エックス様が亡くなる。その言葉は、会議室にいたすべての者の心を深く揺さぶっていた。人間も、レプリロイドも、等しく動揺している。誰もが口々に不安を漏らし、これから先の未来を案じていた。今後どうすればいいのか。
誰がこの世界を導くのか。その問いに、明確に答えられる者はいない。いや、本来ならば、その答えは一つしかなかった。
エックス様。
ただその存在だけが、この世界の指針だったのだから。だがその支柱が失われる。それがどれほどの意味を持つのか、ここにいる誰もが理解していた。
しかし。
その混乱は、一つの言葉によって、かろうじて押し留められていた。ゼロを目覚めさせる。エックス様がそう言った瞬間、場に広がっていた絶望は、わずかに形を変えた。
紅き破壊神ゼロ。
もう一人の英雄。その名は伝説であり、同時に最後の希望でもあった。確かに、彼であれば。エックス様の代わりとなりうる存在かもしれない。人々はその可能性に縋った。それによって、辛うじて崩壊は防がれている。
だが――。
(それで、本当にいいのか……)
無意識のうちに拳を強く握り締めていた。機械の拳が軋む。自分でも気づかぬほど、力が入っている。
(私は……何のために存在している)
私はエックス様のDNAを基に作られた存在。四天王筆頭。エックス様を補佐し、その理想を実現するための存在。そのはずだ。そのはずなのに。
今の私は何をしている。
主が死に向かうのを、ただ見ているだけではないか。守るべき存在を、守ることすらできずに。歯噛みする。悔しさが、胸の奥から込み上げてくる。
(なぜだ……!)
力がある。戦う力も、指揮する力も。それでも。最も守るべき存在を守れない。それが――これほどまでに無力だとは。
だが。
私はゆっくりと息を吐いた。感情を押し殺す。ここで揺らぐわけにはいかない。エックス様はゼロに未来を託した。それはすなわち、我々四天王に対する信頼でもある。
ならば。我々が揺れるわけにはいかない。我々が動揺すれば、他のレプリロイドたちも揺れる。そしてレプリロイドが揺れれば――人間も揺れる。
それは、この状況において最も避けなければならない事態だ。だから私は、感情を押し込める。どれほど苦しくとも。どれほど納得できなくとも。
「ハルピュイア、ファーブニル、レヴィアタン……少し来てほしい」
エックス様の声が響いた。私は顔を上げる。呼ばれた理由は分かっている。おそらく――最後の確認。あるいは、遺言に近いもの。
我々は無言で前に進み出た。そして私は、もう一度だけ言葉を絞り出した。
「エックス様……もう一度だけ言わせてください」
視線をまっすぐに向ける。
「我々の体を使って回復する選択肢は、本当にないのですか」
声は冷静に保った。だがその奥には、どうしようもない願いが滲んでいる。
「そうだぜ、エックス様」
ファーブニルが続く。
「今の状況じゃ、戦うことしか能のない俺より、あんたの存在の方がよっぽど重要だ」
荒々しい言葉だが、その本質は同じだった。
「ファーブニルの言う通りです」
レヴィアタンも静かに言う。
「我々の体を使えば、生き延びることはできないのでしょうか」
三者三様の言葉。だがその意味は一つ。どうか、生きてほしい。それだけだった。さらに私は言葉を重ねる。
「それに……ファントムは命がけで時間を稼いでくれました」
あの男の最期が脳裏をよぎる。
「それなのに……我々だけ生き延びるなど、できません!」
その瞬間、静寂が落ちた。エックス様はしばらく何も言わなかった。そして――ゆっくりと口を開く。
「……僕やゼロは、過去の存在なんだ」
その言葉は、あまりにも静かだった。
「ダークエルフを封じるために存在し、それを果たした時点で……役目は終わっていた」
否定したかった。だが、できなかった。
「本来なら、シグマが蘇らなければ……僕は表に出るつもりはなかった」
「そんな……」
思わず声が漏れる。
「多分、ゼロも同じだと思う」
エックス様は続けた。
「僕やゼロは、過去の遺物なんだ」
その言葉には、どこか寂しさがあった。
「だから……シグマやオメガのような過去が現れない限り、前に出るべきじゃない」
その理屈は理解できる。だが、納得はできない。
エックス様は続ける。
「君たちに頼みたい」
その声は、少しだけ柔らかくなった。
「ゼロは強い。でも……孤独だ」
私は息を呑んだ。
「僕の代わりに、ゼロを支えてほしい」
その言葉で、すべてが決まった。それは命令であり――願いだった。私は目を閉じる。一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、感情が溢れそうになる。
だが。それを押し殺し、私は頭を下げた。
「……承知、しました」
それが私の答えだった。四天王として。そして――エックス様の部下としての答え。顔を上げる。視界がわずかに揺れている気がした。
だが、気にしない。気にしてはならない。私は守る。エックス様の遺志を。人間たちを。そして――これから目覚めるであろうゼロを。
