モニター越しの水面が、大きく揺れた。
基地の一角に設置された大型スクリーンには、ゼロとレヴィアタンの戦闘がリアルタイムで映し出されている。
水中を縦横無尽に駆ける影と、それを追う赤い閃光。その一瞬一瞬から、目が離せなかった。
「シエル、ゼロ様は凄いね」
思わず漏れた言葉に、隣の彼女は静かに頷く。
「そうね、ミラン」
短い返答。けれど、その声には確かな実感がこもっていた。画面の中で、氷塊が降り注ぐ。レヴィアタンの攻撃。水中で生成された無数の氷が、軌道を変えながらゼロへと殺到する。
回避は困難。
普通なら、逃げ場はない。
だが――
「……見切ってる」
思わず呟いた。ゼロは、一歩も無駄にしない動きでそれを避ける。ただ避けるだけじゃない。氷の軌道を理解している。
そして、その隙間を縫うように踏み込み――反撃。
まるで。
「VAVAとの戦いから、適応した……?」
口に出した瞬間、自分でもそれが一番しっくりくる答えだと分かった。
「あなたもそう思う? ミラン」
シエルが視線をこちらに向ける。
「……そう思う」
頷くしかなかった。戦いながら、学び、変わる。そして即座に次へと活かす。それがどれほど異常なことか、分かっている。
だからこそ――画面の前に集まる者たちの反応も、自然だった。
「いけー!」「ゼロ様!」
歓声が上がる。人間も、レプリロイドも関係ない。皆が同じ方向を見ている。ただ一人。紅い戦士を。
……いや。
少しだけ違う者たちもいる。ミュートスレプリロイド。レヴィアタンの配下たち。彼らは腕を組み、不満げに画面を見つめている。
だが、それでも。
(……否定はしていない)
ゼロの強さを。認めている。だからこそ、彼らの視線には別の感情が混じっていた――レヴィアタンへの期待。その証拠に。
「……あれは」
誰かが息を呑む。画面の中で、レヴィアタンの姿が変わる。
「第二形態……」
巨大な影。ヒレを広げ、まるで巨大な水棲生物のように変貌する。水流を巻き込み、速度を増し、空間そのものを支配する。
あれが、本来の戦闘形態。それに対して。ゼロは――変わらない。ただ、構える。そして。突進を避ける。最小限の動きで。
次の瞬間には、すでに間合いの内側へ。セイバーが閃く。確実に。正確に。ダメージを刻んでいく。
(……すごい)
単純な言葉しか出てこない。距離を取っても。関係ない。ゼロは、最短距離を見抜く。無駄のない軌道で詰める。
そして、斬る。
(これが……)
長い戦いの積み重ね。積み上げてきた経験。それが形になったもの。だからこそ。誰もが理解する。
(……英雄だ)
本人が否定しても。「正義の味方じゃない」と言っても。関係ない。目の前の現実が、それを否定させない。
あの背中を見れば。誰だって思う。
――英雄だ、と。そして。
その認識が、胸を締め付ける。
(……まただ)
嫌な感覚。既視感。かつて。自分たちは同じことをした。オリジナルのエックスに。
(俺たちは……)
彼に、何をしてきた?守ってもらうことを当然のように思っていた。決断を委ねた。責任を押し付けた。
彼なら何とかしてくれると。
信じて。
……いや。
(依存していた)
それしか、できなかった。弱かったから。だから。彼は最後まで戦い続けた。一人で。皆の期待を背負って。
そして――
(……死んだ)
思考が止まりかける。胸の奥が、重く沈む。
(違う)
あれは結果のはずだ。直接の原因じゃない。
でも。
(本当に関係なかったって……言えるのか?)
誰もが彼に頼りすぎた。それは事実だ。彼の意思を尊重するよりも。彼の強さに甘えた。その積み重ねが――彼を追い詰めた可能性を。
完全に否定できるのか?
