シャドウチェイス   作:P-PEN

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三章 落とし屋

 

 

 

 「サァ……終ワリネ。アナタノ『日常』、全ブ、ワタシが喰ウ」

 

 ××は歪んだ優越感に浸りながら、変異した肉の蔦をさらに強く身に纏わせた。蔦の棘が如月紗季の喉元に食い込み、不浄な瘴気の針が彼女の頸椎へ今まさに致命的な呪詛を注入しようとした、その刹那だった。

 

 ――世界から、唐突に音が間引かれた。

 

 池袋の夜を満たしていた数十万人分の喧騒。遠くを走る山手線の重低音。ビルの室外機が吐き出す不快な駆動音。あるいは、目の前で少女が絞り出していた悲痛な喘ぎ声。それら全ての聴覚情報が、まるで行き止まりの壁に衝突したかのように、一瞬で完全なゼロへと収束した。

 

 「……? アナタ、何、黙ッテ……」

 

 ××はいぶかしげにヘルメットを傾け、少女の顔を覗き込もうとした。しかし、異変は耳だけにとどまらなかった。急激な気温の低下。コンクリートが保持していた生温かい熱が急速に奪われ、バイザーの端がうっすらと白く曇り始める。それと同時に、都会特有の排気ガスと生ゴミの腐臭、そして自分が撒き散らした植物の腐敗臭さえもが、強制的に剥ぎ取られた。後に残ったのは、鼻腔の奥が痛むほどに研ぎ澄まされた、凍てつく無臭の空間――死の薫り。

 

 ××の背筋を、冷たい戦慄が駆け抜ける。あり得ない。室内に施した七重のジャミング、この屋上の外縁に張り巡らせた光学迷彩と霊的遮断結界は、今も正常に稼働しているはずだ。ヘルメット内のインジケーターは全てグリーンを示している。計算上、ここは完璧なデッドスペースであるはずだった。

 

 「捕捉」

 

 背後から響いたのは、感情の起伏が完全に削ぎ落とされた、硬質で鈴の鳴るような少女の声だった。

 

 ××のバイザーに表示された白色の『×』が、エラーを起こしたかのように激しく明滅する。彼は弾かれたように振り返り、金属の義肢をアスファルトに軋ませた。

 

 貯水タンクの影。一秒前まで、そこには確実に誰もいなかった。××のセンサーにも、呪術的な探知網にも、一切の感知反応(インパルス)は引っかからなかった。だが、そこにそれは立っていた。

 

 黒い迷彩柄のパーカー。その上に羽織った同色のロングコートが、夜風もないのに不自然に静止している。少し長めの前髪の隙間から覗く紅紫の瞳は、底の抜けた深淵のように濁り、光を一切反射していない。生きている人間のそれではない。滔々と影を湛えた眼が、ただそこにある処理すべき対象を見つめていた。

 

 黒瀬 澄(くろせ すみ)

 

 岡山県・W山のあの凄惨な戦場にいた、民間祓魔師の少女。xxの最新作品を苦も無くあしらった祓魔師。

 

 「……馬鹿ナ。アナタ、何ゼ、ここニイルッ!?」

 

 ××のボイスチェンジャーが、内部の動揺を隠しきれずに電子的なノイズを上げる。

 

 激戦を終えた直後のはずだ。まともな組織の人間なら、管轄外の都市部へ独断で、しかも報酬の保証もないまま深追いしてくるはずがない。それが彼の信じる合理性だった。何より、自分は五時間以上、因果の糸を幾重にも断ち切りながら逃走したのだ。探知される理屈がなかった。自らの追跡技術、隠蔽工作への絶対の自信が、目の前の現実を拒絶する。

 

 問われた黒瀬は、表情一つ変えなかった。ただ冷徹に唇を動かす。

 

 「ただの通りすがり。でも、貴方は殺す」

 

 抑揚のない声で、そう嘯いた。

 

 「狂ッテル……アナタ、人間ジャナイッ!化ケ物メッ!」

 

 ××は恐怖をかき消すように叫び、人質である紗季の体を強く引き寄せた。左腕の瘴気噴霧装置の銃口を黒瀬へと向け、いつでも最大出力を解放できる状態にする。せめて情報の優位だけでも保とうとする××の焦燥を、黒瀬はただ無言で見下ろしていた。

