世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
ズゴゴゴゴゴゴゴォッ……!!
ハッチが完全に閉じられた脱出コアポッドが、もぐりんの残骸からロケットのように射出され、聖体炉の
ポッド内のサブモニターには、背後に残された地下第四層の「世界の終わり」が映し出されていた。
それは、圧倒的な漆黒の氾濫だった。
ばいきんまんという最高最悪のバイ菌(バグ)を注入されたマザーサーバーは、レシピの拒絶反応によって完全に狂い狂い始めていた。
数万体の量産型アンパンマンたちが、自身の引きちぎった顔を掲げたまま、ピタリと動きを止めている。次の瞬間、彼らの穏やかな笑顔の裂け目から、シュウゥゥ、と黒い砂嵐のノイズが噴き出した。
一個体、また一個体と、善意の怪物たちはエラーコードを吐き出しながら、泥のように、どろどろの黒い液体へと自壊していく。
そして、その津波の背後に佇んでいた、あの二人の指揮官にも、等しく「死」が訪れた。
「チ、チリ……秩序、を……」
ショクパンマンが硬直した手をこちらへ伸ばそうとする。だが、その大理石のように美しい白い肌に、ピキピキと無数の黒い亀裂が走った。内側から溢れ出たのは、漂白の光ではなく、どす黒いヘドロのような汚染ノイズ。彼はその端正な顔を苦悶に歪めることすら許されず、システムエラーの火花を散らしながら、粉々のガラスのように砕け散った。
カレーパンマンの身体からも、赤茶けた溶岩ではなく、漆黒の油が噴き出す。彼は自身の体内で暴走を始めた終末ウイルスに内側から焼き尽くされ、一言の断末魔も残さず、黒い塵となって虚空へ消滅した。
ジャムおじさんが作り上げた最強の番人たちは、戦うことすらなく、ただの「古いプログラム」としてシステムごと強制終了させられたのだ。
「ばいきんまんが……あいつらを、本当に全滅させちゃった……」
ドキンがモニターを見つめ、涙の滲んだ声で呆然と呟いた。
ドガァァァァァァァァァン!!!
激しい衝撃がポッドを襲った。
天井の隔壁を力任せに突き破り、コアポッドはついにマザーサーバーの最深部――全ドームの頂点であるマスターコントロールルームへと不時着した。
プシュー……と白い蒸気を上げてハッチが開く。
カバオ、ドキン、そしてバタコが警戒しながら外へと這い出た。
だが、そこにあったのは、想像していたような冷たい機械室ではなかった。
床には柔らかな木目のフローリング。壁には煤けた
そこは、かつて地上にあった、あの懐かしい「パン工場の厨房」を寸分違わぬ精度で再現した、精神の檻だった。
そして、その石窯の前に、彼はいた。
白い帽子に、白いエプロン。
無数の太い生命維持チューブを背中に繋がれ、巨大なコンソールと半ば同化しながら、ジャムおじさんが静かにこちらを振り返った。
その顔には、昔と何も変わらない、お慈悲に満ちた聖人のような笑顔が張り付いている。
だが、彼の瞳の奥だけは、真っ赤なエラーログの超高速スクロールによって、狂ったように点滅していた。
「バタコ……帰ってきたんだね」
ジャムおじさんの聲音は、あまりにも優しく、そしてあまりにも平坦だった。
「外の世界は不純物ばかりで、とても冷たかっただろう。でも、もう大丈夫だよ。もうすぐ、すべてが均一で、誰も争わず、誰も傷つかない、美しい無菌のレシピが完成するからね」
彼の指先が、カタカタと音を立ててコンソールを叩く。画面には、世界をもう一度最初から漂白するための
「ジャムおじさん、もうやめて!!」
バタコが狂おしい叫び声を上げ、ジャムの前に立ちはだかった。
「……バタコ。君もエラーになってしまったんだね」
ジャムおじさんは、その笑顔をピクリとも崩さないまま、静かに首を振った。
「不完全なものは美しくない。君も私に作られた、この工場の一部だろう?一緒に世界を綺麗にしよう」
ジャムの言葉は冷酷な事実だった。バタコには血も通っていないし、カバオたちのような親から生まれた生命でもない。ジャムのプログラムによって動く、ただの舞台装置に過ぎない。
しかし、バタコは強く、明確にそれを拒絶した。
「ええ、そうよ……! 私はあなたに作られた、命も持たないただの人形よ! ……でも」
バタコは、自分の胸に強く手を当てた。そこには心臓の鼓動はない。けれど、確かに刻まれた感情の熱があった。
「泥にまみれて、傷ついて、それでも必死に抗うカバオ君たちを見て……私、気づいちゃったの。あなたの作る完璧で無菌のレシピなんかより、汚くて、不完全でも、必死に生きている『命』のほうが、ずっと、ずっと美しいって……! だから私は、システムには戻らない!!」
「……そうか。それはとても、悲しいね」
ジャムおじさんの瞳のスクロールが加速する。彼の手が、世界を完全に初期化する実行キーへと容赦なく伸ばされた。
カバオが「やめろ!」と叫び、這ってでも止めようと手を伸ばした、その時だった。
――ゴボリ。
ジャムおじさんの動きが、不自然にピタリと止まった。
彼の張り付いた笑顔の口元から、どろりとした、漆黒のデジタルノイズが溢れ出た。
『――システムエラー。致命的な異物を検出。レシピ維持、不可能』
ジャム自身の口から、彼のものではない、冷徹な機械音声が警告を告げる。
彼の背中に繋がれた無数の生命維持チューブが、一瞬にして末端からどす黒く染まっていく。
ばいきんまんは、ジャムが初期化キーを押すよりも早く、すでに彼の思考中枢の最深部、神の心臓までを完璧に侵食し尽くしていたのだ。
「レシピが……汚れる……」
ジャムおじさんの瞳からハイライトが完全に消え去った。
それでもなお、彼の顔にはあの優しい笑顔が張り付いたままだった。そのギャップが、悍ましいほどの狂気を放っている。
ジャムの体内から、パチパチと激しい過負荷の火花が飛び散る。マザーサーバーの基盤が次々と破裂し、コントロールルーム全体が激しく揺れ動き始めた。
内側から暴走するウイルスのエネルギーに耐えきれず、彼の肉体が、風船のように歪に膨張していく。
「あ……ああ……!」
バタコが目を背けた、次の瞬間。
ドガァァァァァァァァァン!!!!
凄絶な閃光と、地鳴りのような爆音が轟いた。
すべての元凶であり、この偽りの楽園の絶対神であったジャムおじさんの生体中枢は、ばいきんまんの黒いノイズを四方に撒き散らしながら、木っ端微塵に爆散した。
マザーサーバーのメインモニターが次々とクラッシュし、完全な静寂が室内に訪れる。
神は死んだ。バイ菌のプライドが、システムの秩序を完全に打ち破ったのだ。