(……できない)
だから。今。目の前で起きていることが、怖かった。歓声。期待。信頼。すべてが、同じ構図に見える。
(また……同じことをしてる)
ゼロに。彼に。同じ重圧を。同じ役割を。押し付けようとしている。皆が。
そして――
(……俺もだ)
視線を落とす。拳が震えていた。自覚してしまったから。自分もまた。ゼロに期待している。
頼ろうとしている。
(最低だ……)
何も変わっていない。後悔したはずなのに。エックスの時に。悔やんだのに。同じことを繰り返している。
名前が違うだけで。対象が違うだけで。本質は、何も変わっていない。
(……俺は)
何をしている。そんな自責の中で。ふと、別の考えが浮かぶ。
(せめて……)
全部は無理でも。自分だけでも。変わらなければ。誰かに背負わせる側じゃなく。支える側に。
(シエルを……守る)
それくらいは。自分にもできるはずだ。ゼロが示している。肉体の強さだけじゃない。技量と、意志で。
戦えることを。
(……なら)
強くなればいい。少しでも。自分の足で立てるように。ミュートスレプリロイドたちに頼むのもいい。
稽古をつけてもらう。笑われてもいい。それでも。何もしないよりは、ずっといい。そう考えた、その時。
「……あ」
画面が大きく揺れた。次の瞬間。勝敗が決していた。ゼロが、レヴィアタンを捕らえている。第二形態は解除され。
その体を――横抱きにして。
まるで守るように。抱えている。一瞬の静寂。そして。歓声が爆発した。
「やった!」「ゼロ様!」
誰もが信じている。彼なら勝てると。シグマにも。オメガにも。VAVAにも。すべてに。
(……まただ)
胸が痛む。同時に。別の感情も湧き上がる。
(俺も……)
戦いたい。一緒に。あの場所で。同じ景色を見たい。でも。現実は違う。イレギュラーウイルス。それが蔓延している限り。
簡単には前に出られない。歯噛みする。何もできない自分に。そして。視線が、自然と細くなる。
(……シグマ)
すべての元凶。あの存在に。
敵意だけが、はっきりと形を持った。
☆ ☆ ☆
思わず、見とれてしまった。自分の体を横抱きにしているゼロの姿に。
水滴を滴らせたまま、無言で歩くその姿は、ただそれだけで一つの完成された像のようだった。無駄がなく、迷いもなく、ただ「そこにあるべき存在」として立っている。
その横顔を見上げながら、レヴィアタンはふと奇妙な感覚に囚われる。
(……似ている)
それは、自分に。だが同時に、自分ではない。
もっと深いところで――。
(……エックス様)
自分はエックスのDNAから生み出された存在。ならば、この感覚はどこから来るのか。ゼロを見ていると、胸の奥がざわつく。
それは、戦いの高揚とは違う。もっと静かで、しかし強い――執着。その正体に、気づきかけていた。
(……あなたは)
私を見ていない。いや、見ている。だがそれは「私」ではなく――
(エックス様を……見ている?)
確証はない。
だが、そう思った瞬間。
胸の奥が、少しだけ熱を帯びた。
それでも。
その表情は、あまりにも凛々しくて。抗う理由が見つからなかった。やがて医療区画に辿り着く。白い光に照らされた空間。
無機質なはずのそこが、どこか現実感を失って見えた。ゼロは無言のまま、私をベッドへと下ろす。
「……ここでいい」
短い言葉。それでも十分だった。すぐに医療担当のレプリロイドたちが集まり、損傷の確認を始める。だがゼロは、その場を離れなかった。
自分の傷はない。
それでも、ただそこに立っている。
まるで――見守るように。
(……どうして)
その理由を問う前に、別の感情が浮かび上がる。
(……欲しい)
その思考に、自分自身がわずかに驚く。だが否定はしない。
(この男を……私のものにしたい)
はっきりと、そう思った。
それは単なる好意ではない。もっと強く、もっと深い。――執着。
(……エックス様も)
記録で知っている。ゼロが眠りについた時。エックスは、慟哭したと。あのエックスが。誰よりも理性的で、誰よりも強かった存在が。感情を抑えきれずに。
叫んだ。
(なら……)
この感情は。
どこから来たものなのか。
(……引き継いでいるの?)
