世界で一番美しい毒 - アンパンマン無菌都市崩壊録 作:ルーズベルト(-5㎏)
世界はいつも、出来の悪い舞台劇のようだ、と彼は思っていた。
少年――カバオは気づけば外縁の配給所まで歩いていた。身体が、本能的に食料の匂いを追っていたのだ。
楽園の管理システムから彼に与えられた『カバ』という記号化された血統は、この徹底的に洗練されたディストピアにおいて、何一つ恩恵をもたらさなかった。ただ「人並み以上に飢えに弱く、燃費の悪い肉体が肥大している」という、生存における劣等種のハンデキャップでしか生み出さない。汚れ、擦り切れた布切れのような服からはみ出た灰色の脇腹が、飢餓による内臓の激しい軋みによって、まるで引き付けを起こしたように痙攣していた。
さっきまで、彼は本当に死にかけていたのだ。
ばいきんまんが撒いたウイルス『バイキニウム・オメガ』のせいで、街の全住民に定期支給されるはずだった「純白のパン」は、一瞬にしておぞましい黒い粘土のように腐り果てた。炭水化物という名の家畜の餌を絶たれた彼の肥大した消化器官は、自己融解を起こすかのように酸の悲鳴を上げ続けていた。
だが、今、彼の喉を支配しているのは、胃壁を焼く空腹ではなかった。
大通りの凄惨な光景がもたらす、酸鼻を極めるような、圧倒的な「恐怖」と「困惑」だった。
「……なんだよ、あれ。何なんだよ、あれ……ッ」
カバオの、いつもは配給パンを無心に咀嚼するだけのためにある分厚い唇が、恐怖のあまり紫に色を変えて歪んだ。脳のニューロンが、目の前の現実を処理しきれずに激しいバグを起こしている。
這いつくばるコンクリートの冷たさが、じりじりと彼の頬の感覚を奪っていく。その極限の視界の先、夜霧の向こうで繰り広げられているのは、彼が幼い頃からスピーカーの音声で教え込まれてきた『正義の味方による無償の救済劇』などでは断じてなかった。
ガキィィィン――!!
耳を、いや脳を直接圧迫するような、肉と鉄がぶつかり合っているとは到底信じられない狂った衝撃音が夜の街に木霊する。
紫色の有害なガスの向こうで、だだんだんの超重量の鉄拳を強引に受け止めている『それ』は、カバオの知っている、あの優しく微笑むパンのヒーローではなかった。
頭部の左半分はドロドロに腐敗し、ウニのように尖った黒い菌糸を周囲に撒き散らしている。しかし、ジャムの工房から放たれた『新しい顔』が無理やり融合した右半分は、異様なほど純白で、まるで生き物のように不気味に脈打っていた。左右非対称の、あまりにおぞましい異形。
プログラムの壊れた人造人間は、腐食が進んだ左腕の断面からドロドロとした黒い体液を滴らせながら、狂ったように笑っていた。いや、それは笑いという情緒ではない。過負荷(オーバーロード)に達した生体回路が、限界を超えて鳴り響かせている駆動ノイズそのものだった。
「ボク、ハ……マダ……、マダ、マダマダマダマダマダマダ――ッ!!」
壊れたレコードのように金切り声を吐き出しながら、アンパンマンの右拳が、分子を励起させるほどの信じられない熱量で白熱化していく。
ドカァァァン――!!