 

 彼女はもう、言葉を重ねない。黒瀬の右手が、コートのポケットから静かに引き抜かれた。その瞬間、××の視界の端、池袋の夜景を形作っていたはずのネオンの光が、グニャリと不気味に歪んだ。

 

 黒瀬の姿がかき消えた瞬間、危険を感知したxxが紗季の身体を盾として蹴り出すが、黒瀬はxxに対し間合いを調整し、人質から射線をずらす為に別角度に機動していただけ。そして

 

 残されたのは、世界を引き裂くような、縄鏢(じょうひょう)のワイヤーが空気を鋭く穿つ風切り音だけだった。

 

 

 

 大気を切り裂く金属音が屋上に鳴り響く。黒瀬の袖口から放たれたのは、細い鋼線に繋がれた一本の鏢――縄鏢だ。超高速で肉薄する銀の閃光に対し、××の脳内インプラントは一瞬でその軌道を演算した。

 

(――見切ったネ!)

 

 人質を蹴りだした事で、攻撃範囲を限定させた事と自分の身体をフリーにしたことが功を奏した。××は上体を不自然な角度にねじって鏢を回避すると同時に、金属製の左義肢でそのワイヤーを巧みに掴み取る。

 

 ただ回避するだけでは足りない。黒瀬澄という手練れのタクティカル祓魔師が、この間合いで単発の投擲を行うはずがない。避ければ必ずワイヤーを引き戻し、そのラグを利用して自分の死角である背中を背後から撃ち抜いてくる――この距離、この角度なら、相手の勢いを利用して自分の攻撃に転化できる——はずだった。そこまで予測した上での掴み。

 

 だが、それこそが致命的な誤りだった。いや、或いはそれも“予測を予測した”罠だったのか?

 

 ワイヤーがピンと張りつめた刹那、黒瀬の細い身体が軽やかに跳躍した。羽根のような前転。黒いコートが夜空に弧を描き、××の頭上を越えて通り過ぎる。一瞬、月明かりとネオンの残光が彼女の黒髪を照らし、鴉の翼を思わせる影を地面に落とした。一連の動作の間に、弛んだワイヤーが××の首に巻き付けられる。着地と同時に、黒瀬は一切の躊躇なくワイヤーを鋭く引き絞った。

 

 「が、はっ――!?」

 

 絞首。それと同時に、黒瀬の腕からワイヤーを通じて、どす黒い瘴気が一気に流し込まれる。××の肉体装甲を透過し、頸椎を内側から爆破するようにして切断した。

 

 ガハッと、ボイスチェンジャー越しに生々しい血の音が漏れる。だがその瞬間、××の懐に忍ばせていた七枚の形代紙のうち、二枚が青白い炎を上げて激しく燃え尽きた。身代わりの術式が強制起動し、××の肉体は死地を逃れる。

 

 リポップ――再出現の場所として、××は展開している障壁結界の内部をあえて選択。この状況から逃げきれると考える方が甘すぎる。逃げるにしても追撃の余力を削らないと全くの無意味と判断――逃げるだろうと考える事を逆手に取って反撃を選択することで奇襲のチャンスとなる。

 

 実体化した瞬間のために、××は左腕の瘴気噴霧装置のトリガーへ指をかけた。放つのは、相手が所持しているだろう形代紙を瞬時に朽ち果てさせ、無効化する特製の腐食瘴気。

 

 空間が一瞬歪み、xxの身体が短距離転移を試みる。首のワイヤーが解け、瘴気の侵食が一時的に途切れた。再出現した場所は、屋上のやや中央。しかしそこに、すでに黒瀬の姿はなかった。

 

 「どこ……!」

 

 視界を覆ったのは、予想外のものだった。水滴。黒瀬が拾ったジョウロを振って、浴びせかけたのだ。

 

 バイザーの表面に無数の水滴が付着し、ネオンの光を屈折させて視界を乱す。高度な光学センサーと呪術的補助を兼ね備えたヘルメットにとって、こんな原始的な手段が有効になるとは、××の計算の外だった。

 

 「ッ、算什么(クソがっ)ッ!?」

 

 一瞬、ほんの刹那の時間を使用し、××がセンサーのノイズを嫌ってバイザーの結露を拭った。そのコンマ数秒の隙に、死神は再び彼の背後に沈んでいた。

 