だが。それでも。
胸の奥に残る感情だけは、消えることはなかった。
(守るはずだった……)
拳を握る。
(この命に代えてでも、守るはずだった存在を……)
私は今、見送ろうとしている。
それが――
何よりも、悲しかった。
☆ ☆ ☆
私は今、準備をしている。伝説の紅き破壊神、ゼロが眠る遺跡へ向かうための準備を。それは単なる調査ではない。この世界の命運を左右する任務だった。
同時に、もう一つの準備もしなければならなかった。皆に知らせること。ゼロが目覚めるという希望を。そして、蒼き救世主が、まもなくこの世界から消えるという現実を。
胸が締め付けられる。だが、今の私にはそれが最善だと分かっていた。人々の士気を保つためには、希望と現実の両方を示さなければならない。どちらか一方だけでは、いずれ崩壊する。
私はその判断を下した。ハルピュイアたちにも相談した。彼らはすぐには答えなかった。しばらく沈黙し、そして――苦しそうに頷いた。
あの三人が、あんな表情を見せるのを初めて見た気がする。……きっと。彼らも認めたくないのだ。オリジナルエックスが、死ぬという事実を。
その時だった。
「ドクターシエル。エックス様がお呼びよ。ついてきてくれる?」
振り向くと、レヴィアタンが立っていた。いつも通りの冷静な表情。けれど、その奥にある揺らぎを私は感じ取ってしまう。
「エックスが?」
胸がわずかに高鳴る。
「分かったわ、レヴィアタン」
私は頷いた。そして彼女の後について歩き出す。基地の通路は静まり返っていた。普段ならどこかで作業音や会話が聞こえるはずなのに、今日は妙に静かだった。
皆、何かを感じ取っているのかもしれない。重たい空気の中を進み、やがて一つの部屋の前で足が止まる。レヴィアタンが扉を開いた。
中にいたのは――オリジナルエックス、ただ一人。青白い光をまとったその姿は、どこか現実離れしている。それでも、その存在感は圧倒的だった。
レヴィアタンは静かに頭を下げると、何も言わずに部屋を後にした。扉が閉まる。残されたのは、私とエックスだけ。
二人きり。その状況に、胸の奥がざわつく。逃げることはできない。いや――逃げてはいけない。私は一歩前に出た。
「エックス……私は、あなたに謝らなければならないことがあるわ」
声が少しだけ震えた。だが、言わなければならない。これは私の責任だから。
「……僕の影のことだね?」
即座に返ってきた言葉に、私は息を呑んだ。やはり、すべて分かっている。
「ええ……」
短く答えることしかできなかった。沈黙が落ちる。エックスは少しだけ視線を落とし、静かに口を開いた。
「僕は、ハルピュイアたちにも言ったけど……過去の遺物なんだ」
その言葉は、どこか遠くを見ているようだった。
「僕やゼロがいなくても、大丈夫。そう信じていた」
その信頼。
その希望。
それを――
裏切ったのは、私たち人間だ。胸が痛む。
「ごめんなさい……」
自然と頭が下がる。
「私たちは……あなたの信頼を裏切ってしまった」
その言葉を口にするのは、想像以上に苦しかった。しばらくの沈黙。その静けさが、余計に重く感じられる。やがてエックスが言った。
「……彼は、生まれてまだ何も知らなかった」
穏やかな声だった。
「もしシグマたちが蘇っていなければ……」
一瞬、言葉が途切れる。
「罪のないレプリロイドを、エネルギー不足から弾圧していたかもしれない」
その言葉に、背筋が冷たくなる。可能性の話。だが、決して否定できない未来。
「……ごめんなさい。私が――」
言いかけたその瞬間。
「――君は悪くない」
はっきりと、エックスは言った。
「悪いのは、何も言わずに消えた僕のせいだ」
その言葉に、顔を上げる。エックスはどこか寂しそうに微笑んでいるように見えた。
「せめて眠りにつく前に、すべての人間たちに伝えるべきだった」
その声音には、後悔が滲んでいた。
「言い訳に聞こえるかもしれないけど……僕は疲れてたんだ」
その言葉に、私は何も言えなくなる。
「ゼロが眠りについてから……僕は数えきれないほどのイレギュラーと戦った」
静かな告白。
「それは苦じゃなかった」
だが――
「だけど……次第に、何も感じなくなっていく自分の心が嫌だった」
その言葉は、痛いほど伝わってきた。英雄ではなく、一人の存在としての苦しみ。
「古い知り合いに言われたよ。お前はあまちゃんだって」
少しだけ、自嘲するように笑う。
「その通りだ。僕は甘い」
否定しない。ただ受け入れている。
「イレギュラーでも、破壊したくなかった」
その言葉に、胸が締め付けられる。
「ワクチンさえできれば……誰も壊さずに済むんじゃないかって、ずっと願ってた」
その願いは、私の願いでもあった。だからこそ、痛いほど分かる。
「だけど……イレギュラーになるのは、ウイルスに侵された者だけじゃない」
現実。
「普通の存在でも、なりうる」
その事実が、重くのしかかる。私は言葉を失った。エックスは、まるで懺悔するかのように話している。なぜ、私に?
