白い光に満たされた医療区画は、いつもより静かだった。機械音だけが、規則正しく響いている。その中心に――ゼロはいた。
銃弾に貫かれた内部構造も、応急処置ではなく、ほぼ完全な修復が施されていた。シエルは、最後の確認を終えて小さく息を吐く。
「ゼロ……あなたの治療は終わったわ」
静かに告げる。
ゼロはゆっくりと目を開いた。
「……助かった」
短い言葉。
それだけで、彼が無事であることが分かる。
(よかった……)
胸の奥にあった緊張が、少しだけ解ける。
だが――
(……いいえ)
シエルは表情を引き締めた。まだ終わっていない。どうしても、聞かなければならないことがある。視線を上げる。周囲には、四天王と数名の関係者たちが控えていた。
誰もが、同じことを思っている。同じ疑問を抱えている。その沈黙を破るように、シエルは口を開いた。
「……お礼はいいの」
一歩、ゼロに近づく。
「でも、聞かせてほしいことがあるわ」
ゼロの視線が、わずかにこちらへ向く。
「どうして……あなたは、自分がイレギュラーだということを否定しなかったの?」
空気が張り詰める。それは、この場にいる全員の疑問だった。ゼロは一瞬だけ、わずかに眉をひそめた。その視線が、周囲を一瞥する。
集まる視線。
期待と、不安と、恐れ。
それらを受けて――
小さく、ため息をついた。
「……イレギュラーとは何だと思う?」
逆に問われる。シエルは少しだけ戸惑う。だが、答えないわけにはいかない。
「……それは」
言葉を選びながら口にする。
「人間に手を上げるレプリロイド……じゃないの?」
それは、一般的な定義。少なくとも、この時代では。
だが――
「違う」
即座に否定された。迷いのない声。ゼロはカプセルから静かに立ち上がる。その動きには、すでに戦闘時の鋭さが戻っていた。
「イレギュラーとは……」
わずかに視線を落とす。
そして――
「創造主の願いを踏みにじる存在のことだ」
吐き捨てるように。
重い言葉だった。
シエルは息を呑む。
「エックスの創造主は……何を考えていたかは知らん」
ゼロは続ける。
「だが、おそらく――人類と世界を守ってほしいと願っていたはずだ」
「……ええ」
シエルは頷く。それは疑いようのないこと。エックスの行動が、それを証明している。
だが――
ゼロは一度、言葉を切った。そして。
「俺の創造主は違う」
その一言で、空気が変わった。
「人間を憎み……エックスを憎み……そして、エックスの創造主すら憎んでいた」
「……えっ?」
思わず声が漏れる。
理解が追いつかない。
だが、ゼロは止まらない。
「そして俺は――」
静かに、しかし確実に告げる。
「エックスと、それを認めたすべての存在を……破壊するために作られた」
沈黙。完全な沈黙が、その場を支配した。
「……なっ……」
誰かが言葉を失う。シエルも、同じだった。頭が真っ白になる。
(そんな……)
もしそれが事実なら。
その時点で――
(確かに……イレギュラー……)
創造主の意図から外れた存在。あるいは、その意図そのものが異常。どちらにしても、常識の外にある。ゼロは静かに続ける。
「だが……俺にとってエックスは友だ」
その声は、先ほどまでとは違っていた。わずかに、柔らかい。
「人間は……エックスが守ろうとした存在だ」
一歩、踏み出す。
「たとえ創造主の願いでも……従うつもりはない」
その言葉に、揺らぎはない。
だが――
「だからこそ」
ゼロの視線がわずかに曇る。
「俺は眠りについた」
シエルは息を呑む。
「……え?」
「いつ、正気に戻るか分からなかったからだ」
静かな告白。
だが、その意味は重い。
(正気に戻る……)
それはつまり。
(本来の目的に従う存在に戻る……)
イレギュラーになることを恐れて。自らを封じた。その事実に、胸が締め付けられる。
「だから俺は……」
ゼロは遠くを見るように言う。
「過去の因縁に決着をつけたら、再び眠るつもりだった」
