世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
シェルター。深夜。
ばいきんまんがホロテーブルにバックドアの仕様書を展開し、チーズの設計図と侵入ルートを照らし合わせていた。バタコが隣に立ち、ジャムのシステムの内側の知識を補足していく。
「マザーサーバーへの直接アクセスは、パン工場の地下第四層から可能です。バックドアの入口は、聖体炉の真下、熱供給網の中心部にあります」
「中心部周辺の防衛システムはどうなっている?」
「チーズが配置されている可能性が高いです。通常形態では半径五十メートルの精神スキャンと嗅覚センサーが作動しています。しかし……」
「しかし?」
「もぐりんで地中から侵入すれば、チーズのセンサーが反応するより先に聖体炉の直下へ到達できます。地中では土と岩盤が巨大なノイズになり、精神スキャンを遮断します」
ばいきんまんは設計図を見つめた。
「……お前、これを事前に計算していたのか」
「ドームを出る前に、侵入経路の可能性をすべて洗い出していました」
ばいきんまんは鼻を鳴らした。
「使える頭をしてるじゃないか」
それがばいきんまんなりの最大の賛辞だということを、バタコはまだ知らなかった。
準備が始まった。
カバオはもぐりんの外殻に両手を当て、目を閉じた。るんるんの声が頭の奥に広がっていく。地層の感触が皮膚のように伝わってくる。どこを掘ればいいか、どこに硬い岩盤があるか、どこに水脈が走っているか。もぐりんを通じて、地面全体が自分の身体になっていくような感覚だった。
ドキンは武装を整えていた。ばいきんまんが設計した携帯型バイキ・ウェブの射出装置、電撃グローブ、煙幕弾。慣れない手つきで確認しながら、装備を身につけていく。
バタコはシステムの侵入手順を整理していた。バックドアへのアクセスコード、マザーサーバーへの注入データの順序、緊急時の退路。一つ一つを、静かに確認していく。
ばいきんまんは設計図の最終確認をしていた。もぐりんの侵入角度、聖体炉の直下への到達時間、バックドアの起動タイミング。鉛筆を走らせる手が、久しぶりに迷わなかった。
誰も言葉を発しなかった。しかし四人の動きは、完全に同じ方向を向いていた。
深夜。準備が一段落した頃、カバオは水路のある区画に一人で向かっていた。
るんるんの声が、ここが一番よく聞こえる。
壁面に広がる青黒い群体に手を伸ばした。るんるんが集まってくる。
「明日、行くよ」
言葉ではない。しかし意味は伝わった気がした。
るんるんが静かにざわめいた。
『……ルン……』
カバオはしばらく、その声を聞いていた。
ドームの外に出た夜、荒野を歩き、バイキン城の残骸を見た。あの夜からずっと、自分が何のために戦うのか、はっきり言葉にできなかった。
しかし、目を閉じれば思い出す。あの暗闇の奥で見つけた、名もなき子供の身長の記録。誰かが誰かを愛して、育てて、泥にまみれて生きていた、あの不完全な椅子の温もりを。
ジャムのいない世界は汚いかもしれない。だけど、あれを嘘なんかで終わらせたくない。
「……行こう、カバオ」
るんるんが、静かに、しかし力強く応えた。
その頃、ドキンはすでに疲れて眠っていた。
ばいきんまんは、まだ設計図の前にいた。バタコも、隅でデータの確認を続けている。
しばらく、二人だけの静寂が続いた。
「バタコ」
「はい」
「お前は、これが終わったらどうするつもりだ」
バタコは手を止めた。
ドームには戻れない。バックドアの仕様書を盗み出した時から、自分の行く先については、考えないようにしていた。
「……分かりません」
ばいきんまんは設計図から目を上げなかった。
「そうか」
それだけ言って、また設計図に戻った。
長い沈黙が続いた。
「……ばいきんまん」
「なんだ」
「あなたは、なぜ戦うのですか。ジャムのシステムを壊しても、あなたには何も残らない。住処も、巨大な兵器も、あのロボットも失ったのに」
ばいきんまんは少し間を置いた。
「俺様が始めたことだからだ」
「それだけですか」
「それだけじゃない」
ばいきんまんは設計図を置き、天井を見上げた。
「都合良く消されないために、汚いまま、残したいんだ。俺様たちが生きた証を。あいつの冷たいログに、エラー消去の一行で片付けられたくない」
バタコは、その言葉を静かに処理した。長い時間をかけて。
「……私の処理回路に、長期間解決できないバグが蓄積していました。その原因が、今、特定できました」
ばいきんまんが初めて、バタコの方を見た。
「あ?」
「消去されたものは、最初から存在しなかったことにする。それがジャムのシステムの定義です。ですが……私のメモリの底には、あなたたちの生きた泥臭さが、どうしても消えずに残っていた。システムが『ゼロ』だと叫ぶものを、私の回路は『確かにある』と処理してしまっていた。それが、私のエラーでした」
ばいきんまんは少し間を置いた。そして、不敵に鼻を鳴らした。
「まあ、生き残ればその時考えればいい」
それがばいきんまんなりの「仲間として受け入れた」という宣言だということを、バタコは、なんとなく理解した。
夜明け前。
四人がもぐりんの前に立っていた。
ばいきんまんが腕を組み、もぐりんの巨体を見上げた。カバオがもぐりんの外殻に手を当てた。るんるんが静かに応える。青黒い菌糸が淡く光を帯びた。
ドキンが武装を確かめながら、少し離れた場所に立つ。
バタコが、四人の中で一番端に立っていた。
誰も、余計なことは言わなかった。
ばいきんまんが一度だけ、全員を見渡した。
「行くぞ」
カバオがもぐりんに両手を強く押し当てた。
鼓動が繋がる。
凄まじい駆動音とともに、巨大なドリルが回転を始めた。るんるんの腐食液が滴り、地底の岩盤をドロドロと溶かし始める。
名もなき地底の獣――もぐりんが、神の喉元を食い破るために、闇の奥へと潜り始めた。