世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
シェルターの扉の前で、ばいきんまんがレンチを握り直していた。
カバオがもぐりんの前に立ちはだかる。ドキンがばいきんまんの背後に張り付いた。
闇の奥からの足音が、近づいてくる。
引きずるような、重く不規則な歩行音。機械と有機物が混ざったような、奇妙な気配。
ばいきんまんのライトが、暗闇を切り裂いた。
光の中に現れたのは、ドームの制服に身を包んだ、毛穴のない滑らかな人工皮膚を持つ存在だった。
右膝から異音を立て、砂塵で汚れ、髪が乱れていた。しかしその目は、ジャムのシステムに属する者特有の空虚さではなく、何か別のものを宿していた。
三人は無言で、その存在を見つめた。
「……ドームの人間か」
ばいきんまんが低く言った。レンチを構えたまま、一歩も動かない。
「……元、ジャムの管理個体です」
掠れた、しかし確かな声だった。
「元、だと?」
ばいきんまんの目が細くなった。
「ジャムのスパイが、そんな手を使うとは思えない。お前が今ここにいる理由を、俺様に納得のいく形で説明できなければ、今すぐこのもぐりんのドリルで、肉片ごと地底の泥に混ぜてやる」
カバオが、その存在をじっと見ていた。
ドームで何度も見た顔だった。アンパンマン号のハッチから現れ、新しい顔を射出し続けていた存在。しかし今、目の前に立つその姿は、あの時とは違った。右膝が壊れていた。服が汚れていた。髪が乱れていた。
「……ジャムおじさんと一緒にいた人だ」
カバオが静かに言った。
「でも、追ってきたわけじゃないと思う。追ってくるなら、もっと早く来てた」
ばいきんまんが一瞬だけカバオを見て、また視線を戻した。
「話せ」
バタコは外部記録媒体を取り出した。
「これを、持ってきました」
「何だ」
「三つのファイルが入っています。一つ目は、マザーサーバーへの直接アクセスルート、バックドアの仕様書です。ジャムがシステム設計段階から組み込んでいた、誰も知らない侵入経路です」
ばいきんまんの目が細くなった。
「そのファイル自体が罠かもしれねぇ」
「その可能性は否定できません」バタコは静かに答えた。
「ですが、最後のファイルだけは見てください」
「最後?」
「あなたが作った、自律電撃型兵器の音声記録です」
ばいきんまんは外部記録媒体をもぎ取るようにして受け取り、コンソールに叩きつけるように繋いだ。
震える指で、音声ファイルを開く。
【「ぱぱ……」】
ノイズ混じりの、しかし紛れもないあの子供の声が、シェルターに静かに響いた。
ばいきんまんの手から、レンチが床に甲高い音を立てて落ちた。
ドキンがたまらず顔を背け、カバオが深く目を伏せた。
ばいきんまんは、微動だにしなかった。ただ、その声が終わった後も、呼吸を忘れたようにコンソールを見つめ続けている。ディスプレイの光に照らされた彼の横顔が、激しく、痛々しいほどに
「……なんで、お前がこれを持っている」
「消去されるはずのバグデータでした。ですが、私は……」
バタコは言葉を絞り出すまでに、少し時間がかかった。人工皮膚の奥にある何かが、きしむ音を立てていた。
「消去されたものを、最初からなかったことには、したくなかったからです」
しばらくの沈黙の後、ドキンが口を開いた。
顔は背けたまま、しかし声は、酷く静かだった。
「……名前は」
「バタコ、です」
「バタコ」
ドキンはゆっくりと振り返った。その目が、バタコを正面からじっと見据えた。
汚れた服。油まみれの壊れた膝。乱れた髪。ジャムの操り人形ではない、一人の裏切り者の姿を。
「……バタコさん、ね」
「さん、は不要です。私はただの管理個体――」
「あたしが決めることよ」
ドキンはそれだけ言って、また視線を逸らした。しかしその声の温度は、完全に変わっていた。
バタコは、「バタコさん」という呼ばれ方を処理する言葉を持たなかった。ドームの冷たいマザーサーバーからは、一度も与えられたことのない、個としての、生命としての敬称。
ただ、胸の奥の処理回路が、静かに、しかし二度と消えない深いログを刻んでいた。
ばいきんまんはノイズを振り払うように立ち上がり、バックドアの仕様書をホロテーブルに展開した。
「……本物か」
「本物です。私がシステムを直接調査して、マザーの目を盗んでサルベージしました」
ばいきんまんはしばらく沈黙した。
ばいきんまんは黙ったままカバオを見た。
「……お前はどう思う」
「信用できるかは分からないよ。でも、話くらいは聞いてもいいと思う」
ばいきんまんは小さく鼻を鳴らした。
しかし、床に落ちていたレンチを力強く拾い上げ、設計図の前に戻りながら、ばいきんまんは言った。
「バタコ。お前に聞きたいことがある。……ジャムの野郎は今、何をしてやがる」
バタコは表情を変えずに答えた。
「パン工場の最深部、地下第四層――
「直接接続だと?」
ばいきんまんの目が、ぎらりと狂気的に細くなった。
「はい。ジャムおじさんの脳そのものが、ドーム全域の管理権限、そして防衛システムを制御する『メインプロセッサ』として機能しています。……彼自身が、システムの心臓です。ジャムおじさんをマザーから引き剥がすか、あるいは脳死させれば、ドームのシステムは完全に沈黙します」
ばいきんまんは低く、愉しげに笑った。
「なるほど。ついに人間をやめて、ただの機械の部品になりやがったのか。……」
ばいきんまんは経路図を広げた。もぐりんの侵入ルートと、バックドアの仕様書、そしてジャムの座している座標を重ね合わせる。
「……二つを合わせれば、届く」
独り言のような呟きだった。しかしその声には、確かな殺意と、勝利への確信があった。
カバオがもぐりんの側に立ち、その外殻に手を当てた。
るんるんが、彼の体温に応えるように微かに波打つ。
ドキンは壁に背中を預け、静かに腕を組んでいた。
バタコは誰にも言われないまま、ホロテーブルの空いた席へ歩いた。誰も止めなかった。
重油と土、そして機械の匂いが充満した狭い空間に、初めて「四人」の息遣いが満ちていた。