「ごめんね」
ふいに、エックスが言った。
「こんな話を聞かせちゃって」
優しい声だった。
「でも……ゼロ以外に、僕の内心を知っていてもらいたかったんだ」
その言葉に、胸が熱くなる。信頼されている。それが、痛いほど分かる。
「……あなたは、優しすぎる」
ようやく言葉を絞り出す。それ以外に、言いようがなかった。エックスは少しだけ微笑んだ。
「そうだね」
穏やかな肯定。
「統治者には向いていない」
自分で、そう言い切る。
「それも……僕が眠りにつく決断をした理由なんだ」
静かに。確かに。その言葉は、終わりを告げていた。
☆ ☆ ☆
準備には、二日を費やした。
たった二日。けれど、その二日はこれまでのどんな時間よりも重かった。私たちは、最後の希望を目覚めさせるために動いていた。
失敗は許されない。判断の一つひとつが、未来を左右する。それを理解していたからこそ、誰も焦りを表には出さなかった。
けれど、その沈黙の裏で、皆が同じものを抱えていた。
不安と――祈り。
エックスは、その間何も言わなかった。急かすことも、指示を出すこともない。ただ静かに、私たちを見守っていた。
まるで――。
「ここから先は、君たちの役目だ」とでも言うように。その態度に、私は少しだけ胸が痛んだ。けれど同時に、それが正しいとも思っていた。
本来なら。オリジナルエックスが眠りについた後の世界は、私たちが支えるべきものだった。今を生きる者たちが、未来を選び取るべきだった。
それなのに――私たちは、その責任から目を逸らした。そして生まれたのが、コピーエックス。エックスの影。理想を歪めた存在。
あの時、エックスは何を思っていたのだろう。
私たちを――愚かだと思っていたのか。それとも。それでも私たちを信じようとしていたのか。答えは、もう聞けないのかもしれない。
「シエル。この扉は……爆弾で吹き飛ばす。離れて」
現実に引き戻される。声をかけてきたのは、先頭に立つエックスだった。淡い光の体が、暗い遺跡の中で静かに揺れている。
最後尾にはレヴィアタン。その間を、護衛のレプリロイドと私たち研究者が進んでいた。遺跡の空気は冷たく、重い。長い時間、誰にも触れられていなかったことを物語っている。
「そうね……」
私は頷いた。そして、少しだけ迷った後に口を開く。
「ねぇ、エックス。この先に……ゼロがいるの?」
自分でも分かる。意味のない確認だと。それでも、聞かずにはいられなかった。
「そうだよ」
エックスは迷いなく答えた。
「彼が眠っている場所だ」
その声には、確信があった。そして――わずかな懐かしさが滲んでいた。爆弾が設置される。短いカウントの後、轟音が遺跡に響いた。
壁が崩れ、粉塵が舞い上がる。視界が白く霞む中、私たちは前へと進んだ。パッシィが、後方で映像を中継している。
ここに来られない仲間たちにも、この瞬間を見せるために。英雄の帰還を――。皆で見届けるために。やがて、粉塵が晴れる。
その先に――それはあった。
紅。深い、血のような紅。
まるで罪人のように、拘束されるかのようにして眠る存在。ゼロ。伝説の破壊神。その姿は、想像していたものとは違っていた。
もっと荒々しいものを想像していた。だが、そこにあったのは――静寂だった。
「これが……ゼロ?」
隣でミランが呟く。
その声には、畏怖と好奇心が入り混じっていた。彼は、引き寄せられるように一歩、また一歩と近づいていく。まるで何かに呼ばれているかのように。
「危ない!!」
鋭い声が響いた。エックスだった。ミランははっとして足を止める。
「プロテクトがかけられている」
エックスが静かに言う。
「今から正規の手順を踏んで、ゼロを目覚めさせるんだ」
その言葉に、私たちは一斉に動き出した。ゼロの周囲を慎重に調査する。不用意に触れれば、何が起こるか分からない。やがて見つかった。
制御装置。生きているコンピューター。そこにアクセスを試みる。だが――
「……なに、これ……」
思わず声が漏れた。プロテクトが、異常なほど強固だった。何重にも、何十重にも張り巡らされている。まるで――。
二度と目覚めさせることを拒絶するかのように。ゼロ自身を封じるための意志すら感じる。私は息を整えた。怖い。だが、それ以上に――。
やらなければならない。
「大丈夫……時間があれば、解除できる」
自分に言い聞かせるように呟く。そして作業に没頭した。コードを解析し、保護層を一つずつ剥がしていく。神経を削る作業だった。
一つのミスで、すべてが失われる可能性もある。だが、手は止めない。止めるわけにはいかない。時間の感覚が消える。
周囲の音も、気配も遠ざかる。ただ、目の前のシステムだけが世界になる。そして――数時間後。
「……できた」
思わず声に出た。最後のプロテクトが、静かに解除される。張り詰めていた空気が、わずかに緩む。私は顔を上げた。
目の前には――
ゼロ。まだ眠っている。だが、その存在は確かに変わり始めていた。封印は解かれた。後は――目覚めるだけ。胸が高鳴る。
恐怖と、期待と、責任が混ざり合う。ついに。
本当に――
ゼロが目覚める時が、来たのだ。
次回、復活のゼロ