世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
夜の闇を裂き、放たれたのは純粋な「質量」だった。
『だだんだん』の巨大な鉄の拳が、超高圧の油圧シリンダーの咆哮とともに、空気を爆破しながらアンパンマンへと振り下ろされる。並の物質であれば一撃で分子レベルに圧砕される破壊の質量。
しかし直撃の刹那、人形の身体は流動的な超スピードでそれを回避した。いや、それは回避という生ぬるい運動ではなかった。彼(アンパンマン)の跳躍には、バーニアも推進器も存在しない。にもかかわらず、重力や慣性といった世界の物理法則を完全に無視し、虚空に固定された不可視のレールを滑るような、不自然な直線的軌道を描いて見せたのだ。ジャムの調律が世界の基本コードを書き換えているとしか思えない、不気味な挙動だった。
きらめく無菌光の尾を引きながら、人形が宙を舞う。
「――アン、パンチ」
言葉ではない。それは彼の体内に仕込まれた『戦闘・滅菌シグナル』が、スピーカーから放つ、高音で抑揚のない無機質な音声コードだった。
輝く右拳が、だだんだんの分厚い胸部装甲にめり込む。凄まじい金属の座屈音が夜の荒野を震わせ、数十トンはある鋼鉄の巨躯が、足裏のアスファルトを削りながら数メートルも後退した。モニター越しにコクピットへ伝わる強烈な骨伝導の衝撃を逃がしながら、操縦席の少年――ばいきんまんは、歪んだ笑みをさらに深くした。
「なるほど、素晴らしい破壊力だ。まさに世界の不純物を消し去るための自律兵器。だけどね――」
少年が油塗れのレバーを力任せに引き絞る。
だだんだんの胸部、いま抉られた装甲の隙間から、高圧の排気音とともに紫色の濃密なガスが大量に噴出した。それは少年がバイキン城の奥で気の遠くなるほどの時間をかけ、楽園のレシピを殺すためだけに培養した特級ウイルス――『バイキニウム・オメガ』。
空中で身を翻したアンパンマンは、そのガスのベールを避ける動作を一切しなかった。彼には「呼吸」という生物的な概念が存在しないからだ。紫の霧の海をまっすぐに突き抜け、再びだだんだんの頭部に向けて拳を振り上げる。
だが、その絶対的な正義の機動が、唐突に、糸の切れた人形のように凍りついた。
「気づいたかい?」
少年の声が、外部スピーカーから割れた超低音で冷たく響く。
「僕のウイルスはね、呼吸器を冒すものじゃない。」
ガスの触れた部分から、おぞましい異変は始まった。
アンパンマンの象徴である、あの胸を悪くするほど甘い焼き立ての匂いが、一瞬で饐(す)えた酸っぱい異臭へと変貌していく。完璧な球体だった頭部の滑らかな表面に、じわり、じわりと、どす黒いカビの斑点が浮かび上がった。それは網の目のように急速に広がり、内部の柔らかなパン組織の結合を内側からボロボロに崩していく。生きた肉が急速に壊死していくのだ。
「あ……」
人形の口から、初めてノイズの混じった、掠れた機械音声が漏れた。
クリアだったアクリル球の瞳から光が急速に失われ、濁っていく。頭部の生命力が腐食していくにつれ、彼の身体を宙に支えていた『異常な熱量』が目に見えて目減りしていった。出力の低下に耐えかね、異形のヒーローは膝を折り、アスファルトに荒く手をついた。
「生命を維持するプログラムの、これが限界さ」
少年はだだんだんを一歩前進させ、完全に機能停止に陥った人形を冷酷に見下ろした。
「どれほど強力な出力を誇ろうと、君の核はジャムに捏ねられたただの『物質』だ。カビに侵されれば、ただの泥に還る。さあ、終わりにしようか。お前のその欺瞞の塊を、僕の手で粉砕してあげる」
だだんだんの巨大な鉄の足が、アンパンマンの頭部を踏み潰さんと高々と振り上げられた。自重による風圧が、瀕死の人形を圧迫する。絶対的な死の秒読み。
荒野の暗闇の奥、遠く、小さな光点が二つ、こちらを静かに見つめていた。
その時、世界の静寂を破って、地響きのような重低音が荒野の向こうから響き渡った。
ゴトゴトゴト、と不快な金属音を立てて闇を切り裂いて現れたのは、装甲車とも、動くプラントともつかない異形のマシンだった。フロントには、不気味なほど丸く、赤い鼻を持つ巨大な「顔」が模されている。蒸気機関のような煙突から無菌の白い蒸気を激しく吹き出しながら、その鉄塊はだだんだんの足元へと猛スピードで突っ込んできた。
『アンパンマン号』――世界を滅菌状態に保つための、移動式錬金術工房。
「チッ……老いぼれめ、お出ましか」
少年が忌々しそうに舌打ちする。
ガシャアン!と強烈な圧搾空気の音とともに、アンパンマン号のハッチが跳ね上がった。
中から現れたのは、白い衣服に身を包んだ、異様に肥大化した頭部を持つ老人――ジャムだった。その皮膚には毛穴もシワもなく、不自然なほど滑らかで、老人特有の生気が完全に欠落していた。その背後には、同じく虚ろな目をした少女、バタコが、まるで行き届いた精密機械のような所作で控えている。彼らの瞳には、目の前の惨劇に対する恐怖も焦りもない。ただ、淡々とルーティンワークをこなすシステム管理者の冷徹さだけがあった。
「バタコ、窯の温度は?」
老人の声は、この死線において不気味なほど平坦で、穏やかだった。
「極点に達しています、ジャムおじさん。いつでもいけます」
少女の手には、すでにひとつの『球体』が恭しく握られていた。
それは、アンパンマンの失われゆく頭部と全く同じ形状をした――しかし、周囲のバイキニウム・オメガのガスを一瞬で吹き飛ばすほどの圧倒的な熱量と生命の輝きを放つ、真新しい、無菌の肉塊。
「世界を、滞らせてはならない」
老人が、冷たく告げた。
「バタコ、デリバリーを」
「了解――『新しい顔』、射出します」
少女の細い腕が、精密機械のクレーンのように正確なしなりを見せた。暗黒の夜空を、新たな生命の核が、滅菌の光を放ちながら一直線に放たれる。