その言葉に、シエルの心が強く揺れる。
「そんな……」
思わず声が漏れる。だが、その時。ゼロの視線が、ハルピュイアへと向けられた。
「それでもなお……」
問いかける。
「俺に君臨しろと言うのか?」
静かな対峙。ハルピュイアは、わずかに目を閉じ――そして答えた。
「……ええ」
迷いはなかった。
「エックス様がいない今……そのことに人間たちは耐えられないでしょう」
視線を上げる。
「代わりの英雄が必要です」
その言葉に、シエルの胸が痛む。だが、否定できない現実でもあった。
「……俺は英雄じゃない」
ゼロは静かに言う。
それでも。
「……分かった」
受け入れる。
その代わりに。
「一つだけ、条件がある」
空気が再び張り詰める。
「何でしょう?」
ハルピュイアが問う。ゼロは一切の迷いなく言った。
「俺が正気に戻ったら――」
その瞳は、どこまでも冷静だった。
「その時点で破壊できるように、爆弾を仕掛けてほしい」
凍りつく。誰も、すぐには言葉を返せなかった。シエルの手が、わずかに震える。
(そんなこと……)
だが――
それが、彼の覚悟。
彼の選択。
ハルピュイアが静かに頷く。
「……承知した」
重い決断。
「シグマたちとの戦いが終わった後に、仕掛けさせていただく」
そして、視線がシエルへと向けられる。
「任せていいですか、ドクターシエル?」
その問いに――逃げ場はなかった。シエルはゆっくりと息を吸う。震えを押さえ込む。
そして。
「……分かったわ」
はっきりと答えた。
「ここにいる者だけで……内密に行う」
その言葉を口にした瞬間、胸が強く痛んだ。それでも。視線を逸らさない。ゼロもまた、何も言わずにそれを受け止めていた。
静かな決意が、そこにあった。
☆ ☆ ☆
「ゼロ!」
幼い声が、無機質な基地の空気を震わせた。
シエルはその声の主――アルエットへと視線を向ける。
小さな体で一生懸命に駆け寄り、ゼロの前で足を止める。
「怪我は大丈夫?」
心配そうに見上げるその姿に、ゼロはほんのわずかに表情を緩めた。
「……ああ」
短い返答。
それでも、その声音には柔らかなものが混じっている。ゼロは手を伸ばし、アルエットの頭をそっと撫でた。ぎこちないようでいて、どこか慣れている仕草。
アルエットは嬉しそうに目を細める。
「でも、ゼロ強いんだね!!」
無邪気な声が弾む。
「私なら、あのイレギュラーに何もできなかったと思うの!」
その言葉に、ゼロは少しだけ目を伏せた。
「……お前は戦闘用レプリロイドじゃない」
静かな声。
「俺は戦闘用だ。その違いだ」
それだけ。
それ以上は語らない。
だが――
(本当に、それだけなの……?)
シエルは胸の奥で問いかける。違う。それだけではない。
ゼロの強さは、単なる設計の違いでは説明できない。
(信念……)
彼には、それがある。
揺るがない軸。
何度壊れても、何度倒れても立ち上がる理由。
(エックス……)
思い浮かぶのは、もう一人の英雄。
そしてゼロが語った友。
彼は今も、その存在を信じている。
だから戦う。
だから守る。
だから――自分を犠牲にすることすら厭わない。
(……私たちは)
シエルは視線を落とす。
胸の奥が、じくじくと痛む。
(その期待を……裏切った)
思い出す。
自分が生み出してしまったもの。
影。
歪んだ理想。
エックスの名を借りた、偽りの存在。
(私が……あんなものを……)
拳を握る。
爪が食い込むほどに。
本来なら。
エックスがいなくても、人間は、自分たちの力で立つべきだった。導き手に頼らず。象徴に縋らず。それでも進むべきだった。
だが現実は違った。
(私たちは……耐えられなかった)
エックスを失った世界に。その不在に。空白に。
そして今――
(今度は……ゼロに頼っている)
もう一人の英雄。
紅き破壊神。
その存在に、希望を見出している。
けれど。
(それは……同じことじゃないの……?)
