世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
「ギ、ギギ……ガガガガガガッ!!」
地底の泥に叩きつけられた神の猟犬は、狂った機械のように四肢を痙攣させながらも、不気味な動作で再び立ち上がった。
ドキンの電撃で焼き切られた右の頭部は、黒い重油を吹き流しながらダラリと項垂(うなだ)れている。しかし、動きは止まらない。むしろ、残された二つの頭部のアクリル球が、網膜を焼き切らんばかりの、禍々しい「赤」へと輝きを増していく。
その異様な挙動を見た瞬間、バタコの全身の処理回路が恐怖で凍りついた。彼女はそのモード(状態)の恐ろしさを、誰よりも熟知していた。
「……『最終防衛モード』です」
「おいおい、まだ変身を残してやがるのかよ!?」
ばいきんまんが灼けたレバーを掴んだまま歯を剥き出す。
「違います」
バタコの声が震えていた。
「では、何だ」
「――破壊を、許可された状態です」
ジャムは、彼らの地下侵入を確信したのだ。それゆえに、地上での擬態用リミッターをすべて解除した。周辺の地層の崩落も、ドームの構造的被害も一切無視。ただ目の前の「不純物」を全力で、細胞一つ残さず殲滅するためだけに、神の猟犬は再起動したのだ。
「グルルルルルルルルルルッ――!!」
チーズの二つの顎が限界まで開き、地底の空間全体を震わせるほどの精神スキャン波が最大出力で放たれた。
「あガ、あ、あああああああッ!!」
操縦桿を握るカバオの口から、どっと血が吐き出された。脳細胞が直接沸騰するような精神攻撃。るんるんとの生体接続がブツブツと音を立てて千切れ始め、もぐりんの主機が沈黙する。
ドリルが完全に停止した。完全に退路も進路も断たれ、四人は暗黒の地底で圧殺されるのを待つのみとなった。
(ここまで……なのか……)
バタコは、激しいノイズを発するモニターを見つめた。その時、彼女の優秀な演算回路が、チーズから放たれる無数の認識信号の中に、奇妙な「残滓(ざんし)」を捉えた。
――『B.A.T.A.C.O.』
バタコは息を呑んだ。
ジャムは確かに、ドームのマザーサーバーから彼女の個体識別コードを完全に消去(デリート)した。しかし、目の前にいるチーズは、前線で単独運用される自律兵器だ。ジャムの更新命令は、この地下第四層の深い遮蔽ノイズのせいで、チーズの「最深部(ルート)プロトコル」にまで完全には同期していなかった。
中央サーバーの「管理個体バタコ」は死んだ。
だが、このチーズというシステムには「管理者認証キー」が、焼き付いたまま残っている。
バタコは静かにシートベルトを外した。そして、一歩前へ出る。
「ばいきんまん。ハッチを開けてください」
コックピット内の全員の動きが止まった。
「お前、正気か! 外はあいつの精神スキャンの嵐だぞ! 出たら脳が消し飛んで死ぬぞ!」
「その可能性は極めて高いです。ですが…」
バタコはまっすぐにハッチへ歩みを進める。
その細い腕を、ガシィッ、と強い力で掴む者がいた。
ドキンだった。
泥と汗にまみれた手で、バタコの衣服を強く握りしめ、彼女は顔を伏せたまま絞り出すように言った。
「……バカじゃないの」
その一言が、バタコの胸の奥に、かつてない強烈な電気信号(パルス)を走らせた。
以前の自分なら、ただの「管理個体」であり、「外部端末」であり、「ジャムシステムの一部」だった。誰も自分を人間としては見ていなかった。だが今、目の前で悔しそうに顔を歪めている少女は、私のことをシステムではなく、命を持った「仲間」として、一人の人間として引き止めている。
バタコは、少しだけあたたかく微笑んだ。
「ありがとうございます。……行ってきます」
プシューッ。
