世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ……ッ!!!
ジャムおじさんの爆散と同時に、マスターコントロールルームのすべての光が途絶えた。
壁を覆っていた無数のモニターが破裂し、火花を散らしながら暗転していく。ドームの心臓部(マザーサーバー)の完全な沈黙。それは、この偽りの楽園を維持していた「無菌障壁」の完全な消失を意味していた。
「……壁が、消えた」
バタコが激しく傾き始めた床に捕まりながら、上空を見上げて呟いた。
ドームを包んでいた漂白の光が霧散し、代わりに地下から溢れ出たのは、ばいきんまんの遺した漆黒のウイルス――すなわち、世界を肯定する「バイ菌」の濁流だった。黒いノイズの大気が、一気に地上の居住区へと逆流していく。
それは、ドームの住人たちにとって、文字通り「世界を終わらせる猛毒」だった。
彼らは血の通った、本物の生命だった。だからこそ、残酷だった。ジャムおじさんは、何世代にもわたる過保護な管理によって、彼らの免疫システムを完全に退化させていたのだ。無菌室でしか生きられない、外の世界を拒絶する身体――それが、神が住人たちに施した、歪んだ愛の檻だった。
「あ、が……あ……っ」
モニターに映し出された街の映像。カバオの同級生たち、優しい大人たちが、生まれて初めて触れる「バイ菌」の混ざった大気に、喉をかきむしり、激しく吐血して頽れていく。害意なき
「みんな……、みんな、どうして……っ」
カバオが血の涙を流しながら画面に手を伸ばす。
「カバオ君、見ちゃダメ! ポッドへ!! ここも完全に潰れるわ!」
ドキンが叫び、もぐりんのコアポッドの操縦席へと飛び乗った。バタコはカバオを抱きかかえ、激しく火花を散らすハッチの中へと滑り込む。
「ばいきんまん……操縦桿、借りるわよ。……見てなさい!」
ドキンがレバーを限界まで押し下げると同時に、コアポッドの緊急脱出用ブースターが点火した。
ドォォォォォォォォォンッ!!!
背後でマスターコントロールルームが完全に圧壊する瞬間、ポッドは光の矢となって垂直の縦坑を突き進んだ。
外の世界は、まさに地獄絵図だった。
崩落していく生産ライン。そして、ただの静かな死の街と化した地上の居住区が、自重に耐えかねて地底のマグマと黒い泥水に呑み込まれていく。
行く手を阻むように巨大な鉄骨やビルの残骸が降ってくるが、ドキンは歯を食いしばり、猛烈なステップでポッドを回避させた。
「当たらないで……絶対に、地上へ行くのよ……!」
液晶画面には、残された歪なナビゲーションコードが、まるで彼女の手を引くように緑色に発光して最短ルートを示し続けていた。
ドームの天井が、すぐ目の前に迫る。
そこはかつて、ホログラムの偽物の青空を映し出していた鋼鉄の蓋だ。今やその青空は黒いバグで真っ黒に染まり、物理的な質量となってポッドの頭上へと崩れ落ちてこようとしていた。
カバオの胸の奥で、泥にまみれて育った「るんるん」の最後の生体光が、消えかけの電球のように弱々しく明滅している。カバオだけが、あの汚れた菌と共生していたがゆえに、このバイ菌の氾濫の中でも、その肺を腐らせずに生き長らえていた。
「う、あ……」
カバオが濁っていく視界の先、正面の防弾ガラスを見つめた。
「突破する、あぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
ドキンが絶叫し、ポッドの全エネルギーをフロントシールドに集中させる。
崩落する鋼鉄の空を真っ正面から食い破り、コアポッドは、爆発的な閃光と共に「外」へと突き抜けた。
ズ、ズズズズズズズン……ッ。
何度も地面を跳ね、激しく回転しながら、ポッドは泥の中に突っ込んでようやく停止した。
静寂が訪れる。
耳が痛くなるほどの、本物の風の音が、ポッドの外壁を叩いていた。
プシュー……。
変形したハッチを、バタコが力任せに押し開ける。
外の空気が、一気に室内に流れ込んできた。
「ごほっ、ごほっ……!」
ドキンが激しく咳き込む。
その空気は、ドームの中の洗練されたオゾン層のような匂いは一切しなかった。
土の臭い。埃の味。そして、皮膚を刺すような、酷く冷たくて、湿った「本物の風」の感触。
三人がポッドから這い出て、呆然とその場に立ち尽くした。
そこは、ジャムおじさんによって「生存不可能」として隠され続けていた、本当の地上の姿だった。
どこまでも続く、灰色の荒野。
ビルもなければ、無菌室のような綺麗な街並みもない。ただ一色の、不毛で、泥にまみれた、過酷な世界の剥き出しの皮膚。
背後を振り返れば、かつて彼らが暮らしていたあの巨大な白いドーム都市が、自らの重さに耐えかねて、砂の城のようにゆっくりと、轟音を立てて全壊していくのが見えた。
無菌の楽園は、中にいたすべての命と共に、完全に消滅したのだ。
「本当に……何もない場所、ね」
ドキンが、泥に汚れた顔で、ぽつりと呟いた。
その目からは、もう涙は流れていなかった。ただ、ばいきんまんが遺したもぐりんの小さなネジの破片を、痛いほど強く握りしめていた。
その時、バタコに抱えられていたカバオが、大きく息を吸い込んだ。
「……あ」
彼が指差す東の地平線。
灰色のぶ厚い雲の隙間から、一筋の、強烈な光の束が差し込んできた。
それは、ホログラムではない。レシピによって管理された照明でもない。
世界を等しく照らし、不純物も、バイ菌も、生き残った者たちも、すべてを等しく包み込む――『本物の太陽』の光だった。
眩しさに目を細めながら、カバオは深く、深く、不純物だらけの大気を肺に満たした。
その瞬間。
彼の口元から、カハッと、黄金色の小さな胞子が、風に向かって吐き出された。
カバオの体内で生き延びた、「るんるん」の最後の種子。
その胞子は、風に乗って、目の前に広がる冷たい灰色の泥の荒野へと、無数に散らばっていった。
住人たちの命と引き換えに、ばいきんまんが勝ち取った、この汚れた大地。
この胞子はすぐに芽を出すわけではないかもしれない。大半は死んでしまうかもしれない。
だが、ジャムのレシピにない、誰にも管理されない「本物の命の連鎖」が、今、ここから確かに始まったのだ。
「行きましょう。私たちの足で」
バタコが静かに、しかし力強く言った。彼女の胸にある、作られたはずの心は、今、本物の生き物のそれと同じように熱く脈打っていた。
カバオは自分の足でしっかりと大地を踏み締め、ドキンは風に髪をなびかせながら、夜明けの太陽を真っ直ぐに見据えた。
綺麗ではない。優しくもない。
けれど、最高に愛おしい、彼らの「現実」が、ここから始まる。