エックスのDNA。その中に残った、わずかな残滓。それが、今の自分の中で形を持っているのだとしたら。
(それでも……いい)
むしろ。それでいい。
そう思えた。
エックスの意思を継ぐ存在。そして、ゼロは――エックスを否定するために生まれた存在。
対極。
矛盾。
それなのに。
(結ばれるなら……)
それは、あまりにも皮肉で。
あまりにも――美しい。
(運命、じゃない)
小さく、笑みがこぼれた。
その時。
「問題ありません。軽微な損傷のみです」
医療担当が報告する。
「自己修復でも対応可能ですが、念のため補助処置を行います」
その言葉を聞いたゼロが、わずかに頷く。
「……そうか」
それだけ言って、背を向ける。
離れようとする。
(……待って)
考えるより先に、体が動いていた。
手を伸ばし、その腕を掴む。
ゼロが足を止める。
「……どうした?」
振り返るその視線に、一瞬だけ言葉が詰まる。
(何て言うの?)
分からない。
でも――
「な、なんでも……」
否定しようとして。
やめた。
「……ううん」
視線を逸らさずに言う。
「一緒にいて、ゼロ」
静かな願い。命令でもなく、提案でもなく。ただの本音。ゼロはわずかに眉を動かす。不思議そうな顔。
当然だ。理由がない。意味もない。ただの感情。
だが。
「……分かった」
短く、そう答えた。
それだけで十分だった。
(……やっぱり)
胸の奥が満たされる。
この感覚。
これは――
(私のもの)
はっきりと、そう思った。
(エックス様のものじゃない)
たとえ始まりがそこにあったとしても。今ここにあるこの感情は。紛れもなく、自分のものだ。否定する理由なんて、どこにもない。
(私は……)
ずっと待っていたのかもしれない。こういう存在を。自分と対等で。自分を超えていて。
それでも、手を伸ばせば届く場所にいる存在を。ようやく現れた。
なら。
(手に入れる)
自然な結論だった。焦る必要はない。シグマとの戦いが終われば。すべてが片付けば。その後でいい。
(ゆっくりでいい)
逃がさない。
必ず。
自分のものにする。
「……ゼロ」
小さく名前を呼ぶ。
「なんだ」
「……何でもないわ」
くすりと笑う。まだ、言わない。今はまだ、その時じゃない。レヴィアタンは、静かにゼロを見上げながら――
その決意を、心の奥底で固く結んだ。
☆ ☆ ☆
指令室に足を踏み入れた瞬間、空気の重さが肌を刺した。静まり返っているわけではない。むしろ、多くの者が息を潜め、言葉を選びながら議論を交わしている。しかし、そのすべての声がどこか張り詰めていた。恐怖と希望、そのどちらもがこの場には同時に存在している。
中央に立つのは――ゼロ。
紅き装甲の戦士は腕を組み、壁に寄りかかるようにして立っている。視線は鋭く、だが焦りはない。まるで、この場の喧騒とは無縁であるかのように、ただ静かに状況を見極めている。
その姿を見て、私はわずかに目を細めた。
(……やはり、只者ではない)
エックス様と並び立った存在。その片鱗は、すでに幾度となく見せつけられている。だが、それでもなお、完全に理解したとは言い難い。あの男の底は、未だ見えないままだ。
私の両隣にはファーブニルとレヴィアタン。後方にはミュートスレプリロイドたち、そして人間の科学者たち。シエル様もまた、資料端末を手にしながら静かに耳を傾けている。
この場にいる誰もが理解している。
ここでの決断が、この世界の命運を左右することを。
「……やはり我々ミュートスレプリロイドが捨て駒となり、ゼロ様をシグマの元へ行かせるべきかと」
低く、しかし迷いのない声が上がる。発言したのは前列に立つミュートスレプリロイドの一人だ。その瞳には覚悟が宿っている。自らの命を差し出すことに、ためらいはない。
だが――
「いや、それなら俺が行ってもいいんじゃねえか?」
間髪入れずに割り込んだのはファーブニルだった。腕を組み、口元にいつもの好戦的な笑みを浮かべている。