手動レバーにより、もぐりんの上部ハッチがゆっくりと開く。
地底の暗黒。赤く燃え盛るケルベロスの巨体が、すぐ目の前にあった。
バタコはハッチから半身を乗り出し、暴風のような精神スキャンの渦中へと身を晒した。脳が割れるような激痛の中、彼女はアクリル球の瞳をまっすぐに向け、凛とした声で告げた。
「――コード認証」
ピタリ、とチーズの動きが止まった。
激しく蠢いていた三つの首が、一斉にバタコへと向く。
「管理個体識別。……私は、ここにいます」
『認識――管理個体:B.A.T.A.C.O.……認証成功(サクセス)』
もぐりんのコックピット内で、ばいきんまん達が目を見開く。
しかし次の瞬間、チーズのシステム内で致命的なバグが炸裂した。マザーサーバーから遅れて届いた「消去命令」と、今目の前で行われた「物理認証」が、チーズの処理脳内で激しく衝突したのだ。
『エラー:対象は存在しません』
『認証:対象の識別コードを確認しました』
『エラー:存在しないノイズです』
『認証:管理個体は存在します』
【認証エラー / 認証成功 / 認証エラー / 認証成功】
チーズの網膜の中で、相反する二つの命令が秒間数億回という速度でループし、システム競合を引き起こす。「エラー個体」でありながら「管理個体」。「存在する」と同時に「存在しない」。
それは、バグを許さず、漂白によってすべてを無かったことにしようとする、ジャムの思想そのものが生んだ論理矛盾だった。
激しく火花を散らし、痙攣するチーズを見つめながら、バタコは静かに、しかし断固として言い放った。
「私はここにいます。あなたたちがどれだけ消したくても、私たちは、確かにこの世界に存在していました」
「ギ、ガガガガ、ギギギギギギギギガガガガガアアアアアッ!!」
プロセッサ過負荷(オーバーフロー)。
精神スキャン波が制御を失って暴走し、チーズ自身の脳細胞を内側から焼き切り始める。神の猟犬は、自身の生み出した矛盾の檻の中で、完全に処理不能に陥った。
「――今だ、カバオッ!!!!! ぶち抜けぇッ!!」
コックピット内でばいきんまんの怒号が轟く。
「うおおおあああ弾けろぉぉおッ!!」
精神攻撃から解放されたカバオが、血の涙を拭いもせず、操縦桿を限界まで押し込んだ。るんるんの青黒い光が激しく明滅し、もぐりんの主機が爆発的な咆哮を上げる。
ゴオオオオオオオオオオオッ!!!
完全再起動した漆黒の巨大ドリルが、臨界点を超えた超高速回転で地層を噛み砕く。
もぐりんはフリーズしたチーズの巨体を強引に踏み越え、崩落する岩盤を巻き込みながら、目的地の「地下第四層」の鉄の床へと、弾丸のように突入した。
背後では、崩れ落ちる無数の巨石と泥の底へと、狂った神の猟犬が静かに呑み込まれ、圧殺されて消えていった。
ハッチが閉まり、もぐりんの内部に、にわかに静寂が戻る。
ジジ、ジジ……と、焼き切れた計器だけが虚しく音を立てていた。
バタコは、ふらつく足取りで一歩ずつ歩き、自身のオペレーター席へと戻り、深く腰掛けた。その手は細かく震えている。
静まり返る車内。
ばいきんまんが、コンソールに背を向けたまま、ぽつりと口を開いた。
「……お前、本当にもう、あのシステムから消されてたのか?」
「はい」
バタコは静かに答えた。
「私のデータは、もうドームのどこにもありません。私は、ただの不純物です」
重苦しい沈黙が、コックピットを支配する。
その沈黙を破ったのは、シートベルトをきつく握りしめたまま、まだ涙目の残るドキンちゃんだった。
「……だったら、なおさらよ」
ドキンちゃんはバタコを振り返り、その人間としての、あたたかい瞳をまっすぐに見つめて言った。
「行きましょ。――バタコさん」
凍結されていた侵入プロセスが、ゆっくりと動き始める。