池袋の夜は、どこまでも人工的で、どこまでも腐っていた。雑居ビルの屋上は、コンクリートの荒野にわずかに残された緑の聖域だった。
地上では、絶え間なく流れる車のテールランプが真っ赤な血の河を形作り、濡れたアスファルトには濁ったネオンライトが毒々しく反射している。酔客の嬌声、客引きの傲慢な怒声、ゲームセンターから漏れ出る電子の悲鳴。数百万人の人間の欲望と排気ガスが混ざり合い、ぬるい夜気となって街を覆っていた。
だが、その喧騒から垂直に切り離された雑居ビルの屋上は、コンクリートの荒野にわずかに残された緑の領域。
如月紗季にとって、ここは世界でただ一つの安らぎの聖域だった。14歳の少女は、学校の制服の上に薄手のトレーナーを羽織り、毎日のようにこの屋上に上がってきた。誰にも言っていない秘密の庭。持ち上げたプランターや、拾ってきた空き缶を鉢代わりにした花々。祖母が最後に残してくれた沈丁花の苗が、特に大切だった。その甘く優しい香りが、紗季の小さな胸を静かに満たしてくれる。
少し癖のある、柔らかそうな栗色のショートボブを夜風に遊ばせながら、紗季は手元を愛おしそうに見つめていた。彼女の大きく澄んだ瞳は、ただの花屋の娘という以上に植物の命に対して聡明で、優しかった。学校の帰り道、誰も気に留めないコンクリートの隙間に咲く雑草の小さな花に気づき、そっと微笑みかけるような、そんな無垢な心が彼女の日常の全てだった。
「……今日も、いい子にしてた?」
誰に聞かせるでもない呟き。彼女を囲む世界は、無償の愛と平穏に満ちていた。下町の商店街で小さな生花店を営み、娘を深く愛してくれる誠実な父・誠一と、いつも朗らかな母・恵。そして、明日一緒に植物園に行く約束をしている同級生の親友・ハル。
紗季は水やりを終えると、ポケットからスマートフォンを取り出し、弾むような指取りでハルにメッセージを送った。
『新しい苗が届いたから、今度見に来て!』
すぐに既読がつく。そのささやかな画面の光が、少女の未来を温かく照らしているはずだった。
だが、その平穏は唐突に引き裂かれた。
「不必要ネ。ソレ、ゴミ。全部、不快」
驚いて振り返った紗季の瞳に映ったのは、不吉な黒い防弾スーツに身を包んだ異形の影だった。顔面を完全に覆うフルフェイスヘルメット。その中央にあるデジタルバイザーには、殺意を孕んだ白色の『×』の記号が、不気味にギラギラと明滅している。
××だった。
彼の脳裏は、今や岡山での敗北感と、自分の誇る違法改造祭具を破壊された屈辱による猛烈な苛立ちで満たされていた。いつもなら、複数のセーフハウスに身を潜め、裏ルートでのサポートに徹する冷徹なエンジニアであるはずの彼が、そのプライドの崩壊を食い止めるためだけに、理性を失って池袋の夜へと這い出してきたのだ。
必要なのは、絶対に自分を脅かさない圧倒的な弱者。それも、あの忌々しい森――「自然」を象徴し、踏み潰しても文句を言わない最高のストレス解消の道具。
「だ、誰……? ここは、立ち入り禁止で……」
怯えて一歩後退りする紗季。その手からスマートフォンが滑り落ちそうになる。
「ワタシ、××。アナタ、運悪イ。ワタシ機嫌悪イ」
××は金属製の左義肢を一歩踏み出した。彼の手には、禍々しい黒い瘴気を放つ筒状の違法祭具――瘴気噴霧装置が握られていた。
「やめて、来ないで……!」
紗季は本能的な恐怖に駆られながらも、祖母の形見である
「……見ロ。アナタの愛シタモノ、死ぬ音ネ」
××がトリガーを引くと同時に、ブツブツと泡立つような音を立てて、ドロリとした黒濁の霧が噴射された。黒い霧がプランターの花々を包み込む。パンジーやマリーゴールドは、まるで断末魔の悲鳴を上げるかのように、一瞬でどす黒く変色した。茎は中から腐り、粘つく不快な体液を滴らせながら、コンクリートの上にドサリと崩れ落ちていく。
「嫌ぁぁぁっ! やめて、お願い、やめて!!」
紗季の絶叫が夜空に消える。しかし、地獄は枯死だけでは終わらなかった。
××が展開した名伏の理を反転させる呪詛瘴気が、死んだ植物たちの残骸を強引に変異させ始める。腐った土から、ドクドクと脈動する肉の蔦が噴き出した。かつて沈丁花だったものは、少女の身の丈を超える悍ましい食肉植物へと変貌し、意思を持つ蛇のようにのたうち回る。骨のように白い、鋭利な棘を無数に生やした肉の蔦が、逃げようとする紗季の足首を捉えた。
「ヒッ、あ……嫌、痛い! 痛いよぉ!」
無残に吊り上げられた紗季の四肢を、変異した蔦がギリギリと締め上げる。白い棘が彼女のブラウスを引き裂き、柔らかな肌に深く食い込んで不浄な毒の瘴気を流し込んでいく。赤い鮮血が、黒く変色した床に広がっていく。
××は、少女が大切にしていたはずの植物たちが、自らの手を汚す拷問器具へと変わる光景を、ヘルメットのディスプレイを激しく点滅させて眺めていた。胃液の煮えくり返るような苛立ちが、少女の苦悶の表情によって、歪んだ悦楽へと上書きされていくのを感じる。
「良イ。悲鳴、非常ニ良イ。アナタ、明日、植物園、行キタカッタ? ……ここ、最高ノ地獄園ネ」
××は床に転がっていた紗季のスマートフォンを義肢で拾い上げると、液晶画面を乱暴にタップした。そこにはハルからの『楽しみ! 明日ね!』という、無垢な返信が残されている。××はそれを、涙と血にまみれた紗季の顔の前に突きつけた。
「ハル、助ケニ来ナイ。パパ、ママ、泣ク。アナタ、ここで腐ル。……ワタシ、心地良イ」
紗季はもがき、泣き叫び、ジョウロを振り上げて抵抗しようとしたが、××はそれを軽く払いのけた。水が床に零れ、枯れた花弁をさらに濡らす。無力。無力感。それこそが彼の求める儀式だった。少女の無垢な自尊心と、植物たちが奏でていた優しい安らぎが、黒い瘴気の中で粉々に砕かれていく。
池袋の雑居ビルの屋上は、もはや聖域ではなかった。そこは、一人の男の歪んだ復讐心が生み出した、血と死臭が渦巻く天空の廃園へと成り果てていた。