また、誰か一人に背負わせている。
また、誰かに救いを求めている。
それは――
(……間違いなのかもしれない)
だが。
それでも。
シエルは顔を上げる。
ゼロを見つめる。
アルエットと話す、その姿を。
(それでも……)
完全に否定することもできなかった。
なぜなら。
(あの人がいるだけで……)
人は前を向けるから。希望を持てるから。それは事実だった。そしてその希望を――今度こそ、無駄にしてはいけない。
(私たちが……変わらなきゃいけない)
与えられる側ではなく。支える側へ。共に進む存在へ。そのために。
(私は……)
決意が、胸の中で静かに形になる。
その時だった。
「ねぇ、ゼロ?」
軽やかな声が空気を切り替える。振り向けば、レヴィアタンがゼロの前に立っていた。
どこか挑発的な笑み。
「私と模擬戦しない?」
腕を組みながら言う。
「あなた、まだ本調子じゃなさそうだし?」
ちらりと視線を送る。
「ファーブニルだけに任せるのは、ちょっと癪なのよね」
その言葉に、周囲の空気が少しだけ和らぐ。
ゼロは一瞬だけ間を置き――
「……分かった」
短く応じた。
アルエットの頭から手を離す。名残惜しそうに見上げる彼女に、ほんのわずかだけ視線を向けてから。ゼロは歩き出した。レヴィアタンと並び、模擬戦用の区画へ向かう。
その背中を、シエルは見つめる。
(まだ……完全じゃない)
分かっている。
あの戦いのダメージ。
そして――内側に抱えているもの。
それでも彼は、戦うことを選ぶ。
(……だからこそ)
シエルははっと我に返る。
「パッシィ!」
声を張る。
「この模擬戦、基地全体に映せる?」
少し間があって、返事が返ってくる。
「え、ええ! すぐ準備するわ!」
「お願い!」
胸の鼓動が少し速くなる。
(みんなに見せなきゃ)
ゼロの戦いを。
その姿を。
強さだけじゃない。
覚悟も。
そして――
(私たちが、どう向き合うべきかも)
モニターに映し出される準備が整う。シエルは静かに画面を見つめた。そこに映るのは、紅い戦士。希望であり。同時に、危うさを抱えた存在。
(ゼロ……)
心の中で名前を呼ぶ。
(もう、あなた一人に背負わせたりしない)
それが後悔から生まれた決意。
そして――
(今度こそ……一緒に進む)
それが、彼女の希望だった。
☆ ☆ ☆
水面が揺れる。静かな施設の中に作られた人工水域。だがその内側で、私の鼓動だけがやけにうるさく響いていた。
(……何、この感じ)
胸の奥が熱い。落ち着かない。それなのに――嫌じゃない。
むしろ。
(……高揚してる?)
レヴィアタンは、自分でも信じられない感覚に戸惑っていた。戦いの前の緊張とは違う。勝利への渇望とも違う。もっと、個人的で。もっと、内側から湧き上がる衝動。
(ゼロ……)
視線の先。水面の向こうに立つ、紅い戦士。彼を見ていると――この感情が強くなる。だから確かめたかった。この感情の正体を。
戦えば分かると、そう思った。
「悪いわね、ゼロ」
わざと軽い口調で言う。
「私に有利な場所で戦うことになって」
ここは水中。
私の領域。
私のために作られた戦場。
それでも。
「……構わん。それも必要だ」
ゼロは、何の迷いもなく受け入れた。その態度が――少しだけ癪に障る。
(……何それ)
私に有利? そんなの関係ない?
まるで。
(ハンデを背負っても勝てるって言ってるみたいじゃない)
胸の奥で、何かが弾ける。
怒り。
でも、それだけじゃない。
期待。
(……後悔させてあげる)
心の中で呟く。ファーブニルとの戦いを見た時から。ずっと、この感覚は消えなかった。体の中心が、ざわつく。
(私は……何がしたいの?)
