シャドウチェイス   作:P-PEN

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一章 虚妄の安息

 

 

 岡山県・W山の深奥部は、未だに地獄の釜の底と化していた。界異の咆哮が木々の間を切り裂き、祓魔師たちの絶叫が血飛沫と共に夜気を震わせる。腐った土と内臓の臭いが混じり合い、黒い瘴気が粘つく霧のように立ち込めていた。

 

××は移動用祭具の限界出力を引き出しながら、文字通り死線を駆け抜けていた。背後では使役していた玩具たちが引き裂かれる音が続いていたが、彼は振り返らなかった。

 

 歪曲結界が空間をねじ曲げ、彼の身体を高速の残像と化す。木立をすり抜け、岩を蹴り、血溜まりを飛び越え、森の外縁まで一気に射出された。着地と同時に祭具の過負荷で左腕の皮膚が裂け、焼けるような痛みが走ったが、歯を食いしばって耐えた。逃走開始。

 

 それから正確に五時間十七分二十八秒が経過していた。池袋の西口は、相変わらずの喧騒に満ちていた。酔客の笑い声、呼び込みの野太い声、ゲームセンターの電子音、深夜の電車が鉄橋を渡る重低音。ネオンライトが濡れたアスファルトに反射し、人の波が絶え間なく流れていく。

 

 ××はフルフェイスヘルメットを深く被り直し、黒いスーツの襟を立ててその波に溶け込んだ。故意に人混みの中心を歩き、監視カメラの死角を計算しながら山手線沿いを北上する。一駅ごとに乗り換え、回り道をし、尾行の可能性を可能な限り潰した。

 

 誰かが追ってきている気配はなかった。都市部での活動を得意とするにxxとって山中での欺瞞が完全と楽観する事は出来ないが、それは追手がいたとして相手も同じ事――そもそも、追撃してくる可能性は低かった。

 

 (所詮、境界対策課)

 

 彼は心の中で繰り返した。やがて、古びた雑居ビルの裏口に辿り着いた。表向きはテナント募集の空きビルとして登録され、実際には複数の私設セーフハウスが点在する物件だ。

 

 非常階段を一つずつ上がりながら、××は息を殺した。足音を完全に消す訓練は、呪詛犯罪者となった頃から身体に叩き込んでいた。七階。最上階の角部屋。鍵は指紋と呪符認証の二重ロック。

 

 ドアを開けると同時に、彼は室内に滑り込んだ。分厚い防音・防呪扉を閉め、七重のジャミング符を起動。壁一面に貼られた護符が淡い青光を放ち、室内の霊的波長を完全に遮断する。窓には遮光カーテンと光学迷彩フィルムを重ね、外のネオンすら歪めて室内に届かせない。空気は淀み、古いカビと金属の匂い、わずかに残る先客のタバコの残香が混じっていた。

 

 ××はようやくフルフェイスヘルメットを外した。汗でびっしょり濡れた顔が、室内の薄暗い白色LEDに浮かび上がる。左目の下には深い隈ができ、右頰にはまだ乾ききっていない血の飛沫がこびりついていた。唇の端が切れ、歯茎から血の味がする。左腕の祭具アームは過熱で一部が溶けかけ、皮膚と融合した部分が痛々しく赤黒くなっていた。

 

 「……五時間と十七分」

 

 機械合成の声が、室内に低く響いた。ボイスチェンジャーを切っていない。感情の揺らぎを悟られたくないという、長い年月で染みついた習慣だった。彼は重い装甲を一部解除し、ソファに深く腰を沈めた。背もたれが軋む。肩の関節が悲鳴を上げ、疲労が一気に全身に広がった。テーブルの上には予め用意されていたミネラルウォーターと簡易食料があったが、手を伸ばす気にもなれなかった。今回生き延びたのは多分に運が絡んでいた事を自覚しているからだ――遭遇した特葬班は他の班や民間と混成で、正式な隊長である咎討(とがうち)もいなければ、エースである九鬼 鼎(くき かなえ)もおらず、厄介な縁起職員も不在。教派連合会職員を臨時リーダーとした、明らかな新人教導構成だった。そして、それでもなお形代一枚を削りのがやっとだった。噂以上の手練れ、フルメンバーだったならば機先を制されていた事を加味すると、xxの脱出は至難を極めたに違いない。

 

 「都市部の情報ノイズは……完璧ハズ」

 

 外では池袋の夜がまだ沸騰を続けている。数十万人の息遣い、思考のざわめき、電波、排気ガス、汗と化粧の匂い、ゴミの腐臭。それらがすべて白いノイズとなり、因果の糸を乱す。さらに自らが展開した三重のジャミング装置が、呪術的な探知を撹乱する。どんな祓魔師でも、ここまで追ってくるのは不可能に近い。少しだけ気がかりなのは境界対策課ではない祓魔師の存在――境界対策課の情報を傍受していれば、ある程度動向がわかる連中とは違うからだ。とはいえ

