世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
バイキン城にあった時計の針は、あの日からずっと、午前四時十五分を指したまま動かない。
システムが完全に破壊され、文字通り『壊滅』したこの城は、今や牙を抜かれ、荒野にぽつんと突き刺さった、ただの不格好な鉄の
壁が崩れ、外の冷たい風が容赦なく吹き込む、鉄錆と重油の匂いだけが深く染みついた最上階の部屋の残骸。ドキンはただ一人、破れた窓外の景色を眺めていた。
灰色の荒野では、カバオとバタコの二人が、泥にまみれながら不器用に土を耕している。神のいない、レシピの失われた世界。カバオが吐き出した「るんるんの胞子」――あのどす黒く歪な菌糸の芽を育てるために、彼らは飢え、傷つき、熱を出して震えながらも、神のレシピではない不器用な「自分たちのパン」を焼くために、泥まみれで必死に明日を咀嚼していた。カバオたちの、かすれて、けれど温かい本物の声が、遠くかすかに風に乗って聞こえてくる。
けれど、ドキンはその輪の中に加わろうとはしなかった。
神の管理から外れた、新しい世界。誰もがそれを「自由」への夜明けとして、必死に生きようとしている。
けれど彼女にとって、そんな泥臭く、健かにまとまろうとしているだけの世界は、退屈で、無価値で、ひどく色褪せて見えた。彼女の愛した世界は、いつだってこの薄暗い部屋の、階下から響くあの耳障りで不快な金属音と、少年の傲慢な笑い声の中にしかなかったからだ。
ドキンは、そっと自分の手元を見つめた。
指先に塗られた、不自然なほど鮮やかな『真紅のポリッシュ』。
泥と菌糸の曖昧な灰色に染まりつつある世界の中で、その爪先だけが、かつて闇を切り裂いた『だだんだん』のモノアイの、あるいは自らを犠牲にして世界をバグらせた天才少年の紅い瞳の色彩を、鮮烈に宿して呼吸していた。
「……静かすぎるのよ、ばいきんまん」
ドキンちゃんは、ぽつりと冷たい
かつて彼女は、ドームのモニター越しに、絶対的な無菌の王子・ショクパンマンの「完璧な白」に焦がれたことがあった。けれど、あの漂白された白がいかに中身のない虚無だったかを、今の彼女は知っている。あの少年の紡ぎ出す、おぞましく、汚らしく、けれど生命の熱量に満ち満ちていた『黒いウイルス(汚れ)』に比べれば、世界のどんな清浄さも、ただの死体と変わらなかった。
足元を埋めるのは、あの決戦で完全に壊滅し、ガラクタとなった城の心臓部の残骸だ。
配線の切れたコンソール、溶けかけたネジ、あるいは標本箱のように埃をかぶった薬品の、空っぽになった硝子瓶。
肉体を失い、この世界の『バグ(概念)』そのものへと溶けていった少年。彼はもう、どこにもいない。
だが同時に――ドキンちゃんは静かに目を閉じ、大気を深く胸に吸い込んだ。
ジャムのフィルターが永久停止した世界には、野生の雑菌や、カビの匂いが漂い始めている。
それは地上にとっては過酷な環境の始まりであり――ドキンにとっては、世界全体が彼の『狂おしい呼吸』で満ちているという、何よりの証明だった。彼は世界のすべてに、今も確かに溶け込んでいるのだ。
ふいに、城のへし折れた巨大な排気口が、夜風に押されて「キィ……」と鋭い金属音を立てて軋んだ。
ドキンは、ハッとして振り返る。
長い影の落ちる部屋の隅。大破しただだんだんのコックピットの陰。今にも、油まみれの手で額の汗を拭った少年が、「おい、ドキンちゃん、俺様の最高傑作を見てくれよ」と、あの生意気な八重歯を覗かせて笑うのではないか――。
だが、そこにはやはり誰もいない。ただの冷たい風の悪戯だ。
分かっている。すべて分かっているのに、彼女の胸はいつも、そのわずかなノイズに激しく、狂おしく波立ってしまう。
彼女は、ばいきんまんが遺した空っぽの硝子瓶をそっと拾い上げ、愛おしそうに自身の平熱の低い胸に抱きしめた。
滑らかな硝子の冷たさが、彼女の体温をじわじわと奪っていく。けれど、その冷たさだけが、彼女を世界の退屈な安領から繋ぎ止めてくれる唯一の錨だった。
「世界がどんなに新しくなっても、どんなに綺麗に芽吹いてもね……」
ドキンちゃんは、歪に、けれど世界で一番美しく、残酷な笑顔を浮かべた。
「私は、あなたという最悪の毒が、どうしても忘れられないのよ」
彼女は再び、破れた窓の向こうの暗闇を見つめた。
もし、この世界に再び「歪み」が生まれ、あの崩壊したドームの泥の下から、あるいはこの城の残骸の底から、あの禍々しい赤い光が灯る日が来るのなら、彼女は何度だって世界の全てを喜んで敵に回すだろう。たった一人の、偏屈で不器用な、大嫌いで大好きだった悪ガキの我が儘に、もう一度だけ付き合うために。
風が止み、機能停止したバイキン城は再び、深い静寂に包まれる。
それは、世界の裏側に消えた彼へ捧ぐ、あまりに孤独で、あまりに甘やかな、執着の残響だった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
本作は、私たちが幼い頃から慣れ親しんできた『それいけ!アンパンマン』という偉大な国民的作品を、SF・サイバーパンク、そしてディストピアという極めて歪で冷酷なフィルターを通して再解釈(リミックス)した、ひとつの思考実験であり、反逆の物語です。
原点にあるのは、「自分の顔をちぎって食べさせる」という究極の自己犠牲の優しさと、それを何度も窯で焼き直してはループし続ける世界の「不気味なほどの正しさと永続性」でした。一切の病気や飢え、不純物が排除された「絶対の無菌室」は、果たして本当に幸福な楽園なのだろうか? 雑菌が繁殖し、傷つき、病み、過酷な環境に晒される不完全な「野生」こそが、私たちが「生きている」と実感するための本質なのではないか。そんな問いかけから、この物語は走り出しました。
神(ジャム)の過保護な愛によって外の世界で生きる力を奪われていた世界で、泥にまみれた菌(るんるん)と共生していたがゆえに生き残ったカバオ。そして、システムでありながら自らの意志で命の側へ歩き出したバタコ。彼らが、ばいきんまんという最悪のバグが遺した漆黒の胞子(歪な菌糸の芽)を灰色の荒野で必死に育み、不器用な「自分たちの生」を掴み取っていくプロセスには、執筆しながら私自身も胸を熱くさせられました。そして、新しくなった世界を「退屈」と切り捨て、午前四時十五分で止まった廃墟の中で、最悪の毒に殉じ続けるドキンちゃんの気高き執着をもって、この物語はひとつの完結を迎えました。
そこで、このディストピアの夜明け、そして過酷な現実への一歩を共にしてくださった皆様に、ぜひお願いがあります。
本作を読んでの、忌憚のない評価やご感想を、どうかお気軽に教えていただけないでしょうか。
どのような視点からのご意見でも大歓迎です。皆様からの一言ひとこと、お待ちしております。