銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~ 作:ヒツジ(ラム肉
航海日誌
帝国暦一七三年 雨季 第七週
水が臭い。
魚が臭い。
ペペはもっと臭い。
新入りが三人吐いた。
船長は「まだ食える」と言った。
一発殴りたくなった。
――ゴメス
海は青い。
空も青い。
どこまでも青い。
だからこそ腹が立つ。
「おい新入り!」
「は、はい!」
「吐くなら風下で吐け!」
「もう吐くもんありません!」
「じゃあ胃でも吐いとけ!」
「無茶言うなぁ!!」
甲板に笑いが広がった。
笑わなければやっていられない。
帝国輸送船《サンタ・クララ号》。
名前だけは聖女のように立派だ。
実態は海を漂う木箱である。
帆は擦り切れ。
綱は毛羽立ち。
船底には得体の知れない何かが張り付いている。
そして乗組員は全員臭い。
俺達は水兵だ。
偉くもない。
金もない。
死んでも誰も困らない。
帝国の海を支える歯車。
いや。
歯車ですらない。
交換用部品だ。
「ゴメス」
振り返る。
ペペだった。
肩幅だけは立派な男だ。
脳みその代わりに筋肉が詰まっているという噂がある。
たぶん本当だ。
「飯だぞ」
「飯って顔してねぇな」
「今日は豪華だ」
「嫌な予感しかしねぇ」
鍋の方を見る。
そして後悔した。
臭い。
とにかく臭い。
大鍋の中では黒っぽい液体が泡を吹いていた。
魚臭い。
酒臭い。
焦げ臭い。
何かが間違っている臭いがする。
「材料は?」
炊事担当のディエゴが指を折る。
「痛んだ酒」
「うむ」
「その酒で薄めた水」
「うむ」
「臭くなった干し魚」
「うむ」
「黒くなり始めた玉葱」
「帰りたい」
周囲の水兵達が笑う。
「待て待て」
ディエゴが鍋を指差す。
「今日は特別だ」
「嫌な予感しかしねぇ」
「焼玉入りだ」
俺は黙った。
新入りは首を傾げた。
「焼玉?」
ディエゴは砲弾を掲げる。
砲弾だった。
本当に砲弾だった。
脂が塗られている。
砲戦の際、敵船へ火を付けるための焼玉である。
それを火の中へ放り込む。
真っ赤になる。
そして。
鍋へ。
ジュワァァァァァッ!!
蒸気が吹き上がる。
新入りが悲鳴を上げた。
「なんで鍋に砲弾を入れるんだ!?」
ディエゴは真顔だった。
「早く煮える」
「そういう問題か!?」
周囲は爆笑した。
「去年なんか砲身に鍋突っ込んで温めたぞ!」
「嘘だろ!?」
「本当だ!」
「しかも成功した!」
「成功するな!!」
甲板は笑い声で揺れた。
笑っている間に配給が始まる。
木椀を受け取る。
黒い。
液体なのか泥なのか判別できない。
臭いも酷い。
魚。
酒。
玉葱。
焦げ。
塩。
全部が喧嘩している。
俺は黙って飲んだ。
不味い。
塩辛い。
苦い。
魚臭い。
だが。
温かい。
それだけは本当だった。
周囲も黙って啜る。
誰も残さない。
残せば次の飯まで持たない。
腹が減る。
弱る。
倒れる。
そして海へ。
それがこの船だ。
「どうだ新入り」
古参が聞く。
新入りは震えながら答えた。
「……不味いです」
「安心しろ」
古参は笑った。
「去年よりマシだ」
「去年何食ってたんです?」
全員が空を見た。
「聞くな」
「聞かない方がいい」
「人生には知らなくていい事がある」
新入りは黙った。
その時。
鐘が鳴る。
見張り交代の合図だった。
海を見る。
青い。
何もない。
どこまでも。
何もない。
だから皆、港を目指す。
港には水がある。
港には酒がある。
港には女がいる。
港には肉がある。
そして何より。
明日の飯がある。
「あと何日だ?」
誰かが呟く。
航海士が答えた。
「順調なら三日」
甲板が歓声に包まれる。
「肉だぁぁぁ!!」
「酒だぁぁぁ!!」
「俺は風呂入る!!」
「贅沢言うな!!」
「じゃあ女だ!!」
「もっと贅沢だ!!」
笑いが起きる。
だが。
その笑いの向こうで。
船長室の扉が開いた。
腹の出た船長が姿を現す。
手には葡萄酒。
上等なやつだ。
俺達のとは違う。
船長は一口飲む。
そして甲板を見渡した。
「水の配給を減らす」
歓声が止まった。
「港まで持たん」
沈黙。
誰も言葉を発さない。
だが皆思った。
もう限界だ。
俺もそう思った。
海を見る。
水平線の向こう。
何もない。
何もないはずだった。
だが。
鳥が飛んでいた。
一羽。
また一羽。
俺は立ち上がる。
「どうしたゴメス?」
ペペが聞く。
俺は遠くを見る。
風。
潮。
雲。
鳥。
そして。
「陸が近い」
「見えねぇぞ?」
「見えなくても分かる」
ペペは怪訝そうな顔をした。
俺は海を見た。
そして小さく呟いた。
「……生き残れるかもしれん」
その言葉を。
まだ誰も理解していなかった。