 

 「所詮……民間祓魔師」

 

 ××は低く、掠れた笑いを漏らした。自分の自慢の商品だけでなく、その後にⅣ号級の置換型境界異常と激戦の直後。依頼も報酬もないまま、視界の効かない夜間山間部を追跡し、奇跡的に後を辿れたとしても、更に管轄外の都市部へ深追いなどしてくるはずがない。

 

 W山での戦闘を思い返す。自分は確かに目立った。置換型境界異常の赤い森の中に侵入し、中心のあの界異とコンタクトを取ろうとしたし、その後やってきた境界対策課のいわくつきの班に絡まれ、喧嘩を買った。だが、それは単なる遭遇戦として認識されたはずだ。民間祓魔師にとって、報酬の見込めない追跡は単なるリスクでしかない。

 

 「もう安全圏」

 

 十分に距離を取った。××は目を閉じ、深く息を吐いた。肺の奥にまだ残る瘴気の残渣が、ゆっくりと疼いた。指先でヘルメットを軽く叩く。まだ熱を持った祭具が、かすかに振動していた。

 

 合理的な計算。冷徹な経験則。長年生き延びてきた現実認識が、全てを裏付けている。室内の温度は低く保たれ、静寂が彼を包み込む。遠くで聞こえる車のクラクションさえ、今は安堵の調べのように感じられた。

 

 しかし――安全を確信し、脳の緊張が緩んだその瞬間、泥のような疲労を突き破って、悍ましいほどの苛立ちが××の脳髄を焼け焦がした。

 

 「ワタシ、不愉快。猛烈ニ、不愉快……ッ!」

 

 ガタガタと歯の根が鳴る。思い出すのは、あの忌々しいW山の森。自慢の違法改造祭具を無残に引き裂かれ、泥を塗らされた屈辱。あの場所にいた女たちの、自分を侮蔑するような視線。小生意気な小娘の挑発……更にその中には明らかに本気を出してなかった――片手間に自分の玩具を破壊されたのだ。

 

 いつもなら、彼は裏ルートでの祭具の販売や支援に徹し、手駒が揃わない状態で無駄なリスクを伴う単独での凶行など絶対に犯さない。それが彼の合理性だった。だが、今の彼の歪んだプライドは、そんな計算を維持できるほど寛容ではなかった。

 

 この胃液の煮えくり返るような屈辱を、今すぐ何処かにぶつけなければ、自己が崩壊してしまう。必要なのは、絶対に自分を脅かさない、抵抗する術を持たない圧倒的な弱者。それも、あの忌々しい緑の山――自然を連想させ、簡単に踏み潰せるような無垢な獲物だ。

 

 ××はソファから弾かれたように身を起こすと、まだ熱を持ったフルフェイスヘルメットの生体レーダーと、潜伏先のセーフハウスに直結された池袋の違法監視ネットワークを乱暴に操作し始めた。執念深く、しかし極めて迅速に、この街の死角にいる条件に合う獲物をスクリーニングしていく。

 

 数分と経たぬうちに、一つのデータがモニターに引っかかった。

 

 『如月 紗季(きさらぎ さき)。14歳、♀』

 

 実家は下町の小さな花屋。そして驚くべきことに、このセーフハウスから目と鼻の先にある寂れた雑居ビルの屋上で、今まさに独りで植物の世話をしているという。

 

 「見ツケタ」

 

 機械音声のイントネーションが、歪んだ歓喜で激しく波打つ。いつもなら拙速には仕掛けない、衝動的な襲撃計画。だが、××の頭脳は狂気の中でもエンジニアとしての冷徹な処理速度を発揮していた。少女を気絶させる『昏死』の術式構成、植物を内側から腐らせる瘴気噴霧装置の出力計算、周囲に展開するジャミングの範囲設定。わずか数百秒で、完璧な蹂躙のシナリオが組み上がっていく。

 

 あの森の女たちに負わされた傷を、この14歳の少女の尊厳を踏みにじり、その悲鳴を貪り喰うことで上書きしてやる。

 

 「……今スグ、行ク」

 

 ××はまだ汗の引かぬ顔に、再びフルフェイスヘルメットを乱暴に叩き込んだ。バイザーの奥で、白色の『×』が殺意を孕んでギラギラと明滅し始める。

 

 虚妄の安息を自ら蹴破り、怪物は夜の池袋へと這い出していった。死神の足音に気づかぬまま。

 

 

 

 

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