それは『だだんだん』の重装甲の頭部を、コクピットごと粉砕する一撃だった。
飛び散る金属の火花と、引き裂かれ歪む鈍色の鉄板。爆風の衝撃波が裏路地まで吹き抜け、カバオの露出した脇腹に冷たい煤煙を叩きつける。
煙の向こう、コクピットから無残に放り出されたウイルスの少年――ばいきんまんの細い身体が、夜の闇へと転がっていくのがカバオの濁った瞳に映った。同時に、どこからともなく飛来した赤い流線型の飛行マシン――ドキンのUFOが、機械触手を伸ばしてその少年を瞬時に回収し、黒煙を上げながら遥か上空へと逃げ去っていく。
勝負はついた。正義の、勝利。いつも通りの、予定調和。
だが、残された『正義』はどうなった? カバオはコンクリートに額を擦り付け、漏れ出る荒い呼吸を殺しながら、その異形を凝視した。
異形のアンパンマンは、勝利したにもかかわらず、融解したアスファルトの上に幽霊のように立ち尽くしていた。壊れた顔の右半分から、甘く、しかしウイルスの腐敗が混ざり合った、胸を掻きむしりたくなるような饐えた香気が、路地のゴミ溜めの悪臭と混ざり合って、カバオの鼻腔を容赦なく突く。
その時、ゴトゴトゴト、と胃袋を直接揺さぶるような不気味な地鳴りを立てて、丸い鼻を模した巨大な鉄の要塞――『アンパンマン号』が泥の街を蹂躙しながら近づいてきた。
超高圧の蒸気が排気口からカバオの潜む裏路地へと吹き荒れ、むっとするような無菌の熱気が彼の灰色の肌を包む。
ハッチが油圧音を立てて開き、中から白い防護服のような衣服に身を包んだジャムおじさんが姿を現した。
カバオは、これまでの人生でジャムおじさんの顔をまともに見たことがなかった。いつもはドームの彼方から、自分たちを生かす「優しい神」として認識していたに過ぎない。
だが、歪んだ視界の先、至近距離で目撃したその姿は、生物としてあまりに異常だった。
頭部が、身体のバランスに対して不自然なほどに巨大なのだ。それはまるで、ホモ・サピエンスではなく、人間に見えなかった。
背後に控えるバタコと呼ばれている少女も同様だ。毛穴が一切ない、ワックスを塗ったように滑らかな人工皮膚。二人のガラス玉のようなアクリル瞳には、カビに侵され倒れたアンパンマンへの心配も、楽園を脅かしたばいきんまんへの怒りも、一滴の感情すら宿っていなかった。
「ジャムおじさん」
バタコの口から、人間の声帯とは思えない、極めて平坦な、周波数一定の音声シグナルが吐き出された。
「結合エラーです。個体識別コード・アンパンマンの有機組織が、ウイルスのバイキ特性を逆に取り込み、独自の変異を始めています。このままではドームの『調律』が――」
「……廃棄(リセット)だね」
老人の平坦な割り込みの声が、冷たく夜風を切り裂いた。
廃棄? カバオは息を吸うことすら忘れ、自分の耳を疑った。今、この神々は、自分たちのヒーローを指してなんと言った?
「窯(かま)に戻して……、焼き直せば、いい」
ジャムおじさんは、地面に倒れてピクピクと機械的な痙攣を繰り返しているアンパンマンの胸部を、躊躇いなく、冷酷な手つきで掴み上げた。
カバオの視界の中で、ジャムおじさんの巨大な頭部が傾き、アクリル球の瞳がわずかに街灯の光を反射する。
「世界を、滞らせては、ならないからね……」
まるで出来の悪い薪を処理するかのように、アンパンマン号の内部で不気味に赤黒く燃え盛る『漆黒の竃(かまど)』へと、その不完全に脈打つ身体を容赦なく押し込んでいった。
パチパチ、グチャ、と、肉(パン)が焼けるような香ばしさと、生ごみが一気に炭化するようなおぞましい悪臭が同時に立ち上り、重厚なハッチが閉まった。
老人の呟きの余韻だけが、冷たい夜風に消える。
アンパンマン号は、再び不気味な金属の地鳴りを響かせながら、無菌室のドームへと向かって闇の向こうへ去っていった。
大通りには、ただ融解して黒く固まったアスファルトと、ばいきんまんの残した不完全なカビの残滓だけが、冷たく取り残されていた。
裏路地の影で、カバオは激しく嘔吐した。
胃の中には何も入っていない。ただ、胃壁を焼く黄色い胃液だけが、冷たいコンクリートを汚していった。
世界は、誰も飢えさせない優しい神によって守られているのだと、街の誰もが疑わずに信じていた。けれど、違った。全部、嘘だった。
僕は、救われているんじゃない。
ただ、あの巨大な頭の老人たちが管理する無菌室の庭で、逆らわないように家畜として生かされているだけだ。
「……クソが」
カバオは、震える手で口元の泥と胃液を乱暴に拭い、去っていった楽園の影に向けて、人生で初めての、剥き出しの呪詛を吐き捨てた。
これが、彼が「去勢された世界の一部」を目撃した、最初の夜だった。