 足払い。

 

 完璧に計算された角度とタイミングで、××の重心を一気に崩す。身体が浮き、倒れ込みながら黒瀬の細腕が絡みつく。チョークスリーパーへの移行は、ため息が出るほどの流麗さだった。××は辛うじて顎を強く引き、気管への直撃をギリギリで耐える。しかし、脱出のスペースはどこにもない。背後から絡みつく黒瀬の肢体は、まるで鋼鉄の鋳型のようだった。さらに黒瀬は自らの右腕と両脚を巧みに絡ませ、××の右手と両足を外側へ逸らすようにして完全にロック。蛇に締め付けられる生贄のように、××が動かせるのは、唯一拘束を免れた左手だけとなった。逃れようとするたびに関節が軋み、瘴気がさらに深く流れ込む。

 

 「が……は……!」

 

 ××は左手で必死に背後を取る死神の腕を叩いたが、びくともしない。彼女の体温はほとんど感じられず、筋肉の収縮だけが冷たい事実として伝わってくる。人間離れした持久力と正確性。xxが拘束から何とか逃れようとあがく中、黒瀬は自らの長い黒髪から、静かに暗器――(かんざし)を抜いた。黒色の細い簪は、鴉神の文様が刻まれた簡易祭具でもあった。

 

 迷いなく、フルフェイスヘルメットの耳穴へと突き立てる。

 

バキリ、と金属と樹脂が悲鳴を上げる。簪の鋭利な先端が装甲を貫通し、××の右耳の奥へと深く侵入した。容赦なくねじりながら侵入したソレは、鼓膜を破り三半規管を完膚なきまで破壊し、蝸牛器官をぐちゃぐちゃにほじくり出す。

 

 「ア、ガ、ァァァァァァァッ!!! ギ、ィッ!!!」

 

 脳髄を直接沸騰した油で洗われるような、人生で一度も経験したことのない悍ましい激痛。機械音声さえもが引き裂かれ、××の喉から狂ったような悲鳴がほとばしる。脳内が強烈な眩暈で反転し、さらに二枚の形代紙がパチパチと音を立てて灰になった。都合四枚の消費。しかし、どれほど激痛に悶絶しようとも、黒瀬のホールドは一ミリも緩まない。極限の激痛の中でリポップ位置の修正など不可能だった。

 

 黒瀬が抉り出した簪を一度引き抜き、再び突き立てようとする気配に総毛立つ――死に物狂いだった。××は唯一自由な左手を全力で振り上げ、黒瀬の左手首を強打した。パキンと高い音がして、簪が夜の屋上へと弾き飛ばされる。阻止に成功した――。

 

 だが、それさえも、黒瀬が仕掛けた冷徹な罠だった。

 

 左手を全力で動かした反動で、××の肩が大きく開き、必死に引いていた顎が、わずか数ミリだけ上を向いた。黒瀬はその瞬間を逃さなかった。空いた隙間に、彼女の右腕が完璧に滑り込む。気管を強固に押し潰し、頸動脈の血流を完全に遮断する、一分の隙もないスリーパーホールドが完成した。

 

 (ハメられた――ッ!? 狙いは、最初からコレかッ!!)

 

 ××は薄れゆく意識の淵で、黒瀬の真の狙いを悟り、戦慄した。例え正規の祓魔師と同じだけの形代紙を隠し持っていようとも、術者自身が気絶してしまえば何の意味もない。意識を失った肉体はただの動かない標的であり、形代紙の枚数分、ただ無抵抗に首を撥ねられ続けるだけの肉塊に成り下がる。黒瀬は、最初から××を確実に殺すために気絶を狙っていたのだ。

 

 (ダメだ!もう何秒も持たない!) 

 

 視界が急速に黒い霧に覆われていく。完璧なスリーパーホールドは入ってから数秒で、ブラックアウトが起こる。急速に暗くなっていく視界のなか、××は残された左手を胸部のタクティカルベストへと走らせた。合理的な思考はすでに焼き切れていた。あるのは、この不条理な死神に対する、泥泥とした執念だけ。

 

 指先が、ぶら下がった呪榴弾のリングに触れる。

 

 (ワタシのスーツの防御数値なら、至近距離の爆発でも肉体は十分に耐えられる……形代紙の残数で、致命傷は相殺できるハズ……ッ!)

