクパンの巡回記録、住民のバイタルデータ。すべてが正常を示している。
その時、バタコが数日前から秘密裏に進めていた「工場のマザーサーバーの
通常の管理業務では決して触れることのない、隔離された最深部。そこに隠蔽されていたのは、チーズの生成ログだった。
生成日時は、カレーパンのロールアウトと完全に同じ日付を示している。
バタコは首を傾げた。
チーズの配置命令はジャムから直接受けていた。しかしその生成プロセスについて、バタコは詳細な説明を受けていなかった。カレーパンと同じ窯で、同じタイミングで生成されていたとは、知らなかった。
(なぜ、ここまで深く隠蔽されているのか)
その不穏な疑問が、バタコの指を動かした。
バタコは解析コードを流し込み、厳重にロックされていたチーズの設計ファイルを
ファイルが開いた瞬間、バタコの処理回路が、あまりの衝撃に一時停止した。
【CHEESE / 中央防衛管理個体】
【役割:ドーム内外における不純生体の即時滅菌・消去】
【製造工程:高出力熱炉ライン(高密度外殻を急速焼成するため、カレーパンシリーズの超高温窯を共通使用)】
【分類:環境維持・自律型
住民たちはチーズを、ジャムのペットだと思っている。尻尾を振り、鳴き、甘える小さな白い犬として。
しかし、その実態は。
バタコは冷徹な機械言語で書かれた仕様を読み進めた。
嗅覚センサー。空気中のナノ粒子を常時サンプリングし、るんるん胞子、外界菌類、そして重油成分を検知する。
そして――精神波形異常の検知。
バタコの指が止まった。
住民の恐怖、怒り、疑念、あるいは記憶復元の兆候を、脳波レベルでスキャンする。
つまりチーズは、住民の「心」を監視していた。
ドームの中で、住民たちが笑顔でチーズに触れている間、チーズはその掌から彼らの精神波形を貪り読み、異常がないかを選別していたのだ。
【処理プロトコル:検知された不純波形(反抗・疑問・強い自我)が
(住民たちは知らない。笑いかけ、撫でているその細い首に、いつでも自分を肉片へと分解できる『ハサミ』が添えられていることを)
バタコはさらに読み進めた。
咬着システム。対象へ噛みついた瞬間、神経遮断剤と滅菌ナノマシンを直接注入。エラー個体を内部から、細胞レベルで液化・分解する。
そして、ファイルの最下層に、バタコが想定していなかった最悪の破壊プロトコルがあった。
【第二形態:CERBERUS MODE】
【起動条件:大規模な内的エラー(暴動・制御不能な精神汚染)】
【外殻展開、内部骨格露出】
【UV-C咆哮照射:無差別滅菌】
無差別滅菌。
バタコはその五文字を、何度も内部メモリで
それは外敵から住民を「守る」ための盾ではなかった。ジャムの作った無菌室の純度を維持するためなら、中にいる生命ごとすべてを焼き尽くすために用意された、巨大な焼却炉だった。
チーズがこの禍々しい機能を備えているという事実は、設計ファイルのどこにも強調されていなかった。ただ淡々と、機能として記述されていた。まるで、それが当然であるかのように。
データパッドを置いた。
ジャムは言った。感情は不純物だ、と。フランケンロボくんは感情を持ったからエラーだった、と。
しかしチーズは、感情を模倣する。尻尾を振り、甘え、住民に近づく。それは感情ではない。生体を油断させ、内側から確実に間引き、従順にさせるための「悪質な擬態」だ。
感情を否定しながら、完璧な偽りの感情を傍らに置く。
バタコにはその論理が、どうしても処理できなかった。
フランケンロボくんは感情を持ったから排除された。チーズは牙を隠すための偽りの感情だから稼働が許されている。
――システムに歯向かう生命は、たとえ身内であっても、無差別に、一切の慈悲なく滅菌する。
それが、このパン工場の、ジャムの思想の正体だった。
バタコは窓の外を見た。
ドームの内側、住民区画。深夜にもかかわらず、いつもと変わらない静寂が広がっている。
昼間、住民たちはチーズに触れ、笑顔を向ける。チーズは尻尾を振り、甘える。住民たちはそれを見て「ジャムおじさんのペット、可愛いね」と言う。
その瞬間もチーズは、住民たちの精神波形を読み取り、
バタコは、自分の半透明な電子の手を見つめた。
これまで自分は、住民たちのデータを整理してきた。バイタルデータ、記憶調律の効果、従順性維持の数値。バタコもまた、彼らを「
チーズが物理的に間引く牙なら、私はシステム的に間引く刃だ。形を変えたジャムの剪定兵器の片割れ。やっていることは、何も変わらない。
そしてもし、自分がこのシステムに「疑問」という最大の不純物を混ぜてしまえば。
次にチーズの牙が突き立てられるのは、自分だ。
その事実が、静かに、ひどく冷たく脳内に落ちた。
バタコは個人領域の最深部を開いた。
すでにサルベージしてあったフランケンロボくんの記録、バックドアの仕様書。そこに、新たにチーズの設計ファイルの複製が加わった。
バタコはファイルを閉じ、データパッドを伏せた。
ジャムのシステムは正しく機能している。
チーズは正しく守っている。
住民たちは正しく笑っている。すべてが、狂おしいほどに正しい。
しかしバタコには、もうその「正しさ」を、正しいとは処理できなかった。
窓の外、暗黒の荒野の方角を、バタコは今夜も、一度だけ見つめた。