世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録   作:ルーズベルト(-5㎏)

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29. 選択の夜明け

パン工場・内部。朝。

バタコはいつも通り、ジャムへの報告を行った。

「住民バイタル、正常。ショクパンマン巡回、異常なし。チーズ稼働、正常。配給ライン、正常」

「よろしい」

ジャムの声が響く。だがその声は、スピーカーから出力されたかのように抑揚がなかった。

満足そうに頷くジャムの衣服の隙間、首の後ろからは、工場の壁へと直接繋がった無数の青白い光ファイバーが、血管のように明滅しながら蠢いていた。彼自身の肉体は、すでにマザーサーバーの生体パーツとして半分以上取り込まれている。

ジャムの足元では、白い小さな愛玩動物――チーズが、無邪気に尻尾を振ってバタコを見上げていた。

バタコは自身のプロセッサのコアを休止させ、あらかじめ偽造しておいた「従順な管理個体」のダミー精神波形を全開で出力し続けていた。チーズの嗅覚センサーが、バタコの微かな「自我の熱」を検知しようと、かすかにピクリと動く。

生きた心地がしなかった。もし今、システムへの疑問という不純物を一滴でも思考に混ぜれば、この愛らしい防衛個体は一瞬で外殻を引き裂き、バタコを細胞レベルで液化(滅菌)させる。

バタコは表情一つ変えず、「了解しました」と答え、データパッドを閉じた。

いつもと同じ朝だった。しかしバタコには、これが最後になるということが、静かに分かっていた。

 

ジャムがチーズを連れて工場の奥へと歩いていく背中を見ながら、バタコは個人領域の秘匿フォルダを開いた。

三つのファイルが、静かに並んでいた。

バックドアの仕様書。チーズの設計図。そして、自律電撃型兵器――フランケンロボくんの音声ログ。

(なぜ、私はこれを消さなかったのだろう)

数日前、ジャムから「エラー個体の残滓(ざんし)を完全消去せよ」と命じられた時、バタコの回路に原因不明のきしみ(バグ)が走った。「ぱぱ」と泣きながら消えていったあの不完全な怪物の声を、システムから完全に抹消することへの強烈な拒絶。それが、彼女がドームを裏切る最初の引き金だった。

バタコはそれらを、極小の外部記録媒体へと移した。

次に、中央防衛システムへアクセスする。今日の行動がジャムのログに記録される前に、自身の「不在エラー」を遅らせるための仕込みを行う時間は、今しかなかった。

バタコは、自身のバイタルデータと位置情報を「午後十五時までドーム内を正常に巡回している」ように見せかけるゴーストプログラムを中央サーバーの隙間に滑り込ませた。これで、数時間は猶予ができる。

バタコは立ち上がった。パン工場の出口へ向かう。

「バタコ」

ジャムの平坦な声が背後から響いた。バタコの背中に、冷たい電流が走る。

「午後の配給ラインの確認もよろしくね」

「……了解しました」

バタコは振り返らずに答え、そのまま外へ出た。二度と戻らない工場の扉が、背後で静かに閉まった。

 

バタコはドームの外縁へと向かった。

住民たちがすれ違う。笑顔で会釈をする。バタコも笑顔で返した。

チーズの広域精神スキャンは、半径二百メートル以内の「不安や不満」を自動検知する。今のバタコは、ドームのシステムにとって完全な「エラー物質」だ。

バタコは、あえて住民たちが密集して楽しげに談笑している中央広場のルートを選んだ。幸福な住民たちの強い精神波形(ノイズ)の影に、自身の歪んだ波形を隠すようにして、一歩ずつ、確実に死角を縫って歩いた。

外縁の廃棄ダクト区画。住民が立ち入ることのない薄暗い通路に滑り込んだ瞬間、ようやく電子の視線から解放された。

管理システムからは完全に死角となっている非常用排気口。バックドアの調査過程で発見した、人一人がかろうじて通れる幅の隙間だった。カバーを外すと、冷たい外気が顔を叩いた。

荒野の匂いがした。

バタコは一度だけ、ドームの内側を振り返った。白い壁。清潔な光。完璧な秩序。

(さようなら、正しい世界)

バタコは狭い排気口に身体を滑り込ませ、外へと這い出した。

 

荒野は、バタコの想像とは違った。

ドームの外は死の世界だと、データは示していた。しかし実際に立ってみると、それは死というより、生命がただ別の形で泥臭く存在している世界だった。

風が吹く。土の匂いがする。

バタコのセンサーが、空気中の汚染物質を検知し続けていた。重油成分、外界菌類。ドームの基準では「有害」と判定されるものが、至るところに漂っている。

バタコは、遠く地平線の彼方にうっすらと見える、黒い染みのような点を目指して歩き始めた。それがバイキン城の残骸だった。

 

