世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
パン工場・内部。朝。
バタコはいつも通り、ジャムへの報告を行った。
「住民バイタル、正常。ショクパンマン巡回、異常なし。チーズ稼働、正常。配給ライン、正常」
「よろしい」
ジャムの声が響く。だがその声は、スピーカーから出力されたかのように抑揚がなかった。
満足そうに頷くジャムの衣服の隙間、首の後ろからは、工場の壁へと直接繋がった無数の青白い光ファイバーが、血管のように明滅しながら蠢いていた。彼自身の肉体は、すでにマザーサーバーの生体パーツとして半分以上取り込まれている。
ジャムの足元では、白い小さな愛玩動物――チーズが、無邪気に尻尾を振ってバタコを見上げていた。
バタコは自身のプロセッサのコアを休止させ、あらかじめ偽造しておいた「従順な管理個体」のダミー精神波形を全開で出力し続けていた。チーズの嗅覚センサーが、バタコの微かな「自我の熱」を検知しようと、かすかにピクリと動く。
生きた心地がしなかった。もし今、システムへの疑問という不純物を一滴でも思考に混ぜれば、この愛らしい防衛個体は一瞬で外殻を引き裂き、バタコを細胞レベルで液化(滅菌)させる。
バタコは表情一つ変えず、「了解しました」と答え、データパッドを閉じた。
いつもと同じ朝だった。しかしバタコには、これが最後になるということが、静かに分かっていた。
ジャムがチーズを連れて工場の奥へと歩いていく背中を見ながら、バタコは個人領域の秘匿フォルダを開いた。
三つのファイルが、静かに並んでいた。
バックドアの仕様書。チーズの設計図。そして、自律電撃型兵器――フランケンロボくんの音声ログ。
(なぜ、私はこれを消さなかったのだろう)
数日前、ジャムから「エラー個体の
バタコはそれらを、極小の外部記録媒体へと移した。
次に、中央防衛システムへアクセスする。今日の行動がジャムのログに記録される前に、自身の「不在エラー」を遅らせるための仕込みを行う時間は、今しかなかった。
バタコは、自身のバイタルデータと位置情報を「午後十五時までドーム内を正常に巡回している」ように見せかけるゴーストプログラムを中央サーバーの隙間に滑り込ませた。これで、数時間は猶予ができる。
バタコは立ち上がった。パン工場の出口へ向かう。
「バタコ」
ジャムの平坦な声が背後から響いた。バタコの背中に、冷たい電流が走る。
「午後の配給ラインの確認もよろしくね」
「……了解しました」
バタコは振り返らずに答え、そのまま外へ出た。二度と戻らない工場の扉が、背後で静かに閉まった。
バタコはドームの外縁へと向かった。
住民たちがすれ違う。笑顔で会釈をする。バタコも笑顔で返した。
チーズの広域精神スキャンは、半径二百メートル以内の「不安や不満」を自動検知する。今のバタコは、ドームのシステムにとって完全な「エラー物質」だ。
バタコは、あえて住民たちが密集して楽しげに談笑している中央広場のルートを選んだ。幸福な住民たちの強い
外縁の廃棄ダクト区画。住民が立ち入ることのない薄暗い通路に滑り込んだ瞬間、ようやく電子の視線から解放された。
管理システムからは完全に死角となっている非常用排気口。バックドアの調査過程で発見した、人一人がかろうじて通れる幅の隙間だった。カバーを外すと、冷たい外気が顔を叩いた。
荒野の匂いがした。
バタコは一度だけ、ドームの内側を振り返った。白い壁。清潔な光。完璧な秩序。
(さようなら、正しい世界)
バタコは狭い排気口に身体を滑り込ませ、外へと這い出した。
荒野は、バタコの想像とは違った。
ドームの外は死の世界だと、データは示していた。しかし実際に立ってみると、それは死というより、生命がただ別の形で泥臭く存在している世界だった。
風が吹く。土の匂いがする。
バタコのセンサーが、空気中の汚染物質を検知し続けていた。重油成分、外界菌類。ドームの基準では「有害」と判定されるものが、至るところに漂っている。
バタコは、遠く地平線の彼方にうっすらと見える、黒い染みのような点を目指して歩き始めた。それがバイキン城の残骸だった。
道なき道を行く。ドームの中の平滑な床とは違い、荒野の地面は容赦なく牙を剥いた。尖った岩石が足裏の人工皮膚を切り裂き、吹き荒れる砂塵が関節のサーボモーターに容赦なく侵入する。一歩歩くたびに、右膝の奥から「ギチ……」と、ドーム内では決して許されない不快な摩擦音が響いた。
ピピッ。
荒野の静寂の中で、バタコの脳内クロックが、無機質なアラートを鳴らした。
【15:00】
タイムリミットだった。たった今、パン工場のマザーサーバーに仕込んだゴーストプログラムが消滅した。中央システムは「管理個体バタコの不在」を検知し、ドーム全域に最高レベルのエラー警告を鳴り響かせているはずだ。
そして――ジャムは、足元の『それ』に命じる。
ジーーーッ……!
