世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録   作:ルーズベルト(-5㎏)

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30. バタコさんという名前

シェルターの扉の前で、ばいきんまんがレンチを握り直していた。

カバオがもぐりんの前に立ちはだかる。ドキンがばいきんまんの背後に張り付いた。

闇の奥からの足音が、近づいてくる。

引きずるような、重く不規則な歩行音。機械と有機物が混ざったような、奇妙な気配。

ばいきんまんのライトが、暗闇を切り裂いた。

 

光の中に現れたのは、ドームの制服に身を包んだ、毛穴のない滑らかな人工皮膚を持つ存在だった。

右膝から異音を立て、砂塵で汚れ、髪が乱れていた。しかしその目は、ジャムのシステムに属する者特有の空虚さではなく、何か別のものを宿していた。

三人は無言で、その存在を見つめた。

「……ドームの人間か」

ばいきんまんが低く言った。レンチを構えたまま、一歩も動かない。

「……元、ジャムの管理個体です」

掠れた、しかし確かな声だった。

 

「元、だと?」

ばいきんまんの目が細くなった。

「ジャムのスパイが、そんな手を使うとは思えない。お前が今ここにいる理由を、俺様に納得のいく形で説明できなければ、今すぐこのもぐりんのドリルで、肉片ごと地底の泥に混ぜてやる」

カバオが、その存在をじっと見ていた。

ドームで何度も見た顔だった。アンパンマン号のハッチから現れ、新しい顔を射出し続けていた存在。しかし今、目の前に立つその姿は、あの時とは違った。右膝が壊れていた。服が汚れていた。髪が乱れていた。

「……ジャムおじさんと一緒にいた人だ」

カバオが静かに言った。

「でも、追ってきたわけじゃないと思う。追ってくるなら、もっと早く来てた」

ばいきんまんが一瞬だけカバオを見て、また視線を戻した。

「話せ」

 

バタコは外部記録媒体を取り出した。

「これを、持ってきました」

「何だ」

「三つのファイルが入っています。一つ目は、マザーサーバーへの直接アクセスルート、バックドアの仕様書です。ジャムがシステム設計段階から組み込んでいた、誰も知らない侵入経路です」

ばいきんまんの目が細くなった。

「そのファイル自体が罠かもしれねぇ」

 

「その可能性は否定できません」バタコは静かに答えた。

「ですが、最後のファイルだけは見てください」

 

「最後?」

 

「あなたが作った、自律電撃型兵器の音声記録です」

 

ばいきんまんは外部記録媒体をもぎ取るようにして受け取り、コンソールに叩きつけるように繋いだ。

震える指で、音声ファイルを開く。

 

【「ぱぱ……」】

 

ノイズ混じりの、しかし紛れもないあの子供の声が、シェルターに静かに響いた。

ばいきんまんの手から、レンチが床に甲高い音を立てて落ちた。

 

ドキンがたまらず顔を背け、カバオが深く目を伏せた。

ばいきんまんは、微動だにしなかった。ただ、その声が終わった後も、呼吸を忘れたようにコンソールを見つめ続けている。ディスプレイの光に照らされた彼の横顔が、激しく、痛々しいほどに戦慄(わなな)いていた。

 

「……なんで、お前がこれを持っている」

「消去されるはずのバグデータでした。ですが、私は……」

バタコは言葉を絞り出すまでに、少し時間がかかった。人工皮膚の奥にある何かが、きしむ音を立てていた。

「消去されたものを、最初からなかったことには、したくなかったからです」

 

しばらくの沈黙の後、ドキンが口を開いた。

顔は背けたまま、しかし声は、酷く静かだった。

「……名前は」

「バタコ、です」

「バタコ」

ドキンはゆっくりと振り返った。その目が、バタコを正面からじっと見据えた。

汚れた服。油まみれの壊れた膝。乱れた髪。ジャムの操り人形ではない、一人の裏切り者の姿を。

「……バタコさん、ね」

「さん、は不要です。私はただの管理個体――」

「あたしが決めることよ」

ドキンはそれだけ言って、また視線を逸らした。しかしその声の温度は、完全に変わっていた。

バタコは、「バタコさん」という呼ばれ方を処理する言葉を持たなかった。ドームの冷たいマザーサーバーからは、一度も与えられたことのない、個としての、生命としての敬称。

ただ、胸の奥の処理回路が、静かに、しかし二度と消えない深いログを刻んでいた。

 

ばいきんまんはノイズを振り払うように立ち上がり、バックドアの仕様書をホロテーブルに展開した。

「……本物か」

「本物です。私がシステムを直接調査して、マザーの目を盗んでサルベージしました」

ばいきんまんはしばらく沈黙した。

ばいきんまんは黙ったままカバオを見た。

「……お前はどう思う」

「信用できるかは分からないよ。でも、話くらいは聞いてもいいと思う」

ばいきんまんは小さく鼻を鳴らした。

しかし、床に落ちていたレンチを力強く拾い上げ、設計図の前に戻りながら、ばいきんまんは言った。 

「バタコ。お前に聞きたいことがある。……ジャムの野郎は今、何をしてやがる」

 

バタコは表情を変えずに答えた。

「パン工場の最深部、地下第四層――聖体炉(せいたいろ)の真下で、マザーサーバーに『直接接続(ダイレクト・リンク)』しています」

「直接接続だと?」

ばいきんまんの目が、ぎらりと狂気的に細くなった。

 

「はい。ジャムおじさんの脳そのものが、ドーム全域の管理権限、そして防衛システムを制御する『メインプロセッサ』として機能しています。……彼自身が、システムの心臓です。ジャムおじさんをマザーから引き剥がすか、あるいは脳死させれば、ドームのシステムは完全に沈黙します」

 

ばいきんまんは低く、愉しげに笑った。

「なるほど。ついに人間をやめて、ただの機械の部品になりやがったのか。……」

ばいきんまんは経路図を広げた。もぐりんの侵入ルートと、バックドアの仕様書、そしてジャムの座している座標を重ね合わせる。

「……二つを合わせれば、届く」

独り言のような呟きだった。しかしその声には、確かな殺意と、勝利への確信があった。

 

カバオがもぐりんの側に立ち、その外殻に手を当てた。

るんるんが、彼の体温に応えるように微かに波打つ。

ドキンは壁に背中を預け、静かに腕を組んでいた。

バタコは誰にも言われないまま、ホロテーブルの空いた席へ歩いた。誰も止めなかった。

 

重油と土、そして機械の匂いが充満した狭い空間に、初めて「四人」の息遣いが満ちていた。

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