道なき道を行く。ドームの中の平滑な床とは違い、荒野の地面は容赦なく牙を剥いた。尖った岩石が足裏の人工皮膚を切り裂き、吹き荒れる砂塵が関節のサーボモーターに容赦なく侵入する。一歩歩くたびに、右膝の奥から「ギチ……」と、ドーム内では決して許されない不快な摩擦音が響いた。

 

ピピッ。

荒野の静寂の中で、バタコの脳内クロックが、無機質なアラートを鳴らした。

【15:00】

タイムリミットだった。たった今、パン工場のマザーサーバーに仕込んだゴーストプログラムが消滅した。中央システムは「管理個体バタコの不在」を検知し、ドーム全域に最高レベルのエラー警告を鳴り響かせているはずだ。

そして――ジャムは、足元の『それ』に命じる。

ジーーーッ……!

バタコの広域レーダーが、はるか後方の地平線から照射された「不可視のパルス波」を捉えた。

チーズの広域精神スキャンだ。冷徹な滅菌の波動が、荒野の空間を高速でなぞりながら、こちらに向かって迫ってきている。計算上、チーズ本体の速度なら、ここに到達するまで一時間もかからない。

恐怖がプロセッサを支配する。バタコは、壊れた右膝の出力を限界まで引き上げ、砂塵を蹴った。

チーズの嗅覚と精神スキャンは、無菌のドームでこそ100%機能する。だが、この荒野は重油、外界菌類、腐敗した有機物という「無数の不純物のノイズ」に満ちている。それがスキャン波をわずかに狂わせている。

背後から迫る不可視の触手が、バタコのすぐ背後の空間を何度もかすめ、そのたびに電子回路が凍りつくような衝撃が走る。絶対に接触してはならない。追いつかれれば、対話の余地なく消去される。

 

荒野がどす黒い夕闇に染まり、凍えるような夜風が吹き抜ける中、バタコはようやく、かつてバイキン城と呼ばれた場所の足元へと辿り着いた。

焦げた鉄と重油の匂いが、鼻腔のセンサーを強く刺激する。

かつて二本の尖塔が空を突いていた場所には、今は崩れ落ちた黒い残骸が広がっているだけだった。

 

ビーーー……ッ、ガガガガッ……!

 

その時、バタコの脳内レーダーが激しいジャミングを起こし、次いで、背後から迫っていた不可視の精神スキャン波が完全に霧散した。レーダーの警告音が、ピタリと止まる。

バタコは、崩れ落ちた鉄板の影に身を潜めながら、自身のプロセッサでその理由を解析した。

 

チーズの追跡システムは、ドームという「無菌のゆりかご」の中でこそ性能を発揮することができる精密機械だった。塵一つなく、全員が均一な幸福波形を出している世界だからこそ、わずか一粒の「不純物」を確実にハントできる。

だが、このバイキン城の残骸は違った。

数十年にわたり、ジャムの秩序を拒絶し続けた無数の兵器の死骸、濃厚な重油の(すす)、そしてシステムへの強烈な怨嗟を孕んだバイ菌の生体残渣。それらが放つ、測定不能なほどの「汚れた情報」が、巨大な電磁の濁流となってこの空間に渦巻いていた。

鋭敏すぎた猟犬のセンサーは、この圧倒的な情報過多(オーバーフロー)に耐えられなかったのだ。あまりに高感度ゆえに、この世界で最も汚れた場所のノイズを浴びた瞬間、網膜が焼き切れるようなハレーションを起こし、バタコという微小なバグを見失った。

 

バタコは残骸の中を歩いた。

焼け焦げた鉄板。溶けて固まった金属の塊。そして、その山の中に、あの継ぎ接ぎのボディの残骸が転がっていた。

【個体識別:自律電撃型兵器。ステータス:消去済み】

データベースに記録された、たった一行の冷たいログ。

バタコは静かにしゃがみ込み、その冷え切った胸の鉄板に触れた。

「怖かったのですね」

バタコは誰に聞かせるでもなく呟いた。

音声ログの最後の言葉。

その記録を保存した瞬間から、もう後戻りはできなかった。

壊れた右膝の異音だけが響く静寂の中、バタコはしばらく、そこに座っていた。

 

残骸を探索していると、崩落した床の隙間に、地下へと続く暗い縦穴を見つけた。

この下に、まだ「彼ら」が生きているかもしれない。

もし追っ手が来ても、この地底なら隠れることができる。

バタコは吸い込まれるように、右足を引きずりながら、暗い入口へと降りていった。

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