世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
「さあ、みなさん。今日も優しくて偉大なジャムおじさんに、心からの『ありがとう』を」
みみせんせいの、鈴を転がすような明るいソプラノボイスが、真っ白な教室に響き渡る。
黒板には、お馴染みのあの温和な髭の老人の似顔絵と、その横で元気いっぱいに空を飛ぶパンのヒーローのイラストが、カラフルなチョークで描かれていた。教科書には、外の世界がいかに恐ろしい暗闇に満ちているか、そしてこの街がいかにジャムおじさんの優しさによって守られているかが、優しい絵本のようなタッチで綴られている。
「ジャムおじさんが毎日、心を込めて美味しいパンを焼いてくださるから、私たちは病気もせず、お腹をすかせることもなく、こうして毎日仲良く元気に過ごせるのです。はい、ちびぞう君」
「はい、みみせんせい!」
指名されたちびぞうが、元気よく席を立った。その顔には、一点の曇りもない完璧な「笑顔」が張り付いている。
「僕、ジャムおじさんのパンが大好きだぞう! 毎日決まった時間に、いつでも美味しいパンが食べられるから、何も怖いことはないぞう。アンパンマンが悪いバイキンを全部やっつけてくれるから、僕たちはただ、安心してニコニコ笑っていればいいんだって、パパもママも言っていたぞう!」
「よくできました、ちびぞう君。みんなで仲良く、いつでも笑顔でいること。それが、ジャムおじさんへの一番の恩返しですね」
みみせんせいが満足そうに微笑み、優しく手を叩いた。
それを合図に、教卓の上のカゴから、湯気を立てた「真っ白で、ふっくらとした丸いパン」が全員のデスクへと配られていく。
ウサ子も、ピョン吉も、嬉しそうに両手でパンを掲げ、一斉に口へと運んでいく。モグ、モグ、とパンを咀嚼する音が、まるで時計の針の音のように正確に教室の中で重なり合っていた。彼らの瞳には、何の迷いも、何の不満もない。ただ、与えられた幸福を無心に受け入れる、純粋な安寧だけがあった。
――グウゥゥゥ、と。
その美しい調和を汚すように、教室の隅から、おぞましい内臓の軋み音が鳴り響いた。
カバオは、一番後ろの席で、灰色の肥大した身体を机に押し付けるようにして丸めていた。
服の隙間から覗く脇腹が、激しい空腹のあまり引き付けを起こしたように痙攣している。
(足りない……。全然, 足りないよ……ッ)
カバオの持つ「カバ」の肉体は、この配給社会において、ただの厄介なエラーでしかなかった。全員に等しく配られる「正しい一人分」は、この大きすぎる身体を満たすには遠く届かない。そしてそれはおそらく、パンに含まれる「何か」も、同じことだった。
全員に一律で配られる「優しくて正しい量」のパンでは、彼の燃費の悪い、大きな身体を維持するためのエネルギーに、どうしても届かないのだ。しかし、この街に「おかわり」という概念は存在しない。みんな、同じ量を食べ、同じように満足して笑顔を浮かべなければならない。
喉の奥から、胃液がせり上がってくる。
けれど、カバオを何より苦しめていたのは、胃の痛みだけではなかった。
周囲の生徒たちが発する、あまりにも健康的で、あまりにも全肯定に満ちた「幸福の空気」に対する、生理的嫌悪感だった。
ウサ子が、ちびぞうが、一瞬の疑いもなくアンパンマンを称え、人形のように全く同じタイミングで首を傾げて笑い合っている。その光景が、カバオの目には、何かの不気味な儀式のように見えて仕方がなかった。
誰も飢えない、誰も傷つかない、優しい世界。
嘘だ。僕は現にお腹が減っている。僕の身体は、この「みんな一緒の幸せ」についていけず、悲鳴を上げ続けている。
「……カバオ君?」
ふいに、頭上から優しい影が落ちてきた。
いつの間にか、みみせんせいがカバオのデスクの前に立ち、その綺麗に澄んだ瞳で彼を見下ろしていた。
「パンが、まだ残っていますね。お残しは良くありませんよ。ジャムおじさんがせっかくみんなのために作ってくださったのに……そんな風に悲しい顔をして食べないでいると、ジャムおじさんが悲しみます。それはとっても、お行儀の悪いことですよ?」
お行儀が悪い。その静かな言葉を聞いた瞬間、カバオの背筋に冷たい戦慄が走った。
みみせんせいは怒っていない。いつだって優しく、諭すように微笑んでいる。けれど、その「絶対に怒らない笑顔」の奥から、この教室のルールに従わない者を決して許さない、底冷えするような冷徹さが透けて見えた。
みみせんせいの視線が、一瞬だけカバオの大きな身体の輪郭をなぞった。まるで、何かの数値を確認するように。
「……もし、お腹の調子が悪いなら、保健室で少し『お休み』しましょうか? あそこなら、とっても静かで、楽に休めますからね」
保健室。そこへ連れて行かれた生徒が、翌日には見違えるほど「お行儀のいい笑顔」になって戻ってくることを、カバオは知っていた。
「……ご、ごめんなさい。すぐ、食べます」
カバオは震える手で、ふかふかとした、けれど自分にとっては砂のように味のしない白いパンを掴み、口へと押し込んだ。
噛めば噛むほど、喉を詰まらせるような息苦しさが胸を支配する。胃の中にパンが落ちていくたび、拒絶反応が脳髄を激しく揺さぶった。
カバオは俯き、涙と胃液で濡れた視界の中で、自分の泥に汚れた両手を強く握りしめた。
周囲の友達は、ただ楽しそうに「美味しいね、幸せだね」と繰り返している。
その声が、遠かった。