冷たい空気が、遺跡の奥深くに沈殿していた。長い時間、誰にも触れられることのなかったその場所は、まるで時そのものが止まっているかのようだった。
私は、その中心に立っていた。透明なカプセル。そこに眠るのは伝説。人類史とレプリロイド史、その両方に刻まれた名前。
ゼロ。
記録の中でしか知らない存在。けれど、その名は重い。エックスさえ「自分と同等の存在」と語った、唯一の存在。私は息を呑んだ。胸が苦しい。恐怖と期待が、同時に押し寄せてくる。
(本当に……目覚めさせていいの?)
それはまるで起きることを拒むようにプロテクトをかけていた……まるでそれがゼロの意思のように。
シグマの脅威。オメガの存在。そして、消えかけているエックス。もう、選択肢はない。分かっている。それでも、指先が震えていた。
「……シエル、大丈夫?」
後ろから、レヴィアタンの声がかかる。振り返ると、彼女は珍しく真剣な表情をしていた。
「ええ……大丈夫よ」
そう答えたけれど、自分でも分かる。声が震えている。それでも私は、コンソールに手を伸ばした。この手で、歴史を動かす。この手で、英雄を目覚めさせる。
起動コード、入力。封印システム、解除。
低く唸るような音が響き、カプセルの内部に光が満ちていく。凍結されていた機構が、ゆっくりと再起動していくのが分かる。
(お願い……)
祈るような気持ちで、私は叫んでいた。
「お願い! ゼロ! 助けて!!」
声が、遺跡に反響する。
その瞬間――カプセルの内部で、赤い装甲のレプリロイドの目が、かすかに光った。ゆっくりと、瞼が開く。鋭い、意志の宿った視線。
それだけで、空気が変わった。まるで戦場に立たされたような、張り詰めた緊張が全身を貫く。カプセルが開き、蒸気が溢れ出す。彼は一歩、外へと踏み出した。
「……俺を目覚めさせて、どうしようって言うんだ?」
低く、静かな声。けれど、その奥に潜む警戒心と圧力に、私は一瞬言葉を失った。当然だ。理由も説明せず、ただ「助けて」と叫んだだけなのだから。
(説明しなきゃ……)
口を開こうとした、その時だった。
「――エックス、か」
ゼロの視線が、私の後ろへ向けられる。振り返ると、そこには光のように揺らめく存在があった。エックス。肉体はもうなく、データとして存在しているはずの彼が、そこに立っていた。
「そうだよ、ゼロ。百年ぶりだね」
優しい声。けれど、どこか遠くへ行ってしまいそうな、そんな響き。
「……何が、あった?」
ゼロの問いは短い。だが、その一言に、すべてを察しようとする鋭さがあった。
「そうだね、過去を懐かしみたいけど……僕にはもう、ほとんど力が残されていない」
エックスは一度言葉を切った。周囲の誰かが、息を呑む音がした。私の心臓も、嫌な予感とともに強く打ち始める。
「シグマが復活した」
その言葉は、重く、冷たく響いた。
「――なんだと!!」
ゼロの声が、遺跡を震わせる。
「さらにオメガとダークエルフを支配している」
「……」
ゼロの表情が、わずかに険しくなる。
「イレギュラーウイルスのワクチンはできた。でも……はっきり言うよ。彼らと戦えるのは、君だけだ」
エックスの声は静かだった。けれど、それは逃れられない現実だった。
「僕は、もうすぐ完全に死ぬ」
その瞬間、時間が止まったように感じた。
「死ぬ、だと」
ゼロの声が低く落ちる。私は、何も言えなかった。分かっていたはずなのに、受け入れられていなかった現実が、目の前に突きつけられる。
「そうだ。だからゼロ……君にこの世界を託したい」
エックスは、優しく微笑んでいた。
「シグマから、人類を、レプリロイドたちを守ってあげてほしい」
その姿が、少しずつ薄れていく。
「大丈夫。君ならできる。本当に大切なものが分かっているんだから……きみ、なら」
「――待て、エックス!!」
ゼロが叫んだ。けれど、その手は届かない。
「ふふ……僕は……君が眠ってから……一人で戦い続けた……」
声が途切れ途切れになる。
「きみ……の……ばん……だ」
光が、崩れる。
「ごめんね……ゼロ」
その言葉を最後に、エックス様の姿は完全に消えた。静寂。誰も、動けなかった。気づけば、私は膝をついていた。周囲の人々も、レプリロイドたちも、同じように頭を垂れている。
