世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録   作:ルーズベルト(-5㎏)

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32. 防衛プロトコル・phase3

パン工場・内部。

バタコが脱出してから数十時間が経過していた。工場内には1ミリの動揺も、感傷も残っていない。

 

カチ、カチ、カチ……。

深夜の静寂の中、工場の自動ドアが開き、白い猟犬――チーズが足を引きずりながら入ってきた。

その白い人工皮膚は荒野の砂塵で薄汚れており、超高感度センサーが埋め込まれた鼻腔からは、バイキン城の煤煙と重油のノイズを浴びたことによる過負荷(オーバーフロー)の微弱な火花がパチパチと弾けている。

追跡の失敗。それが、神の猟犬が持ち帰った唯一のデータだった。

 

「……戻ったか、チーズ」

工場の奥から、ジャムの声が抑揚なく響く。

ジャムの首の後ろからは、無数の青白い光ファイバーが壁のマザーサーバーへと直接繋がっており、血管のように激しく明滅していた。ジャムの網膜に、チーズが持ち帰った追跡ログが走査される。

 

【防衛プロトコル・コード『チーズ』:追跡結果】

【外界特定座標(旧バイキン城跡地)における深刻な情報過多(電磁・生体ノイズ)を検知】

【スキャン飽和率:100% 対象個体:見失い(ロスト)】

 

ジャムはアクリル球の瞳を僅かに細めた。

「外界の不純物に対応しきれなかったのか」

バタコが死んだか、あるいは外界の泥に紛れて機能停止したか。どちらにせよ、ドームのシステムにとって、彼女はもう「存在しないノイズ」でしかなかった。

ジャムは淡々と、マザーサーバーに直結した生体脳で、ひとつの「エラー個体の処理」を実行する。

 

ジャムの思考領域に、隔離されていた古いシステム仕様書が展開された。

 

【個体識別:B.A.T.A.C.O.】

(Ballistic Assistance & Tactical Administration Control Operator)

【ステータス:無許可の領域離脱。精神波形異常。エラー定義:完全登録抹消(デリート)】

 

画面の最下層には、数十年前、ジャム自身が書き込んだ開発当時の冷徹な仕様が残っていた。

 

――初期戦闘ユニット(0号機)の廃棄完了。失敗原因:過剰な自我。

――対策:主戦闘ユニットの次世代型(アンパンマン)からは自律性を完全排除。同時に、状況対応能力の低下を防ぐため、外部に『限定的自我を持つ補助知能』を配置。

 

住民たちは、彼女をただ一人の温かい人間だと思っていた。

だが、その本質は違う。

彼女は、暴走する可能性のある戦闘ユニットを外側から手懐け、精神を監視し、戦術を演算・補助するためだけに設計された、ジャムシステムの外部端末――『運用補助脳』に過ぎない。

 

「摩耗したパーツだ。執着する必要はない」

ジャムの指が、空間に浮かぶ[消去]の文字を冷酷に押し潰した。

 

【プロトコル:B.A.T.A.C.O. の全権限を凍結】

 

画面がパッと切り替わり、格納庫の暗闇で、すべての記憶を初期化(リセット)された新しいアンパンマンの頭部が、アクリル球の目をカチリと光らせて出撃の合図を待つ。

 

「しかし、エラーの残滓をドーム内に引き込むわけにはいかない」

ジャムは淡々とマザーサーバーへ新たなコマンドを打ち込んでいく。その声には何の感情の起伏もなく、ただルーティンワークをこなすように冷ややかだった。

「防衛プロトコル・フェーズ3へ移行」

 

【地上領域:個体名『ショクパン』による通常巡回を継続】

【パン工場周辺:個体名『カレーパン』を内縁防衛線として配置】

【地下領域:コード『チーズ』、地下第四層へ移行。地中ノイズの走査(スキャン)を開始】

 

「……行きなさい、チーズ」

ジャムが直結コードを明滅させると、エラーを起こしていたチーズのプロセッサが強制リブートされた。

チーズの細い首の皮膚が、ピキピキと乾いた音を立てて裂けていく。

白い人工皮膚の下から、鈍色に光るチタン合金の頸椎(けいつい)フレームがゆっくりと露出した。

 

尻尾が止まる。

呼吸のように上下していた胸郭も止まる。

 

それまで動物を模していた細かな仕草が、一つ残らず消え失せた。

代わりに現れたのは、ただ命令を遂行するためだけに作られた機械だった。

アクリル球のような黒い瞳が、ゆっくりと赤く染まっていく。

暗闇の中で二つの紅い光点だけが静かに灯った。

 

【PHASE 3 ONLINE】

【TARGET:ERROR SOURCE】

【PRIORITY:EXTERMINATION】

 

内部プロセッサの起動音が、低く喉の奥で唸る。

ジャムは微かに頷く。

 

「この世界に、不要なノイズを残してはいけない」

 

チーズは短く唸った。

 

次の瞬間、その姿が掻き消える。

白い残像だけを残して、地下第四層へ続くシャフトへと飛び込んだ。

 

ガシャン。

遠く下で金属音が反響する。その音もすぐに闇へ吸い込まれた。

ジャムはしばらくその穴を見つめていた。

 

しかし、何の感慨も浮かべない。

ただ一つの処理が正常に実行されたことを確認するように、視線をマザーサーバーへ戻した。

青白い光ファイバーが脈動する。防衛プロトコル・フェーズ3。

 

猟犬は放たれた。

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