壊れかけた基地の廊下を、シエルは足早に歩いていた。
天井の一部は崩れ落ち、むき出しになった配線が火花を散らしている。壁には古い警告表示が残り、かつてここが研究施設だったことを辛うじて物語っていた。だが今、その場所は即席の研究所となり、多くの人間とレプリロイドが慌ただしく働いている。
シエルはこの場所に逃げ込んでくるレプリロイドと人間の数に驚かされながら、必死に作業を続けていた。
やるべきことは二つ。イレギュラーウイルスを無効化するワクチンの開発。そしてレプリロイドと人間双方が生き延びるためのエネルギー源の確保。
どちらも、人類の未来に直結する問題だった。
机の上には無数のデータパッドが並び、モニターにはエックスから得られた解析データが表示されている。とはいえ、参考にする力があったとしても、それだけで解決できる問題ではなかった。
「ここを……もう少し調整すれば……」
シエルは疲れた目をこすりながら、数式を入力していく。イレギュラーウイルスは単なるプログラムウイルスではない。レプリロイドの精神構造そのものを侵食する存在だ。
それを完全に無効化するなど伝説の存在でなければ不可能に近い。それでも、エックスの力を利用したことで、ようやく道筋が見え始めていた。
結果として、四天王ほどのエックスの力を受け継いでいるレプリロイドならば、感染しても短時間で無効化できるワクチンが完成しつつあった。
だが、それは決して万能ではない。そしてその間にも、多くのレプリロイドがイレギュラーウイルスに感染していた。
彼らは人間に手を上げることを拒んだ。
その結果―― ネオ・アルカディアへ特攻を仕掛ける者。あるいは、自らのコアを破壊する者。そうした選択をする者が、後を絶たなかった。
悲しかった。
自分の力不足が。
もっと早くこのワクチンを完成させていれば、救えた命があったかもしれない。それでも、嘆いている暇はなかった。シエルはただ必死に手を動かし続けた。
研究室の隅では、数体のレプリロイドが武装を解除して整備を受けている。
強い戦闘能力を持つ者ほど、武器を外していた。万が一、自分が感染した場合、すぐに自らを破壊できるように。その光景を見るたび、シエルの胸は締め付けられる。
自分は、レプリロイドという存在を見誤っていたのかもしれない。かつて彼女は思っていた。強い者が弱い者を支配する世界。レプリロイドもまた、弱者と強者に分かれて、弱者を迫害しているのではないかと考えていた。
だが現実は違った。
人間を守る。その意思だけは、誰一人として揺らがなかった。
ネオ・アルカディアで「エネルギーを不当に消費している」としてイレギュラー認定されたレプリロイドたちでさえ、その誓いを守り続けていたのだ。
シエルは一瞬、作業の手を止めた。
もしシグマが現れなければ、自分はネオ・アルカディアに反旗を翻し、レジスタンスを結成していたかもしれない。
コピーエックスの体制に疑問を抱き、戦う道を選んでいた可能性もある。だが、そうはならなかった。今、敵は明確だった。
ファーブニルは、何度も傷だらけになりながら人間とレプリロイドの救助に向かっている。
毎回、装甲はボロボロになり、整備班に運び込まれる。それでも彼は、休むことなく再び戦場へ飛び出していった。
レヴィアタンは各地に散った避難民との通信網を構築している。彼女の指揮によって、他の拠点との連絡も少しずつ取れるようになっていた。
そして、この基地には――
エックスがいる。
その存在があるだけで、ここは人々にとって希望の地となっていた。だからこそ。それに見合う何かを、自分は作らなければならない。
シエルは再びキーボードを叩く。ワクチン。そしてエネルギー問題。この二つを科学の力で解決するために。その時だった。
「シエル? 少しは休まなきゃ」
柔らかい声が背後から聞こえた。
「あなたは人間なのよ?」
振り向くと、サイバーエルフのパッシィが心配そうな顔で立っていた。
「大丈夫よ、パッシィ。それより急がないと……」
そう言った瞬間、視界がぐらりと揺れた。体がふらつく。
「シエル!?」
別の声が慌てて駆け寄る。
「大丈夫か!?」
「ミラン……」
シエルは机に手をついて体を支えた。
「ええ……私は大丈夫よ。急いでワクチンとエネルギーを完成させなきゃ」
だがミランは強く首を振った。
「シエル、君は人間なんだ!」
普段は穏やかな彼の声が珍しく強い。
「休むんだ! エックス様にも、あなたや他の人間たちの体調を気にかけるように言われている!」
その言葉に、シエルは少し黙り込んだ。エックスの顔が思い浮かぶ。自分よりも人を心配そうに見ている存在の顔が。
「……そう」
小さく息を吐く。
「じゃあ、少しだけ休むわ」
ミランは安心したように頷いた。
「そうしてくれ。今の僕たちに、エックス様や四天王……そしてシエルの代わりはいないんですから」
「……分かったわ」
シエルは静かに頷いた。研究者たちには一人一部屋が与えられている。本来なら、こんな状況で個室などありえない待遇だ。
だが、それだけこの仕事が重要だということでもあった。