救世主が、消えた。その場所には、一振りの剣だけが残されていた。淡く光を放つ、ブレード。ゼロがゆっくりと歩み寄る。
そして、その剣を手に取った。
「これは……俺の剣、か」
その声は、どこか遠くを見ているようだった。
「エックス様がずっと持っていたものです。ゼロ様」
レヴィアタンが静かに言う。
「お前は?」
「私は、エックス様のDNAを元に作られた四天王の一人、レヴィアタンと申します」
「……敬称はいらん」
短く言い捨てるゼロ。その横顔を見て、私は理解した。この人は、英雄なんかじゃない。戦うために存在する者。すべてを背負い、それでも前に進む者。
だからこそ――。
私は立ち上がった。
「ゼロ……お願い」
もう一度、言葉を紡ぐ。今度は、逃げずに。
「この世界を……助けて」
ゼロは何も答えなかった。ただ、剣を握りしめる。その手に宿る力が、すべてを物語っていた。
――戦いが、始まる。
☆ ☆ ☆
森は静まり返っていた。先ほどまで眠り続けていた遺跡とは違い、外の世界は確かに生きているはずなのに、その気配はどこか歪んでいる。
私は何度も後ろを振り返りそうになるのをこらえながら、前を歩いた。ゼロが、すぐ後ろにいる。その事実だけで、胸の奥がざわつく。安心なのか、それとも畏れなのか、自分でも分からない。
「……」
彼は何も言わない。ただ、静かに私たちの後をついてくる。足音すらほとんど立てず、まるで風のように。
(本当に……この人が、あのゼロ……)
記録の中の存在。エックスと並び立つ、伝説。けれど、背後に感じるその気配は、伝説という言葉では足りない何かだった。
「シエル、あまり後ろを気にしないで」
小声でレヴィアタンが言う。
「……え?」
「今は説明よりも移動が優先よ。この辺り、まだ安全とは言い切れない」
その言葉に、私ははっとした。確かにその通りだ。ここは封印の地。シグマウイルスの影響が残っていてもおかしくない。
「ごめんなさい……」
「いいのよ」
レヴィアタンは短く答えると、再び前を向いた。ゼロは、そのやり取りを聞いていたはずだが、何も言わない。
ただ、周囲に目を配っている。
警戒しているのが分かる。けれどそれは恐れではなく、戦う者の本能のようなものだった。やがて森を抜けると、視界が開けた。
岩肌に囲まれた隠された施設。レジスタンスの基地。入口が見えた瞬間、見張りのレプリロイドがこちらに気づいた。
「戻ったぞ!」
その声が響くと、内部が一気にざわめいた。
そして――
「ゼロ様だ……!」
「本当にゼロ様が……!」
人々が、レプリロイドたちが、次々と集まってくる。その視線は、驚きと、畏怖と、そして――希望に満ちていた。
私は立ち止まりそうになった。その空気に、押し潰されそうになる。
(みんな……この人に、全部を託そうとしてる……)
それほどまでに、絶望が深かったのだ。ゼロは、その視線を受けても何も言わなかった。ただ、一瞬だけ周囲を見渡す。その目は冷静で、感情の揺れはほとんど感じられない。
けれど――ほんのわずかに、何かを測るような光が宿っていた。
「……エックス様は?」
その声が、空気を切り裂いた。ハルピュイアだった。彼は静かに歩み寄り、レヴィアタンに問いかける。レヴィアタンは、少しだけ目を伏せ――
そして、ゆっくりと首を横に振った。それだけで、すべてが伝わった。ざわめきが、止まる。誰もが言葉を失い、肩を落とす。
その場に重い沈黙が落ちた。
(……エックス……)
胸が締め付けられる。まだ、どこかで信じていたのかもしれない。戻ってきてくれると。けれど――現実は違う。
その代わりに、ここにいる。もう一人の英雄が。
「……お初にお目にかかります、ゼロ様」
ハルピュイアが、改めて頭を下げる。
「……敬称、敬語はいらん。ゼロでいい」
短い言葉。
「今、何が起きているのか説明してもらう」
「……承知した。ゼロ。こちらへ」
ハルピュイアはそう言って、基地の奥へと歩き出した。ゼロも、何も言わずにそれに続く。私も――自然と、その後ろについていた。
基地の内部に入ると、さらに多くの視線が集まった。人間たち。レプリロイドたち。皆、ゼロを見ている。そして――
