世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ……ッ!!!
地下第四層の最果て。ドームの心臓部を守る聖体炉の巨大な鋼鉄の二重扉が、完全に左右へと開ききった。
そのわずかな隙間から、地底の熱風を押し戻すようにして、未知の「大気」がどっと回廊へと流れ込んでくる。
それは甘い匂いだった。
だが、空腹を誘う匂いではない。腐った果実と膨張した酵母が混ざり合ったような、死体のように甘い臭気。
「……なによ、この臭い」
ドキンは思わず口元を強く押さえ、激しく顔をしかめた。
操縦桿を握るカバオも、内臓を直接弄られたような悪寒に青ざめ、ガチガチと歯を鳴らす。
「パンの匂い、だよな……? ぼくたちの知ってる、あの……」
ばいきんまんも強烈な吐き気に唇を噛む中、バタコだけが、その場に縫い付けられたように完全に凍りついていた。
彼女はその匂いを、魂の摩耗したプロトコルの一番深い場所で、知っていた。
「アンパンマン製造ライン特有の匂いです……」
かつて彼女がジャムの傍らで管理していた、あの呪われた培養液の匂いそのものだった。
開け放たれた鋼鉄の扉の向こう側――そこには、悪夢のような工場が広がっていた。
見渡す限りの巨大な培養槽、そして緑色に妖しく発光する結晶プール。その粘度の高い暗液の表面に、『それ』はあった。
プツプツと泡立つ緑の液体の中から、浮かび、沈み。
また別の場所から、浮かび、沈む。
何百。何千。何万。
すべてが寸分の狂いもない同じ形、同じ色彩。すべてが、あの機械的な、張り付いたような笑顔を浮かべた『アンパンマンの顔』だった。
――ぐちゅり。
――ぐちゅり。
湿った音を立てて、剥き出しの頭部が液面を隙間なく埋め尽くしていた。
粘着質な培養液を滴らせながら、結晶プールの縁へ、一本の白い手首がかけられた。
ずずる、と這い上がってきたその体躯は、衣服のシワに至るまで、かつて地上を支配していたアンパンマンと完全に一致していた。だが、その瞳だけが違っていた。細い三日月の形をした両目は、感情のハイライトを一切失い、ただ血のような真紅に発光している。
量産型最初の一個体が、もぐりんのフロントガラスのすぐ目の前で、コク、と、不自然な角度に首を傾げた。
固定され、ピクリとも崩れない笑みの奥から、どこまでも優しく、どこまでも平坦な聲音が漏れ出る。
「――お腹が、すいたんだね」
世界からあらゆる音が消え去った。
量産型は、自身の顔の右半分に、迷いのない手つきで指先を突き立てた。ミチミチ、ベキィ、と濡れたパン生地が引きちぎられる悍ましい音が、フロントガラス越しに生々しく伝わってくる。
断面からは、血の代わりにどろりとした黄金色の餡が溢れ、床へボタボタと滴り落ちた。
「僕の顔をお食べ」
誰も動けなかった。
その一瞬の静寂を引き裂くように、結晶プールの緑の粘液が一斉に、激しく泡立った。
ズブブブブブブッ、と。
さらに十体、続いて百体。闇を割って立ち上がった無数の影が一斉にカバオへと赤い眼光を向けた。
それに続くように、無数の白い腕が、自身の顔へと一斉に伸びた。
寸分違わぬタイミングで、重なり合う不気味な残響(ディレイ)となって唇が開く。
「「「お腹が、すいたんだね」」」
「「「「「僕の顔をお食べ」」」」」
そして、ついに培養槽そのものが巨大な一つの喉となって発声した。ドームの全システムによる、狂気の大合唱(コーラス)。
「「「「「「「「「「お腹が、すいたんだね」」」」」」」」」」
「「「「「「「「「 race 僕の顔をお食べ 」」」」」」」」」
ズガガガガガガガガガガガガガッ!!!
