世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
パン工場・内部。
バタコが脱出してから数十時間が経過していた。工場内には1ミリの動揺も、感傷も残っていない。
カチ、カチ、カチ……。
深夜の静寂の中、工場の自動ドアが開き、白い猟犬――チーズが足を引きずりながら入ってきた。
その白い人工皮膚は荒野の砂塵で薄汚れており、超高感度センサーが埋め込まれた鼻腔からは、バイキン城の煤煙と重油のノイズを浴びたことによる
追跡の失敗。それが、神の猟犬が持ち帰った唯一のデータだった。
「……戻ったか、チーズ」
工場の奥から、ジャムの声が抑揚なく響く。
ジャムの首の後ろからは、無数の青白い光ファイバーが壁のマザーサーバーへと直接繋がっており、血管のように激しく明滅していた。ジャムの網膜に、チーズが持ち帰った追跡ログが走査される。
【防衛プロトコル・コード『チーズ』:追跡結果】
【外界特定座標(旧バイキン城跡地)における深刻な情報過多(電磁・生体ノイズ)を検知】
【スキャン飽和率:100% 対象個体:
ジャムはアクリル球の瞳を僅かに細めた。
「外界の不純物に対応しきれなかったのか」
バタコが死んだか、あるいは外界の泥に紛れて機能停止したか。どちらにせよ、ドームのシステムにとって、彼女はもう「存在しないノイズ」でしかなかった。
ジャムは淡々と、マザーサーバーに直結した生体脳で、ひとつの「エラー個体の処理」を実行する。
ジャムの思考領域に、隔離されていた古いシステム仕様書が展開された。
【個体識別:B.A.T.A.C.O.】
(Ballistic Assistance & Tactical Administration Control Operator)
【ステータス:無許可の領域離脱。精神波形異常。エラー定義:
画面の最下層には、数十年前、ジャム自身が書き込んだ開発当時の冷徹な仕様が残っていた。
――初期戦闘ユニット(0号機)の廃棄完了。失敗原因:過剰な自我。
――対策:主戦闘ユニットの次世代型(アンパンマン)からは自律性を完全排除。同時に、状況対応能力の低下を防ぐため、外部に『限定的自我を持つ補助知能』を配置。
住民たちは、彼女をただ一人の温かい人間だと思っていた。
だが、その本質は違う。
彼女は、暴走する可能性のある戦闘ユニットを外側から手懐け、精神を監視し、戦術を演算・補助するためだけに設計された、ジャムシステムの外部端末――『運用補助脳』に過ぎない。
「摩耗したパーツだ。執着する必要はない」
ジャムの指が、空間に浮かぶ[消去]の文字を冷酷に押し潰した。
【プロトコル:B.A.T.A.C.O. の全権限を凍結】
画面がパッと切り替わり、格納庫の暗闇で、すべての記憶を
「しかし、エラーの残滓をドーム内に引き込むわけにはいかない」
ジャムは淡々とマザーサーバーへ新たなコマンドを打ち込んでいく。その声には何の感情の起伏もなく、ただルーティンワークをこなすように冷ややかだった。
「防衛プロトコル・フェーズ3へ移行」
【地上領域:個体名『ショクパン』による通常巡回を継続】
【パン工場周辺:個体名『カレーパン』を内縁防衛線として配置】
【地下領域:コード『チーズ』、地下第四層へ移行。地中ノイズの走査(スキャン)を開始】
「……行きなさい、チーズ」
ジャムが直結コードを明滅させると、エラーを起こしていたチーズのプロセッサが強制リブートされた。
チーズの細い首の皮膚が、ピキピキと乾いた音を立てて裂けていく。
白い人工皮膚の下から、鈍色に光るチタン合金の
尻尾が止まる。
呼吸のように上下していた胸郭も止まる。
それまで動物を模していた細かな仕草が、一つ残らず消え失せた。
代わりに現れたのは、ただ命令を遂行するためだけに作られた機械だった。
アクリル球のような黒い瞳が、ゆっくりと赤く染まっていく。
暗闇の中で二つの紅い光点だけが静かに灯った。
【PHASE 3 ONLINE】
【TARGET:ERROR SOURCE】
【PRIORITY:EXTERMINATION】
内部プロセッサの起動音が、低く喉の奥で唸る。
ジャムは微かに頷く。
「この世界に、不要なノイズを残してはいけない」
チーズは短く唸った。
次の瞬間、その姿が掻き消える。
白い残像だけを残して、地下第四層へ続くシャフトへと飛び込んだ。
ガシャン。
遠く下で金属音が反響する。その音もすぐに闇へ吸い込まれた。
ジャムはしばらくその穴を見つめていた。
しかし、何の感慨も浮かべない。
ただ一つの処理が正常に実行されたことを確認するように、視線をマザーサーバーへ戻した。
青白い光ファイバーが脈動する。防衛プロトコル・フェーズ3。
猟犬は放たれた。