バタコの広域レーダーが、はるか後方の地平線から照射された「不可視のパルス波」を捉えた。
チーズの広域精神スキャンだ。冷徹な滅菌の波動が、荒野の空間を高速でなぞりながら、こちらに向かって迫ってきている。計算上、チーズ本体の速度なら、ここに到達するまで一時間もかからない。
恐怖がプロセッサを支配する。バタコは、壊れた右膝の出力を限界まで引き上げ、砂塵を蹴った。
チーズの嗅覚と精神スキャンは、無菌のドームでこそ100%機能する。だが、この荒野は重油、外界菌類、腐敗した有機物という「無数の不純物のノイズ」に満ちている。それがスキャン波をわずかに狂わせている。
背後から迫る不可視の触手が、バタコのすぐ背後の空間を何度もかすめ、そのたびに電子回路が凍りつくような衝撃が走る。絶対に接触してはならない。追いつかれれば、対話の余地なく消去される。
荒野がどす黒い夕闇に染まり、凍えるような夜風が吹き抜ける中、バタコはようやく、かつてバイキン城と呼ばれた場所の足元へと辿り着いた。
焦げた鉄と重油の匂いが、鼻腔のセンサーを強く刺激する。
かつて二本の尖塔が空を突いていた場所には、今は崩れ落ちた黒い残骸が広がっているだけだった。
ビーーー……ッ、ガガガガッ……!
その時、バタコの脳内レーダーが激しいジャミングを起こし、次いで、背後から迫っていた不可視の精神スキャン波が完全に霧散した。レーダーの警告音が、ピタリと止まる。
バタコは、崩れ落ちた鉄板の影に身を潜めながら、自身のプロセッサでその理由を解析した。
チーズの追跡システムは、ドームという「無菌のゆりかご」の中でこそ性能を発揮することができる精密機械だった。塵一つなく、全員が均一な幸福波形を出している世界だからこそ、わずか一粒の「不純物」を確実にハントできる。
だが、このバイキン城の残骸は違った。
数十年にわたり、ジャムの秩序を拒絶し続けた無数の兵器の死骸、濃厚な重油の
鋭敏すぎた猟犬のセンサーは、この圧倒的な情報過多(オーバーフロー)に耐えられなかったのだ。あまりに高感度ゆえに、この世界で最も汚れた場所のノイズを浴びた瞬間、網膜が焼き切れるようなハレーションを起こし、バタコという微小なバグを見失った。
バタコは残骸の中を歩いた。
焼け焦げた鉄板。溶けて固まった金属の塊。そして、その山の中に、あの継ぎ接ぎのボディの残骸が転がっていた。
【個体識別:自律電撃型兵器。ステータス:消去済み】
データベースに記録された、たった一行の冷たいログ。
バタコは静かにしゃがみ込み、その冷え切った胸の鉄板に触れた。
「怖かったのですね」
バタコは誰に聞かせるでもなく呟いた。
音声ログの最後の言葉。
その記録を保存した瞬間から、もう後戻りはできなかった。
壊れた右膝の異音だけが響く静寂の中、バタコはしばらく、そこに座っていた。
残骸を探索していると、崩落した床の隙間に、地下へと続く暗い縦穴を見つけた。
この下に、まだ「彼ら」が生きているかもしれない。
もし追っ手が来ても、この地底なら隠れることができる。
バタコは吸い込まれるように、右足を引きずりながら、暗い入口へと降りていった。