人類も、レプリロイドも――今、崖っぷちに立たされているのだから。首を横に振る。だとしてもオリジナルエックスがいる以上の希望はない。
☆ ☆ ☆
今、基地では重要な会議が開かれていた。
広い会議室には、人間とレプリロイドが同じ空間に集まっている。互いに立場は違う。だが今は同じ目的のためにここにいる。それがどれほど奇跡のようなことか、私はよく分かっていた。
行政を担当するハルピュイア。そして戦闘部隊を率いるファーブニルとレヴィアタン。三人が同時にここにいるというだけで、この会議がどれほど重要なのかが分かる。普段なら彼らはそれぞれ別の任務を担い、外で活動しているのだから。
それでも今日はここに集まっていた。
理由は一つ。シグマを倒すための、大規模作戦の準備。ハルピュイアを頭にして私たちはレジスタンスを結成した。レジスタンスは各地の基地と通信を繋ぎ、共同作戦を計画していた。人間とレプリロイドが同じテーブルに着き、互いに知恵を出し合っている。
その光景を見て、私は胸の奥が温かくなるのを感じていた。これこそが――人とレプリロイドが協力して何かを成し遂げる。それが私の理想だったからだ。
レプリロイドも人間も、恐怖や憎しみではなく、協力して生きる世界。もちろんシグマは許せないが。
しかし、その未来が、ほんの少しだけ形になり始めている気がしていた。もっとも、問題がすべて解決したわけではない。新しいエネルギー研究は完全に行き詰っている。食料も決して十分ではない。
だが、それでも希望はあった。
イレギュラーウイルスのワクチン研究に、ついに目途が立ったのだ。それは、今の私たちにとって何よりの光だった。
ワクチンはすでに各基地に配布されている。基地の出入り口に拡散させることで、感染の拡大を防ぐことができるはずだった。
もちろん、感染が進行してしまった個体は破壊するしかない。それでも今までの絶望的な状況に比べれば、遥かに大きな前進だった。
レプリロイドたちが真剣に議論する。
「シグマの本拠地の推定座標は――」
「作戦時のエネルギー消費は?」
「補給線をどう維持する?」
「食糧問題はどう解決する?」
人間もレプリロイドも、同じ声で議論している。私はその光景を見ながら思っていた。もしかしたら。本当に、世界は変わるのかもしれない。
争いではなく、理解で。
支配ではなく、共存で。
そんな未来が。
議論が一段落した、その時だった。ふいに、部屋の中央に光が灯った。柔らかな青白い光。それが形を持つ。誰もが息を呑んだ。
そこに現れたのは――
オリジナル・エックスだった。
一瞬の静寂。そして次の瞬間、部屋にいた全員が自然と頭を下げていた。人間も。レプリロイドも。誰もが同じように。
救世主に対して。
「……そんなに畏まることはないよ」
穏やかな声が響いた。どこまでも優しい声だったけれど、その響きの奥に、言いようのない疲れが滲んでいるように私は感じた。
「今日は……君たちに伝えないといけないことがあるんだ」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
ハルピュイアが一歩前に出る。
「エックス様……それは一体?」
エックスは少しだけ目を伏せた。そして静かに言った。
「僕にはもう……ほとんど力が残されていないんだ」
ざわめきが広がった。誰もが耳を疑った。私は理解できなかった。理解したくなかった。だがエックスは続けた。
「この世界にただ存在することさえ……難しくなってきている」
静かな声だった。あまりにも穏やかな声だった。だからこそ、その言葉は残酷だった。
「持って……数日かな」
誰かが息を呑んだ。誰かが声を漏らした。そして――私は叫んでいた。
「そんな!!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
「あなたが倒れたら……私たちはどうやって生きていけばいいの!!」
それは理性の言葉ではなかった。ただの叫びだった。胸の奥から溢れ出した、本当の気持ちだった。だって、エックスは、希望だった。この世界の。周囲でも声が上がる。
「何とかならないのか!」
「方法はないのか!」
「エックス様を救えないのか!」
絶望と混乱が広がる。その中でエックスは、申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんね」
その一言で、私は胸が締め付けられた。
「僕は……オメガの力を封印するために、自分の体にダークエルフを封印していたんだ」
誰も言葉を発しなかった。
「だから僕は、サイバーエルフとして世界を見守っていた」
静かな告白。
「まさか……シグマが蘇るとは思っていなかった」
長い沈黙が流れた。
「残念だけど」
エックスは言った。
「もう僕の力を回復する術はない」
その時だった。
「――エックス様!!」
ハルピュイアが叫んだ。
「ならば我々の体をお使いください!」
驚きの声が広がる。
「我々の体であれば、エックス様に捧げることも可能なはずです!」
ファーブニルとレヴィアタンも頷いていた。本気だった。本気で自分の体を差し出そうとしていた。だが、エックスは静かに首を振った。