地下第四層の空間そのものが、物理的な音圧の暴力によって激しく共振を始めた。もぐりんの超硬質ガラスがミシミシと悲鳴を上げてひび割れ、カバオは耳を血で染めながら、狂ったように頭を抱えて絶叫した。
量産型たちは、もぐりんに向かって牙を剥くことも、拳を振り上げることもなかった。
ただ、引きちぎった自身の顔の肉を両手に捧げ、穏やかな笑顔のまま、津波のように押し寄せてくる。
「食べて」
「助けるよ」
「みんな、僕たちと同じになろう」
そこには、純粋な善意しかなかった。害意も、悪意も、殺意すらもない。
しかし、差し出されたその『顔の肉』がもぐりんのフロント装甲や、周囲の岩盤に触れた瞬間――じゅぶじゅぶと音を立てて、世界が発酵を始めた。
強固なチタン合金が、太古の岩肌が、みるみるうちに白く膨張し、生命の通わない、巨大な『白いパン生地』へと変質していく。
「装甲が……パンに、変わっていく……!?」ばいきんまんが戦慄の声を上げる。
「……食べたら、取り込まれるんだ」カバオがガチガチと震えながら呟いた。「救済なんかじゃない……これは、強制的な『同化』だ……!」
(……ああ、そういうことだったんだ、ジャム)
もぐりんが白いパン生地の津波に侵食され、逃げ場を失っていく絶望の最中、バタコの脳裏で、ジャムの描いた恐るべき
かつて、最初に作られた試作機――『0号機』。
彼は、守るべき人間のために本気で迷い、涙を流す「感情」を持っていたがゆえに、エラーとして抹消された。
次にジャムが投じたのは、私が日々管理していた『単体運用型』。0号機のように自我が定着するのを防ぐため、あえて定期的に「顔の換装」を行うことで、記憶と感情のノイズを強制リセットし続けていたのだ。
そして今、目の前で迫り来るのは、そのプロセスの
もはや
ザッ。
その時、量産型の津波の背後で、しょくぱんまんとカレーパンマンの二人が動いた。
ショクパンマンは何も言わない。カレーパンマンも笑わない。
二人はただ、静かに脇へ退いた。まるで、絶対的な王の御前に道を開ける、忠実な騎士のように。
それだけで、カバオの背筋を冷たいものが走った。
世界を漂白し、焼き尽くすはずだったあの最強の怪物たちですら、この地獄においては、ただの"従う側"に過ぎないのだ。
二人が開けた道の向こう――巨大な培養槽の最深部、緑の光の奥から、さらに巨大な、空間そのものを圧殺するような漆黒の影が、ゆっくりと身を起こすのが見えた。
同時に、天井の全スピーカーから、ジャムの冷徹なシステム音声が非情に告げる。
『――量産型第一群、投入開始』
ドォォォォォォォォォン!!!
アナウンスの終了と同時に、結晶プールが決壊した。
数万体の量産型アンパンマンが、もぐりんに向かって牙を剥くことも、拳を振り上げることもなく――ただ、引きちぎった自身の顔の肉を両手に捧げ、穏やかな笑顔のまま、濁流となって一斉に押し寄せてくる。
「食べて」
「助けるよ」
「みんな、僕たちと同じになろう」
そこには、純粋な善意しかなかった。害意も、悪意も、殺意すらもない。
しかし、迫り来るその『顔の肉』の津波がもぐりんのフロント装甲や、周囲の岩盤に触れた瞬間――じゅぶじゅぶと音を立てて、世界が発酵を始めた。
強固なチタン合金が、太古の岩肌が、みるみるうちに白く膨張し、生命の通わない、巨大な『白いパン生地』へと変質していく。
「装甲が……パンに、変わっていく……!?」ばいきんまんが戦慄の声を上げる。
「……食べたら、取り込まれるんだ」カバオがガチガチと震えながら呟いた。「救済なんかじゃない……これは、強制的な『同化』だ……!」
逃げ場はない。後方は崩落した泥の壁。
もぐりんの足元も、外殻も、すべてが狂気的な善意のパン生地に呑み込まれ、均一なる秩序へと強制同化されていく。