勝ちたい? それとも――答えは出ないまま。水中へと身を投じた。冷たい水が、全身を包み込む。それと同時に、思考が研ぎ澄まされる。
戦闘が始まった。私は水を蹴る。流れを操り、加速し、旋回する。この空間では、私が支配者。
だが――
(……速い)
ゼロは、水中でも動きが鈍らない。まるで陸上と変わらない動き。いや、それ以上に無駄がない。最低限の動きで、最大の距離を詰めてくる。
(でも……)
距離を取ればいい。私の武器は間合い。ジャベリンを構え、上空――いや、水上に近い位置から攻撃する。近づかせない。
それが最善。
そう、思っていた。
なのに。
「っ……!?」
気づいた時には――
ゼロが、目の前にいた。しかも。
(無傷……!?)
あり得ない。あの弾幕を抜けて。この水中で。私の間合いを突破して。
(VAVAとの戦い……あれで適応したの……?)
ぞくり、とした。恐怖ではない。歓喜に近い何か。赤い刃が振るわれる。一撃目――回避。二撃目――ジャベリンで受ける。
だが。
「くっ……!」
体勢が崩れる。
流れが乱れる。
そして。
冷たい感触が、首元に触れた。セイバー。あと一歩で――終わり。負け。それなのに。ゼロは、斬らなかった。
静かに刃を引き、水中の足場へと着地する。その背中を見て。
私は――
「……ははっ」
思わず、笑っていた。負けた。完全に。
何もさせてもらえなかった。なのに。
(……嬉しい)
胸が高鳴る。
さっきまでよりも、ずっと強く。
「ふふ……」
言葉が、勝手に零れる。
「でも嬉しいわ……」
ゼロを見る。
「私をここまで……何もさせずに打ち負かす人が現れるなんて……」
呼吸が、少し乱れている。でも、それすら心地いい。
「私……」
言いかけて。
止まる。
(何を言おうとしたの?)
頭の中に浮かびかけた言葉。
それは――
(……違う)
否定しようとする。
だが、消えない。
エックス様から託された使命。
そのはずなのに。
(これじゃ……まるで)
自嘲が漏れる。
(恋する乙女じゃない)
あり得ない。そんなもの。私は戦うために存在している。エックスの遺志を継ぐ者。そのための存在。それなのに。目の前の男に――心が揺れている。
(……でも)
否定しようとして。
やめた。
意味がない。
これは、事実だ。
私は。
(ゼロに……惹かれている)
その結論は、あまりにもあっさりと胸に落ちた。理由も、理解できる。劣った体。それでも戦い続け。エックスの隣に立ち。世界を救った存在。
その強さ。
その在り方。
(……ふふ)
口元が緩む。
(私に相応しいのは……)
そんな存在は、一人しかいない。
「……あなたの存在が、私をおかしくするわ」
正直に言う。
もう隠す必要もない。
「私は……あなたを倒す」
それは矛盾しているようで。でも、確かな本音だった。戦いたい。もっと。この衝動の正体を、知るために。体が変形を始める。
第二形態。
本気の戦闘形態へ。
だが――
『レヴィアタン! 何を考えている!!』
通信が割り込む。
苛立ちが走る。
(……邪魔)
『これは模擬戦だぞ! 何故第二形態になろうとしている!』
キザったらしい声。ハルピュイア。
「別にいいでしょ?」
わざと軽く返す。
「オメガと戦うなら、同じくらい大きい相手とも戦っておくべきでしょ?」
『それは……そうだが!!』
歯切れが悪い。その様子に、少しだけ笑みが深まる。そして。
「構わん」
静かな声。ゼロ。
「オメガと戦うなら……巨大な相手との模擬戦も必要だ」
その一言で、すべてが決まる。
胸が高鳴る。
(……やっぱり)
この人は。
私の期待を、裏切らない。
「ふふっ……嬉しいわ、ゼロ」
完全に変形を終える。水が渦を巻く。力が満ちる。
それでも――
心は、さっきよりもずっと軽かった。
「さぁ……始めましょう?」
この戦いの先に。
この感情の答えがあると信じて。