「……ごめんね」
その声は、どこまでも優しかった。
「僕はもう……これ以上、誰も破壊したくないんだ」
部屋が静まり返る。
「僕は友人が眠りについてから」
エックスは遠くを見るような目をした。
「途方もない数のイレギュラーと……一人で戦い続けてきた」
誰も言葉を挟めない。
「それは……別に苦しくはなかった」
だが次の言葉で、声が震えた。
「だけど……」
少しだけ。
本当に少しだけ。
「次第に……何も感じなくなっていく心」
その言葉に、私は息を止めた。
「それが……苦しかった」
静かな告白だった。英雄の言葉ではない。ただの一人の存在の、悲鳴だった。誰も何も言えなかった。レプリロイドも。人間も。
ただ黙って、エックスを見ていた。私は気づいた。さっきまで見えていた希望が。ゆっくりと崩れていく音を。
☆ ☆ ☆
「だとしても――!」
気づいたときには、私は叫んでいた。
「エックス様が倒れるのを、我々四天王が見過ごすことなどできません! どうか……どうか我々の体をお使いください!!」
自分でも驚くほど大きな声だった。だがそれは当然のことだった。エックス様は我々の主であり、希望であり、存在理由そのものだ。
その御方があと数日で消えるなどと――そんなことを受け入れられるはずがない。私は片膝をついた。後ろを見るまでもない。ファーブニルとレヴィアタンも同じ思いのはずだ。あの二人もきっと頷いているだろう。
我々四天王は、もともとネオ・アルカディアの統治機構の中枢を担っていた存在だ。
だがそれはすべて、エックス様の理想を実現するためだった。人間とレプリロイドが共に生きる世界。その未来を守るために、我々は存在している。
だからこそ――
主が消えるなどという未来を、ただ黙って見ていることなどできない。しかし。
「……もちろん」
エックス様は、穏やかな声で言った。
「君たちに絶望させるためだけに、このことを言ったわけじゃないんだ」
その声は、どこまでも落ち着いていた。まるで最初からすべてを受け入れているかのように。そして――私の叫びを、静かに受け流すように。
エックス様は続けた。
「ゼロを目覚めさせるんだ」
一瞬。空気が凍りついた。会議室にいた人間も、レプリロイドも、誰もが言葉を失う。ゼロ。その名は、あまりにも有名だった。
伝説の紅き戦士。
いや、破壊神。
シグマとの戦いの時代、最前線で戦い続けた存在。そしてエックス様と並ぶ英雄。確かに。もし彼が目覚めるのなら。
もし彼が再び戦うのなら。エックス様の代わりを務めることができるかもしれない。だが。それでも。私の胸は納得していなかった。
我々四天王の忠義はエックス様に向いている。主が消えゆくのを黙って見送り、別の戦士に未来を託す。そんなことが、本当に許されるのか。
いや、許されるはずがない。私は顔を上げた。だがその瞬間。
「ハルピュイア」
エックス様が私の名を呼んだ。優しい声だった。だがその声には、逆らえない重みがあった。
「改めて命令する」
私は背筋を伸ばした。
「君がここにいる人間たちを守るんだ」
その言葉に、胸が締め付けられた。
「例え僕が死んでも」
静かな声。
「僕の遺志は、君たちに受け継がれる」
エックス様は、まっすぐこちらを見ていた。
「だから……それでいいんだ」
それは命令だった。そして同時に信頼だった。長い沈黙のあと。私はゆっくりと頭を下げた。
「……承知、しました」
声が震えないようにするのが精一杯だった。軍人として。四天王として。私は命令に従うしかない。それがどれほど辛くとも。それがどれほど耐え難くとも。エックス様が望むのなら私は従う。
それが私の忠義だからだ。
「さて」
エックス様は少しだけ空気を変えるように言った。
「ゼロの封印の地に行かないとね」
ゼロ。
再びその名が響く。
「レヴィアタン」
「はい」
「君とシエル、それから人間の研究者。あと護衛を何人か準備して欲しい」
レヴィアタンが頷く。
だが、その時だった。
「……待って」
シエルが口を開いた。不安そうな表情だった。
「ゼロはシグマウイルスに耐えられるの?」
研究者として当然の疑問だった。
「私のワクチンは……まだ完璧じゃない」
その言葉に会議室の空気が再び緊張する。だがエックス様は微笑んだ。
「それは安心してほしい」
静かな声。
「ゼロはイレギュラーウイルスに抗体を持っている」
その言葉に、私は思わず目を見開いた。
「僕以上に問題ないはずだ」
確信に満ちた言葉だった。まるでゼロの力を誰よりも信じているかのように。シエルはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「……分かったわ」
覚悟を決めた声だった。
「準備をしてきます」
彼女はそう言って部屋を出ていった。その背中を見送りながら、私は思っていた。ゼロ。伝説の戦士。もし本当に彼が目覚めるのなら。
この世界はまた――救われるのかもしれない。だが。それでも。私の胸の奥には、消えない思いが残っていた。どうしても拭えない思いが。
(それでも……)
私は拳を握った。
(それでも私は――)
エックス様を守りたかった。