「なぁハルピュイア? 俺ならシグマウイルスにもある程度耐えられる。必死隊なんざ出すより、俺とゼロで突っ込んだ方がよっぽど現実的だろ?」
軽い口調。しかし、その奥には部下を失わせたくないという意志があることを、私は知っている。
私は一度目を閉じ、短く息を吐いた。
「いえ、ファーブニル様。あなた様は戦後の治安維持という重要な役割を担っている。ここで失うわけにはいきません」
答えたのはミュートスレプリロイドの別の個体だった。その声は冷静だが、どこか必死さを帯びている。
「ハルピュイア様、レヴィアタン様も同様です。我々が行くべきです」
その言葉に、室内の空気がさらに重くなる。――命のやり取りが、前提として語られている。私は視線をシエル様へと向けた。
「シエル様……シグマウイルスへの抗体ワクチンは、ミュートスレプリロイドにも投与可能でしょうか?」
問いかけながら、わずかな希望を抱く。もしそれが可能であれば、無意味な犠牲は避けられる。
シエル様は一瞬だけ目を伏せ、そしてゆっくりと口を開いた。
「……一応、完成はしているわ。ただ……実戦でどこまで機能するかは未知数よ」
「……そうですか」
やはり、確証はない。四天王である我々は既に耐性を持つ。だが、ミュートスや一般のレプリロイドに同じ結果が出る保証はない。
――賭けになる。
その結論に至った瞬間だった。
「……俺一人でいい」
静寂を切り裂くように、低い声が響いた。全員の視線が、一斉にゼロへと向けられる。彼は壁から背を離し、ゆっくりと歩み出た。その動きには一切の迷いがない。
「お待ちください、ゼロ様」
私は即座に言葉を返した。
「いくらあなたでも、イレギュラー化したレプリロイド、VAVA、オメガ、そしてシグマを同時に相手にするのは――」
「同時には来ない」
言葉を遮られた。
断言だった。
私は一瞬、言葉を失う。
「……根拠は?」
問い返すと、ゼロはわずかに目を細めた。
「シグマはそういう奴だ。裏で動き、戦場を操る。昔もそうだった」
その声には、確かな実体験に裏打ちされた重みがあった。
「だが今回は違う。最初から表に出てきている。それは――準備が整っているからだ」
ゆっくりと、言葉が積み重ねられていく。
「昔もそうだった。あいつらは一対一に括っている。それは連携が取れないからだ」
室内が静まり返る。
誰もが、その意味を理解したからだ。
「……だから、俺は一対一を繰り返すことになる。VAVA、オメガ、シグマ……その間にイレギュラーがいても敵じゃない」
吐き捨てるような声音。それはイレギュラーウイルスに侵された存在に対する……懺悔か、シグマに対する怒りか。
だが、その奥にあるのは本質は怒りではない。
――覚悟だ。
「……俺は悩まない」
ゼロはゆっくりと顔を上げた。
「目の前に敵がいれば、叩き斬る。それだけだ」
その言葉は、あまりにも単純で。しかし、だからこそ揺るがない。
「絶望なんかしない。エックスが守った世界だ」
一歩、前に出る。
「俺が守る」
その瞬間、空気が変わった。恐怖に支配されていたはずの場に、確かな熱が灯る。私は、無意識に拳を握り締めていた。
(……これが、ゼロか)
エックス様とは違う。優しさではなく、意志で立つ存在。だが――それでもなお、人を導く力がある。
「……分かりました」
私は静かに頭を下げた。
「ネオ・アルカディアへの転送準備を進めます」
顔を上げると、ゼロはわずかに頷いた。それだけだった。だが、その仕草一つで十分だった。この男は、一人で行く。
そして――
必ず戦い抜く。
エックス様の遺志を背負いながら。
(……ならば我々は)
私は視線を仲間たちへと向けた。
ファーブニルは笑みを浮かべ、レヴィアタンは静かに目を細めている。シエル様もまた、強い意志を宿した瞳でゼロを見つめていた。
(支えるだけだ)
この英雄を。
決して、一人にはしない。
それが――我々に課せられた役目なのだから。