シャドウチェイス   作:P-PEN

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終章 遺されたもの

 

 

 

 ――ガハッ!!!

 

 肺腑の底から競り上がった汚物が、喉を焼いて溢れ出た。視界が激しく明滅する。叩きつけられたのは、コンクリートの冷たさではなく、酷く湿気った安物のマットレスの上だった。

 

 「が、はっ、おえ、ェッ……!」

 

 ××は這いつくばったまま、幾度も胃液をぶちまけた。両耳の奥と脳の一部を破壊されるという、壮絶な経験による三半規管の一時的な機能不全。重力の方角さえ狂った猛烈な眩暈が脳髄を揺らし、世界がメリーゴーランドのように回転し続けている。全身の骨という骨が軋み、肉の繊維が引きちぎれたかのような激痛。

 

 地獄の門に引きずり込まれる寸前、世界が反転した。気がつけば、彼は池袋の天空の廃園ではなく、僻地に用意していた予備のセーフハウスのベッドの上に転がされていた。

 

 「……ッ、ハァ、ハァ……ッ」

 

 震える手で、割れたバイザーの隙間から血と涙に濡れた顔を拭う。強制帰還。空間跳躍による緊急離脱。それが意味するものは、一つしかなかった。

 

 『――残念ながら、今回は点数を付けてあげられないよ』

 

 ヘルメットの内蔵通信機から響いたのは、聞き慣れた、しかし氷のように冷酷な男の声だった。ノイズ混じりのスピーカーの向こう側には、一切の慈悲も、人間的な温かみも存在しない。

 

 『相手を見誤ったね。民間、という肩書きに囚われて本質を見落とすなんて……エンジニアを自称する割には、ずいぶんと大雑把な計算違だね』

 

 「あ……、あな、た……が……」

 

 『勘違いしないでほしい。手を貸してあげたのは、君を哀れんだからじゃない。君には“まだ”使い道が残されているからだよ』

 

 C.C.S.(Curse Crime Supporter)の首領たる採点者(マーカー)の声は、まるで使い捨ての部品の耐久年数を読み上げるかのように淡々としていた。××の命が救われたのは、彼の価値が認められたからではない。ただの壊れかけの道具として、まだ修理し、使用できる資材としての価値が残っていたからに過ぎない。

 

 『すぐにそこを引き払い給え……彼女の追跡は、まだ終わっていないよ』

 

 通信は、一方的に切断された。

 

 「……ッ!」

 

 心臓が、恐怖で跳ね上がる。終わっていない。あの死神は、まだ自分をなぞり続けている。都会を自分の庭と呼び、情報のノイズで完璧に隠れおおせたと盲信していた傲慢さは、今や跡形もなく粉砕されていた。

 

 ××は激しい眩暈に何度も倒れ込みそうになりながら、震える手で這うようにして床を転がった。最低限の予備祭具と、血に汚れた装備を必死にかき集める。耳の奥で、まだ簪が金属を貫き、肉を抉るギリギリという不快な残響が鳴り響いている。冥府の門から漂う死の幻臭が未だに肺に残っている。

 

 背後に、あの黒いコートの少女が立っているような幻覚に怯えながら、怪物は無様に、ただ生への執着だけで隠れ家を脱出した。夜霧の向こうから聞こえるただの風の音が、今の彼には死神の足音にしか聞こえなかった。

 

 

 

 

 

 雑居ビルの屋上には、再び静寂が戻っていた。

 

 空間を侵食していた幾何学模様は霧散し、××が撒き散らした黒い瘴気も、まるで最初から存在しなかったかのように消え去っている。ただ、引き裂かれたプランターの残骸と、無惨に踏み荒らされたコンクリートだけが、そこに地獄があったことを証明していた。

 

 如月紗季は、アスファルトの上に崩れたまま、小さく身体を震わせていた。喉元を締め付けていた変異蔦は、術者の消失と共にただの枯れ葉となって崩れ落ちている。しかし、精神をじわじわと破壊された恐怖と、大切な日常を汚された絶望は、14歳の少女の心に深い傷を刻みつけていた。

 

 パタ、と。衣服の擦れる音がして、紗季の視界に黒いスニーカーが映り込んだ。

 

 怯えて肩をすくめる少女の前に、黒瀬澄は立っていた。

 

 彼女は、散らばったゴミを片付けるかのような、あるいは事務的な点検を終えたかのような、徹底して平坦な足取りで紗季の元へ歩み寄る。その手には、根元から折れ、無惨に潰されかけた沈丁花の苗があった。

 

 「……っ、あ……」

 

 紗季の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちる。祖母の形見。自分が何よりも大切にしていた、無償の愛の象徴。それが、見る影もなく傷ついている。

 

 黒瀬の手の中で、折れ曲がっていた茎が、枯死の淵から一瞬だけ強引に吸い上げられ、茶色く変色していた蕾が、パチパチと音を立てて開花した。そして、目にも留まらぬ速さで花びらが散り、最後に残った花芯がふくらみ、黒く小さな種へと変貌を遂げた。

 

 生命の理を歪める強引な開花。それは苗木自身の寿命を削り取る行為でもあった。種を落とし終えた苗木は、役目を終えたように黒瀬の指先からサラサラと灰となって崩れ落ち、小さな種だけが残された。

 

 黒瀬は、感情の消えた紅紫の瞳でその種を見つめ、それから、ゆっくりと紗季の前で膝を突いた。彼女の手が、そっと紗季の泥に汚れた小さな手を包み込む。その手は、驚くほど冷たかった。まるですべての体温を、機能を維持するためだけに消費しているかのように。

 

 「……この花たちを継げるのは、貴方だけ」

 

 黒瀬の口から漏れたのは、慰めでも、哀れみでもない、ただの淡々とした事実の告白だった。

 

 ――けれど。

 

 助けてくれたのは、物語に出てくるような美しい白馬の騎士ではない。圧倒的に恐ろしく、人間味を排除した、死そのものの化身だった。しかし、その死神が発した、一片の嘘も混じらない事務的な肯定が、紗季の汚されかけた心の輪郭を、辛うじて繋ぎ止めた。

 

 まだ、終わっていない。この花を、もう一度育てることができる。その事実だけが、少女の胸にささやかな、けれど確かな灯火を宿した。

 

 「あ……、ありがとう、ござい、ます……っ」

 

 紗季が声を震わせ、涙を拭って顔を上げた、その瞬間。

 

 夜風が、ふっと屋上を吹き抜けた。

 

 そこには、もう誰もいなかった。貯水タンクの影にも、ネオンの死角にも。最初からそんな少女など存在しなかったかのように、黒瀬澄の気配は完全に消失していた。

 

 ただ、夜空から静かに舞い落ちてきた、一筋の鴉の羽だけが、紗季の手元に残された沈丁花の葉の上に、そっと重なった。

 

 池袋の夜の風が、今度は本物の、甘く優しい沈丁花の香りを、ほんのわずかだけ運んできた。

 

 

 

 

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