「助けてください!」
「シグマを……!」
次々と声が上がる。悲鳴に近い懇願。その一つ一つが、胸に刺さる。けれどゼロは、立ち止まらない。何も答えない。
ただ、まっすぐに歩き続ける。
(……無口、なのかな)
そう思った。でも違う気もした。これは、無関心ではない。まだ、判断しているのだ。この世界を、そして自分の役割を。やがて、基地の最深部へと辿り着いた。
作戦室。ここが、すべての中枢だ。ハルピュイアが振り返る。
「まずは、ここにいる者たちの自己紹介から始めたい」
その言葉に、全員が姿勢を正した。
「……ゼロだ」
それだけだった。だが、それで十分だった。一人一人が、順に名乗る。四天王。研究者。技術者。戦士。そして――。
「私はシエル。よろしく、ゼロ」
自分の番が来て、私は言った。少しだけ緊張していた。ゼロは、こちらを見た。
「……ああ」
短い返答。それだけなのに、不思議と軽く息が抜けた。
(ちゃんと……聞いてくれてる)
無関心ではない。むしろ、すべてを受け止めようとしている。そんな気がした。
「……今、何が起きているのかを説明してくれ」
ゼロの言葉に、ハルピュイアが前に出る。
「シグマが復活した理由は不明。しかし奴は、かつて追放されたレプリロイドオメガを従え、さらに――エックス様が封じていたダークエルフを支配している」
空気が張り詰める。
「我々も一時はシグマウイルスに侵されていた。しかし、ここにいるシエル様が抗体を開発し、現在は抑え込んでいる」
ゼロの視線が、一瞬こちらに向く。その目に、わずかな興味が宿った気がした。
「……シグマに、オメガか」
低く呟く。
「俺は、奴らを破壊すればいいのか?」
単純で、明確な問い。だが――。
「……できれば、その後も」
ハルピュイアが続ける。
「世界を救った英雄として、我々を導いてほしい」
その言葉に、部屋の空気が揺れた。誰もが同じ願いを抱いている。ゼロは、少しだけ目を伏せた。
「……俺は、自分を英雄だと思ったことはない」
静かな声。
「エックスのように、正義の味方でもない」
その言葉は、自嘲のようでもあり、事実の確認のようでもあった。
「俺は、目の前の敵を倒すことしかできない」
それが、彼の在り方。それでも――。
「それで、いいんです」
気づけば、私は口を開いていた。自分でも驚いた。
「それでも……今、この状況を変えられるのは、あなたしかいない」
言葉が震える。けれど、止めなかった。
「みんな、怯えている。未来を失いかけている」
一歩、前に出る。
「エックスがいない今……あなたしかいないの。お願い、助けてゼロ」
沈黙。ゼロは、何も言わない。ただ、考えている。長い、長い時間のように感じられた。やがて――。
「……分かった」
小さく、しかし確かに頷いた。その瞬間、空気が変わった。絶望に覆われていた空間に、ほんのわずかな光が差し込む。戦いは、これからだ。
けれど――確かに今、希望はここにあった。
☆ ☆ ☆
荒廃した都市の地下深く。
かつては人間たちの研究施設だったその場所は、今や異様な静寂に包まれていた。
壁は焼け焦げ、配線は剥き出しのまま垂れ下がり、ところどころから紫色の不気味な光が漏れている。それは単なる電力ではない。空間そのものが侵食されているかのような――イレギュラーの気配だった。
その中心に、巨大な影があった。
イレギュラーシグマ。
その姿はかつての威厳ある指導者の面影を残しながらも、もはや別の存在へと変質している。鋭い眼光の奥には、理性と狂気が奇妙に混ざり合った光が宿っていた。
「クックック……面白い展開になったぞ、VAVA」
低く、くぐもった笑い声が空間に響く。その声に応じるように、闇の中から一体のレプリロイドが姿を現した。
VAVA。
重厚な装甲に身を包み、その一挙手一投足に暴力の気配をまとっている。彼はゆっくりと歩み寄り、シグマを見上げた。
「ほう、一体どうなったんだ、シグマ?」
その声音には、期待と退屈が入り混じっていた。戦いこそがすべてである彼にとって、状況の変化は何よりの娯楽だ。
「私たちに抵抗する人間やレプリロイドたちが……ゼロを起こしたらしい」