 

 カチリ、と信管が作動する小さな音が、××の壊れた耳の奥に響いた。意識が完全に途絶える寸前、彼は死に物狂いピンを引き抜いた。

 

 

 ――轟音。

 

 

 コンクリートの屋上が激しく震え、爆風と引き裂かれた火花が二人の肉体を乱暴に包み込んだ。至近距離での炸裂。凄まじい衝撃波が××の耐爆スーツの装甲を内側から軋ませ、肺胞の空気を強制的に叩き出す。形代紙がさらに燃える。だが、これでいい。この零距離の爆風を受ければ、背後で自分を締め上げている黒瀬とて無事では済まない。拘束さえ解ければ、まだ――

 

 爆煙が、夜風にさらわれて薄くなっていく。朦朧とする意識の中、××はひどく歪んだ視界のなかで自らの状態を確認した。自分は、まだ「立って」いた。

 

 いや、違った。立たされていたのだ。強引に。

 

 「あ……が、え……?」

 

 ××の思考が完全に停止する。背後にいたはずの黒瀬は、煤一つ付いていない無傷の状態で、××と柔道の組み合ったような状態を維持したままこちらを見つめていた。こちらが状況を把握できるまで、悠然と。

 

 彼女は、爆発のコンマ数秒前、××がピンを抜いた瞬間にホールドを解除していた。そして、拘束を解かれた解放感で前傾姿勢になった××の身体を梃子にし、自らの身体と爆心地の間に、××の肉体を滑り込ませていたのだ。××が命懸けで選んだ自爆の選択すら、想定の範囲内だったという現実だった。

 

 「……捨て身のタクティクス(戦術)など、評価に値しない」

 

 黒瀬の紅紫の瞳が、至近距離で冷たく細められる。その瞬間、彼女の全身から、これまでに蓄積されてきた加護出力が津波のように噴き出した。屋上の簡素なコンクリートに鮮やかな青い幾何学模様が描かれていく。

 

 極限の集中状態、あるいは死の直前の脳が見せる錯覚か。××の視界の中で、時間が極端にスローモーションへと引き延ばされていく。

 

 黒瀬の細い指先が、××の襟と、歪んだ金属の義肢の基部に深く掛けられる。組み技、あるいは投げ技の始動の形。だが、××の脳内インプラントは、それがただの格闘技術ではないことを瞬時に察知し、未だかつてない速度で警告アラートを鳴らし続けた。

 

 (待テ。計算が、合わないネ……。界異に対して、いくら強く地面へ投げ落としたところで、物理的なダメージなど与えられるはずがない……。なのに、何ゼ、この技は……)

 

 ――技ではない。

 

 それは、投げ落とすという物理的な運動そのものを儀式へと昇華した、呪殺の儀式。彼女の二つ名である“落とし屋”の真の理合。

 

 「――『山嵐』(やまあらし)

 

 黒瀬の身体が、視界の中で美しく、残酷に翻った。天地が反転する。凄まじい重力の加速。しかし、叩きつけられるはずのコンクリートの床は、すでにそこには存在しなかった。

 

 空間が、ドロリと液状化するようにねじ切れている。そこに見えたのは、底のない、果てしない暗黒。空間の裂け目から、無数の鴉の羽が狂ったように溢れ出し、そこから犠牲者である××だけが見えて、そしてxxだけを真っ直ぐに見つめる、禍々しい地獄の門が口を開けていた。

 

 (あ、あああ、あアあアア――ッ!!!)

 

 門の奥から、無数の死者の影のような触手が伸び、××の魂の端を掴んで引きずり込もうとする。ここに落ちれば、肉体だけではない。魂の根源ごと永遠の深層へと叩き落とされる。

 

 “落とし屋”とは、境界の底へ、地獄へと魂を叩き落とす執行人のことだったのだ。合理的な計算も、長年生き延びてきた現実認識も、全てがただの塵となって消え去る。××は人生で一度も味わったことのない、根源的な、魂の底からの死の恐怖に、声を上げることもできず身を震わせた。

 

 頭部が、その「門」の淵に触れようとした、まさにその刹那だった。

 

 ――パキン、と。

 

 安っぽいガラスが割れるような音がして、反転していた世界が、もう一度乱暴にひっくり返った。

 

 

 

 

 

 

 

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