一瞬の沈黙。そして――。
「……ククッ」
VAVAの口元が歪む。やがて、その笑いは抑えきれないものへと変わっていった。
「ハハハハハッ!! そうか……そう来たか!!」
その笑いは嘲笑であり、歓喜でもあった。シグマもまた、肩を震わせて笑っている。
「クックック……実に愚かで、そして実に興味深い」
二人の笑いは、まるで古い友人が再会したかのような軽やかさすら帯びていた。
「……それで、どうする? オメガをぶつけるのか?」
VAVAは腕を組み、わずかに首を傾ける。
「非常に愉快なことになりそうだな」
その目には、すでに戦場の光景が映っているかのようだった。紅い閃光。破壊。衝突。だがシグマは、ゆっくりと首を振る。
「いや……まずは別の余興から始めよう」
その声音には、冷たい計算が滲んでいた。
「VAVA。お前とゼロを戦わせてみようと思う」
「……ほう?」
VAVAの目が細くなる。
「情けない体で、どこまでできるのか……知りたいからな」
その言葉に、VAVAは一瞬だけ沈黙し――そして、再び笑った。
「ふっ……なるほどな」
低く、満足げな声。
「確かに、今のゼロがどれほどのものか……試してみる価値はある」
彼はゆっくりと拳を握りしめる。
「それにしても、ゼロも落ちたものだ。人間如きに掘り起こされ、都合よく使われるとはな」
その言葉には、明確な侮蔑が込められていた。だが――。
「――そう言ってやるな、VAVA」
シグマが口を挟む。その声は、どこか愉悦に満ちていた。
「確かに今のゼロの肉体は、かつてのものとは違う。制限も多いだろう」
ゆっくりと歩きながら、シグマは続ける。
「だがな……あの中身は変わらん」
その言葉に、VAVAの口元がさらに歪む。
「クック……つまり、暴れられるということか」
「そうだ」
シグマの目が怪しく光る。
「そして――オメガとの戦い」
その名が発せられた瞬間、空気がわずかに震えた。
「それは、実に面白い見世物になる」
言い切ることはしない。だが、その含みには十分すぎる意味があった。
「できれば……我々に抵抗するすべての者に見せてやりたいものだ」
人間も、レプリロイドも。希望を抱くすべての存在に。
「クックック……なるほどな、シグマ」
VAVAは肩をすくめる。
「お前は本当に、性格が悪い」
だが、その声には称賛すら混じっていた。
「オメガとゼロ……その関係に気づいた時の連中の顔……」
彼は想像するように目を細める。
「絶望するだろうな。エックスが作り上げたものが、すべて崩れる瞬間だ」
「フフフ……ああ、実に楽しみだ」
シグマは静かに笑う。その笑いは、もはや狂気そのものだった。ふと、VAVAが思い出したように言う。
「ところで……バイルだったか。あの人間はどうした?」
その名に、シグマの表情がわずかに歪んだ。
「ふん……」
軽く鼻を鳴らす。
「レプリロイドであれば、友として迎えてやってもよかったのだがな」
その言葉には、本気とも冗談ともつかない響きがあった。
「だが、あれは最後まで人間だと言い張った」
一瞬の沈黙。
「……だから、破壊してやったよ」
あまりにもあっさりとした言葉。そこに、罪悪感の欠片もない。
「ふん……そうか」
VAVAも特に興味を示さない。彼にとって重要なのは、戦う相手がいるかどうかだけだ。
「なら――俺は準備に入るとしよう」
ゆっくりと背を向ける。
「奴らのアジトに強襲をかける。ゼロの力、じっくり確かめさせてもらう」
その声には、抑えきれない闘志が宿っていた。
「ああ……任せたぞ、VAVA」
シグマは満足げに頷く。VAVAの背中が闇に消えていく。再び、静寂。だがそれは、嵐の前の静けさに過ぎない。
「クックック……」
シグマの笑いが、ゆっくりと広がっていく。
「さあ……始めようではないか」
その声は、まるで世界そのものに語りかけているかのようだった。
「希望と絶望の――舞台を」
その瞬間、遠くで何かが崩れる音がした。戦いは、すぐそこまで来ている。そして二人のイレギュラーの笑い声だけが、いつまでも暗闇に響き続けていた。
シグマとオメガだけじゃないんだよなーゼロの相手は('ω')